使命(1)
王都への道のりは長かったが、誰も口をきかなかった。
三日と半日。馬車の中で交わされたのは、最低限の指示と合図だけだ。
教会本部に到着すると、休息を取る間もなく、ローワンは司祭に促されて歩き出した。
高い天井。白い石の床。
足音が、やけに大きく響く。
「こちらへ」
司祭は振り返らない。
ローワンは一度も立ち止まらず、謁見の間へと入っていった。
——その背を、セリウスは追おうとした。
ほんの一歩。
だが、視界を裂くように、槍が差し出される。
「……っ」
聖騎士の切れ長の瞳がセリウスを制止させた。
正直なところ、長旅で視界が揺れていた。
日差しのない石の回廊でも、頭の奥がずきずきと痛む。
それでも足を止めなかったのは、ローワンがこの先で——何を問われ、何を量られるのかを知っていたからだ。
「……座っていろ」
聖騎士は、吐き捨てるように言った。
本来なら、言葉すら交わしたくないのだろう。
槍先が、わずかに下がる。
そこから先は、許されない距離だった。
セリウスは、言われた通り、壁際の長椅子に腰を下ろした。
扉の向こうに、ローワンの気配は、もうない。
「ルチア、あとは頼んだ」
もう一人の騎士が短く言い、枢機卿と神官と共に回廊の奥へ消えていった。
足音が遠ざかると、白い石の空間に残ったのは、二人分の呼吸だけだった。
ルチアと呼ばれた聖騎士は、槍を立てたまま、動かない。
——近くで見ると、なおさらだ。
色素の薄い髪。
光を避けるように伏せられた睫毛。
長旅の疲れを隠しきれず、呼吸は浅い。
(……脆い)
そう思うのは、簡単だった。
だからこそ、かつては、苛立った。
以前、この回廊に立った男のことを、思い出す。
——生き延びたことを、罪だと言うか。
王弟アルヴェル。
黒髪に茜色の瞳。
まっすぐで、逃げ場を与えない視線。
不意に、胸の奥がちくりと疼いた。
あの時、自分は確かに言われたのだ。これは呪いではなく、選択だと。白い悪魔は、何も奪っていないと。
ルチアは、視線をセリウスに戻す。
槍を握る手に、わずかに力が入った。
「……」
声をかけるつもりは、なかった。必要以上に関わる気もない。だが。
「……あの少年は」
気づけば、口が動いていた。
セリウスが、わずかに顔を上げる。
「自分で、来ると決めていたようだな」
確認だった。非難でも、同情でもない。
セリウスは、一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「はい」
それだけ。
ルチアは、ふっと鼻で息を吐いた。
「そうか」
短い言葉。
それ以上、何も続けなかった。
*
扉が閉じる音は、思ったよりも静かだった。
高い天井。白い石柱。
色を抑えた光が、床に刻まれた文様を淡く浮かび上がらせている。
謁見の間は広い。
だが、空虚ではなかった。
祈りと裁定とが幾重にも沈殿した、意思を持つ空間だった。
「前へ」
司祭に促され、ローワンは一歩、踏み出す。
教皇は、すでにローワンを見ていた。
ほんの数ヶ月前、祭儀の帰路で並んで歩いた人物。
あの時と同じ、内側を量るような静かな眼差し。
だが今は、空気そのものがわずかに軋んでいる。
「ローワン・ランドフォード」
名を呼ぶ声は、柔らかだった。
ローワンは顔を上げる。
「やはり、お前だったか」
教皇は白杖を指先で転がした。
亡き父王に、どことなく似た聡い目。
あの時は見逃した。
だが今は、見逃してはならぬ位置に立っている。
「出自については、問わずとも良さそうだ」
そう言いながら、尚も張り詰めた空気のまま教皇は言葉を続ける。
「御子は常に政の中心だ。
お前がセリウスの盾となり、王弟とすげ替えられ、王宮であれを好きなようにさせるわけにはいかぬ」
慈悲でも、恫喝でもない。
現実を、そのまま差し出す声音だった。
ローワンは視線を逸らさない。
一度、喉を鳴らし、小さく息を整える。
「……聖下からの問いに、答えるために来ました」
教皇の眉が、わずかに動く。
「……ほう?」
「家族としてどう思うか、と訊かれましたが……。
あの時は、まだ言葉に出来ませんでした」
幼い声だが、揺れはない。
「今なら言えます。
僕は、彼を聖なる存在にも、贄にも戻したくない。王宮の道具にも、教会の所有物にも——したくないのです」
毅然とした言葉だった。
「……なるほど」
感心とも、警戒ともつかぬ低い声。
「しかし、それではまた暴発するやも知れん。あの者の力は膨大だ」
溢れれば荒れ、枯れれば器が朽ちる。
だからこそ管理が必要なのだ——そう言いたげに口角を歪ませている。
「暴発は起きません」
はっきりとローワンは言った。
「……なぜ、そう思う」
王弟と同じ顔で、同じ言葉を口にする少年に、教皇の背に、わずかな不快が走る。
「ティアベアラーの力は、溜め込めば溢れて荒れ、使い果たせば器が軋む——聖下はそう仰いました」
一瞬の沈黙。
「でも、あれは本当に“癒しの力”の話でしたか?」
ローワンは一歩も引かない。
「僕、モルフォンド領で古い資料を読みました。
ティアベアラーについて書かれた、ずっと昔の記録です」
声は幼い。だが言葉の筋は、驚くほど落ち着いている。
「そこに、力を使い果たして命を落とした人たちのことは書かれていましたが、……暴発の記述は、どこにもなかったんです」
教皇は口を挟まない。
「現在においても、前例はありません。あの青白い光も、皆が口を揃えて『初めてだ』と言います」
「だからこそ恐ろしい。だから管理せねばならぬ」
王弟にしたように、教皇は言い切った。
「しかも、その力は枯れず再生している。
理を逸脱した御子ほど、危険なものはない」
だがそれでも、ローワンは怯まない。
「聖下」
小さな拳が、きゅっと握られる。
「僕に教えて下さった、あの言葉。
溜め込んで、溢れて荒れるのは——力ではなく、心そのものですよね」
——モルフォンドめ。
余計な知恵を授けたものだ。
「ほう……守り人になるとでも言うか?」
教皇は白杖を握る指に、わずかに力を込める。
石突が床に触れ、乾いた音がひとつ、謁見の間に落ちた。
「お前一人が守り人になったところで、何になる。
そもそも、あの御子一人にのみ情けを掛けるなど、理に反する」
慈悲は、平等でなければならぬ。
一人を特別扱いすれば、信仰は歪み、秩序は崩れる。
教皇の視線が、まっすぐローワンを射抜いた。
「御子は“存在”そのものが象徴だ。
守られるべきは個ではない。
制度であり、均衡であり、国と教会の関係だ」
空気が重く沈む。
その圧の中で、ローワンは一度だけ、息を吸った。
「……僕も、一人で守れるとは思っていません」
少年らしい声音。だが、そこに逃げはない。
「だから“守り人”になるんじゃない。
僕は、守り人や教会の管理が必要なくなる仕組みを、作りたいんです」
教皇の指が、ぴたりと止まる。
「――仕組みを作る、だと」
教皇の指先が、白杖の柄の上でわずかに動いた。
ほんの一瞬。だが、確かに反応だった。
(この少年……)
自ら盤上に上がる覚悟か。
すずらん祭りで対面したときの姿が、脳裏をよぎる。
あのときも聡いとは思ったが——それでもまだ、どこにでもいる“賢い子供”の域を出てはいなかった。
(だが、今は)
語っていることは、王弟アルヴェルと同じだ。
御子を道具にしない。人として扱う。
温室育ちが考えそうな、薄ら寒い——綺麗事。
それなのに。
この少年の言葉には、理想を掲げる者にありがちな熱も、王弟のような危うい感情もない。
あるのは、すでに犠牲と摩耗を計算に入れた者の、乾いた決意。
しかも、恐ろしいほどに現実的な。
(……そのために、カードを切るのか)
教皇は、視線を細めた。
この子供は、そうまでして、この国の在り方そのものを組み替えようとしている。——王宮に戻れば、二度と無垢ではいられぬと知りながら。
「セリウス様だけのためじゃない。
心を支える仕組みが無いまま、力だけを管理するのも——同じくらい歪んでいる。
だから変えたい。それだけです」
ローワンは、教皇を見据えた。
「聖下も、御子が力を“生み出せなくなる”ことは、避けたいはずですよね」
言葉は、刃ではない。
だが、核心だった。
長い沈黙ののち、教皇はゆっくりと白杖を床に立てた。
「……確かに、王宮に御子を渡し続けるのは得策ではない」
ローワンの瞳が、わずかに揺れる。
「力の源が何であるか。このままでは遅かれ早かれ王宮の連中も知るだろう。そうなれば王宮は御子を囲い、永久的に力を引き出す算段を始める」
白杖が、静かに床を叩く。
「教会は、御子を守るために存在している。
そして同時に——王権に余計な力を与えぬための、楔でもある」
教皇は一つ息を吐いた。
全く、予想外の事が起きている。
それなのに、この状況を楽しんでいる自分に驚いてもいた。
「私は元より、セリウスを王宮の永遠の道具にするつもりはない。ましてや他のティアベアラーを差し出す気も、ない」
その言葉には、迷いがなかった。
信仰ではなく、政治の判断だ。
「だからこそ——お前だ、ローワン」
教皇の視線が、真っ直ぐに少年を捉える。
「王宮に戻るのは、お前一人でよい。
王族として、正当な血として、制度を語れる立場で。セリウスを王宮から切り離せ」
空気が、微かに軋んだ。
「ベアラーを“神話”からも“道具”からも降ろす役目を担うのだ」
教皇は、淡々と続けた。
「お前は、守る側に回る代わりに、汚れることを選ばなくてはならぬ。
王宮で制度を作るということは、血も、犠牲も、切り捨ても伴う。それでも行くか。“家族”ではなく、“王族”として」
ローワンは、すぐには答えなかった。
小さな胸が一度、ゆっくりと上下する。
「……条件があります」
教皇の眉が、わずかに動く。
少年が条件を口にする。それ自体が、異例だった。
「僕は、教会と戦いたいわけじゃない。
でも、守ると約束された人たちが、守られないなら——沈黙はしません」
少年は、まっすぐに立っていた。
「僕に……王宮からセリウスを引き離せとおっしゃるなら、教会はセリウスを守るという責任を“放棄”して下さい。
庇護の名の下に、行動・交友・意思決定を制限しない。それが破られるなら、僕は知っていることを、すべて公にします。
取引とは、そういうものでしょう?」
白杖が、床に触れる音がした。
教皇は、しばらく黙っていた。
やがて、ほんの僅かに笑う。
「ハッ……なるほど」
それは、愉悦ではない。
同じ危うさを持つ者を見つけた者の笑みだった。
「脅し方を知っておるな、ローワン。
しかも——信仰を傷つけぬやり方で」
教皇は、白杖を握り直す。
「よかろう。ならば我らは、お前に“未来”を預けよう」
制度のための言葉。
均衡を保つための判断。
——そのはずだった。
だが教皇の瞳の奥には、ほんの一瞬だけ、別の光が宿っていた。
それが何であるかを、この場で言葉にすることはなかったが。




