【Spin-off】王妃 3
二人の少年の立ち位置は静かに、だが確実に変わってしまっていた。
アルヴェルは常にセリウスの前に立ち、片時も離れようとしなかった。
事件のショックが冷めぬうちに王太后は逝去し、御子の務めは当分なさそうだったが、シャルルが家へ連れ帰ろうとするのを、セリウスはやんわりと断った。まるで何事もなかったように静かに笑って、アルヴェルの後ろに付き従っている。
それは、護られているのではなく——護らせてやれなかった罪を、引き受けているようにも見えた。
アルヴェルが学びの席にある間、彼は王宮で最も安全な空間で過ごした。
国王が彼の相手を務めることが増えたのは——あるいは、罪滅ぼしの意味もあったのかもしれなかった。
「忘れた方がいい」と諭す大人たちの言葉通り、セリウスは王弟の存在そのものを切り取ったかのように、何も語らず、怯えることも、泣くこともなかった。
皮肉にも、彼自身が平気そうに振る舞うたび、国王の横顔が翳るのをリディアだけは知っていた。
ある夜。
書類に目を落としたまま、フェルナードがふと手を止めた。
「……不思議なものだな」
独り言のような声だった。
リディアは顔を上げる。
「守るべきものは増えたはずなのに——守れなかったものの方が、重く残る」
ほんの小さく口角を上げ、自嘲する。
珍しく弱気だ。まるでセリーヌの様なことを言うのだから。
リディアは一瞬だけ言葉を探し——そっと一歩だけ近づく。机の上に置かれていた書簡を整え、乱れていた燭台の位置を直した。
それは自分の心を整えるための動作でもあった。
「弱音を吐くのが、下手なのですね」
そう言うと、フェルナードはぱっと顔を上げ、リディアの顔を見た。
視線が合う。逸らせばよかったのに、と遅れて思ったが、出来なかった。
その目は、リディアの求めているものの形をしていた。
寄り添うことを、拒んではいない。
むしろ——許している。
ただ一歩、踏み込めばいいだけだった。そうすればきっと、この人の孤独は、少し軽くなる。
(……セリーヌなら)
いつものように想像して。
だがリディアは、わずかに息を吐き——
「こういう時、黙って肩を抱くべきなのでしょうね」
と小さく笑って、それ以上は距離を詰めるのをやめた。
フェルナードはしばらく何も言わなかったが、
「……君は、それでいい」
彼もまたふっと眉を下げ、笑った。
あの日、フェルナードの決断は正しかった。
実弟から王族の名を剥ぎ、すべてを断ち切って。
妻子ごと、遠くへ。
あまりにも迅速で、あまりにも徹底した処断だった。
そして——最後に残ったものに、蓋をした。
たとえ未遂だろうと、それが教会に知られれば、ただでは済まない。王国そのものが揺らぐ。そう判断して、口を閉ざさせた。
怖い思いをした、あの子に。
あの日、国王フェルナードは守ったのだ。
王国も。秩序も。未来も。
それと引き換えに——息子と、あの白い子の心に、決して戻らないものを残して。
リディアは距離こそ詰めなかったが、しばらくその場に留まった。
部屋には、紙をめくる音も、灯りの揺れる気配もない。沈黙を破らぬままじっと待っていると、やがてフェルナードは口を開いた。
「君の言うとおり、こう言うのは苦手なんだよ」とそう前置きをして。
「あの男の振る舞いは、目を逸らしてよい類のものではなかった。報告は、何度も上がっていた。なのに私は……ずっと、甘い期待をしていた。
……今回の事を、やり過ぎだとは誰も言わない」
それは懺悔だった。
一度口からついて出た言葉はとめどなく、やがて自分を責めるものになる。
「……むしろ、遅過ぎたくらいなのだな」
一度自嘲して、
「あれは昔から、私より才があった。……分かっていたはずなのに」
そう続けた。わずかに視線が落ちる。
「息子達も、まだ未熟だ。だから——支えになるだろうと、都合よく思っていたのだ。あのプライドの高い男が、誰かの下に……まして兄の子どもの下につくなど、耐えられるはずがないのに。
……自惚れも、良いところだな」
手元の書簡がカサッと音を立てる。
「どれだけ陛下が心を痛めても、……それでも」
気付けば、言葉が先に出ていた。
「殿下のなさってきたことは——殿下の責任です」
言ってから、わずかに息を呑む。
慰めではない。
ただの事実だ。
「あの方が、あの生き方を選んだことまで、陛下の範疇には……ならないでしょう」
不敬だと言われるだろうか。
それでも——背負う必要のないものまで、背負ってほしくはなかった。
フェルナードは俯いたまま肩を震わせ、やがて、くっと息を漏らした。
「……君も、慰めるのが下手だな」
そう言って、初めて顔を上げる。
ほんの僅かに、声が柔らいだ。
「……だが、不思議と受け入れられるものだ」
そのまま、何かを思い出すようにフェルナードは視線を固定し、顎髭を撫でる。
言おうか言うまいか、逡巡するときの癖だった。
「……アルヴェルのことだが」
そして——唐突に、話題が移る。
「兄と、あえて差をつけている」
淡々と、感情をわざと排した口調だった。
「将来、並び立たぬように。競わせぬように」
やはり、と。胸の内で、ひとつ頷く。
「アルヴェル殿下は……セリーヌ妃殿下に似て、お優しすぎるきらいがありますからね」
ゆっくりと、言葉を選んだ。
「その点、国を統べるという意味では、アーサー殿下の方が相応しい。……それは、理解できます」
フェルナードは何も言わずに聞いていた。リディアがこの先にまだ何かを言うのを分かっている、そんな間だった。
「……ですが、その差がそのまま“備えの差”になってしまう可能性も、あるのではないですか」
フェルナードの視線が、わずかに上がる。
「……もしも、殿下ご自身が限界を決めてしまえば」
口にしてから、ほんの一瞬、間が落ちる。
「万が一の際になって初めて、王の役割を担わせるには——あまりに重いかと」
静かな声だった。
「あの方は王弟殿下とは違います。……兄上を慕うだけでなく、追いつこうと懸命に励んでおられます。
私には、差をつけるには惜しいほど、王たり得る存在になる素質が、あるかと思うのですが……」
フェルナードはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと目を閉じると、
「……そこまで、見ているのか」
小さく呟いた。
力んでいた心を、そっと解くように。
リディアもまた、わずかに肩の力を抜く。
「それは……おしめの頃から見ていた子達ですもの」
リディアの返答に、フェルナードはくすりと小さく笑った。
「……アルヴェルは、面影は私に似ているが——内面は母親似だな。君の言う通りだ」
そのまま少しだけ遠くを見る。その目には、幼い日の彼らが、今も変わらず映っているのだろうとリディアには分かった。
「アーサーは……弟と歳が離れている分、自立が早かった。明朗に見えて、よく人を見て隙がない。
……誰に似たかと問われれば、私の父だろうな」
そして、わずかに苦く笑う。
「あの歳で、自分の意見をブレずに持ち、弟も御子も——同じように“守るべきもの”だと思っている」
「そうですね」
リディアは静かに頷く。
「ですがアルヴェル殿下も……いまや兄上と同じ場所に立っておられますよ」
一拍置いて、
「守られるだけの立場を、アルヴェル殿下はやめたのです。——あの日から」
フェルナードの眉が、再びわずかに寄る。
その表情が、深い悔恨に沈みきる前にリディアは続けた。
「幼い子どもが、変わろうとしているのです」
声は静かだったが、確かな芯があった。
「ならば——大人である私たちが、それを支えるべきだと思います。……私に出来ることは限られていますが、それでも」
王宮に来てから初めてかもしれない。リディアは自らの意思で、選び取ろうとしていた。
一度言葉を切り、胸の内でそれを確かめてから、静かに口にした。
「私の出来るすべてで、殿下方を支える所存です。
何より……それは、私の親友が願っていたことでもありますから」
かつての夢は形を変え——今ようやく、自分を燃やす糧になる。
セリーヌ。私の最愛。
——彼女の残した人たちを、守りたい。
「……君らしい」
フェルナードは、そう言った。
泣き出しそうに、くしゃりと表情を歪めて。
それきり、続く言葉はなかった。
だが——確かに、重なったものがあった。
*
セリーヌの命日。
庭園の一角は、今年も赤に染まっていた。
燃えるような色が、視界を埋め尽くす。
彼女の好きだった色は、もっと柔らかいものだったはずだった。
淡いピンクや、やさしい黄色。それなのに——なぜか、毎年こうして赤で満たされる。
故人を偲ぶにしては、あまりにも鮮やかで、あまりにも強いその色。今年もまた、同じ光景が広がっていた。
一面のゼラニウム。
ひとつ違うのは、今年は同色のアネモネも添えられていたことだ。
庭に出て、それを眺めていると、背後に気配がした。振り返れば、フェルナードが立っている。
静かに礼を取り、わずかに身を引くと、空いた場所に、彼は何も言わず並び立った。当たり前のように。
ふっと、小さく笑う気配がする。
言葉は交わさない。
ただ、同じ景色を見ている。
ただそれだけのことが——以前の二人にはなかった距離だった。
「なぜ、赤色なのですか」
ぽつりと、独り言のように言う。
答えを求めたというよりは、零れてしまった、という方が近い。
彼女のことなら、何でも知っているつもりでいた。けれど実際には——好きな花も、その色さえも、知らない。
居なくなってから、自分の知らなかった彼女をひとつずつ知る。それは、どうしようもなく——みすぼらしく、受け入れ難いものだった。
「ああ……あれは」
しばしの沈黙のあと、フェルナードが、静かに口を開いた。
「あの人が、もうそろそろ……と言う頃に言ったんだよ」
視線はそのままに、困ったように笑って、続ける。
「居なくなっても思い出してほしいから、と。君にね」
「……えぇ?私、ですか?」
言葉の意味が判らず、けれどその花の意味が、まさか自分に向けられたものだったと知って、リディアは目を見開いた。
その反応が可笑しかったのか、フェルナードは穏やかに笑う。
「君の好きな色だと、セリーヌが言っていた。
自分が居なくなった後、君が後妃に相応しいとも……ああ、こっちは伝えるなと言われていたんだったな」
思わず口に手を当てる仕草に、リディアは小さく笑った。
「……とにかく。自分が居なくなったあと、君には君らしくいて欲しいから、と。彼女なりのエールだろうな」
フェルナードはふっと笑う。
だが今度は——しっかりとリディアを見ていた。
「亡くなる前に、自分が亡くなった後の注文をするなんて、ああ見えて実は、結構肝が据わった人だったのかも知れない」
息が、ひとつ落ちる。
『思い出してほしい』——それは、セリーヌを、と言うより、リディア自身を、と暗に言われた気がした。
思い上がりかも知れない。
けれど、セリーヌはずっと『リディアらしい』リディアが好きだと言ってくれていたから。
セリーヌは、もういない。
それでも——自分をここに繋ぎとめていたものは、消えてはいなかった。
そしてそれは、鎖ではなかった。
「因みに……」
フェルナードはぽそりと口を開く。
気づけば、ほんのわずかに距離が近づいていた。
「彼女が選んだ、あの花の花言葉を知っているかい?」
妙に焦れったい言い方に、リディアは思わず眉を寄せて「花言葉?ゼラニウムのですか?」と聞き返した。
意識して詰めたわけではなかったが、隣にいる人の気配が、やけに近い。
ふと、フェルナードが小さく息を吐いた。
「……真の友、信頼、それから」
すっと、フェルナードの手が伸び、リディアの肩に触れた。
「……君ありて幸福」
その手が腕を伝って落ち、リディアの指に絡む。
「ひとつ、懺悔したい」
「なん、です?」
「父君が亡くなった後、君に里帰りを勧めた事があっただろう?」
「……あ、ええ」
どきりとした。彼をはっきりと意識したあの日のことを忘れはしない。
だが、後に続く言葉は全く予想外だった。
「あの時、半分は君を労った。けど……のこり半分は、君たち二人を離そうとした」
フェルナードは懺悔と言った通り、少し顔を俯ける。だが指は一層深く絡んだ。
リディアはただ黙ったまま、続きを待つ。
「いつだってセリーヌは君に全幅の信頼を置いていた。私以上に。ちょっと……いや、かなり妬けてね」
耳がほんのりと色付いている。
自分より幾分か歳上だというのに、初めて可愛らしいと思った。
「……君は君で」
不意に顔を上げ、じとっとした目でこちらを見る。
「私と番っても、心はずっとセリーヌのものだった」
思いもよらない告白が可笑しくて、つい握り込まれたその手を、そっと握り返した。
「そなた達の前では、私の入る隙など無さそうだった」
男は言って、肩を竦めて苦笑する。そんな風に思っていたのが意外だった。
「……彼女は陛下を愛しておいででしたよ」
「君は?」
一瞬だけ、言葉が喉に引っかかった。
あの時には既に慕っていただなんて、知る由もないだろう。
「……陛下は、意外と欲張りなのですね」
絡んでいた手指はいつの間にか腰に回っていたが、リディアはそのままにした。
振りほどく理由は、いくらでもあったはずなのに。
(……ああ)
胸の奥で、何かが静かにほどける。
セリーヌは最初から分かっていたのだろうか。
自分が愛した人を、親友もまた愛するだろうと。
彼女の残したものを、奪うことになる気がしていた。ずっと。
でも、むしろ。
今はようやく、ここにいていいのだと、許されたような気がする。
(……花言葉)
ふと。先ほどの言葉が思い起こされた。
フェルナードはあれを、セリーヌが選んだ花と言った。
だがもう一種類、アネモネは?
「あの……ひとつお聞きしても?」
視線を上げる。
フェルナードは、何も言わずに続きを待った。
「なぜ今年は、アネモネを?」
フェルナードは一度視線を外して、それから再び彼女を見た。
「それは——セリーヌと君に、私から」
花々が風に靡いて揺れている。
赤いアネモネの花言葉を知るのは、もう少し経ってからの事だった。
*
時は経ち。
王宮から遠く離れたランドフォード領に、リディアはいた。
王都で物騒な事件が起きていると、人伝に聞いたのはつい先日のことだった。
庭に出て、土に触れていると——この辺りでは見慣れない青年が、門扉の前に立っているのに気づく。
「すみません。こちら、ランドフォード領主のお屋敷で間違いないでしょうか」
「ええ、合っていますよ。ご用件は?」
手を軽く拭いながら歩み寄る。
青年は一度、周囲に人の気配がないことを確かめてから、わずかに声を落とした。
「……モルフォンド卿より」
「——まあ、それは」
リディアの目が、ほんの僅かに細められる。
「リディア様で、お間違いありませんか」
「ええ……そうよ」
青年は懐から書簡を取り出すと、門扉の隙間から差し出した。
リディアはそれを受け取り、封を切る。ほんの数行に、必要なことはすべて記されていた。
目を走らせ——読み終えるよりも早く、答えた。
「あの……本日中にご返事を、と仰せつかっております」
「そう。では——承知した、と」
顔を上げぬまま、静かに言う。
「え……?」
伝わっていないと悟り、今度は青年の方をまっすぐに見た。
「承知した、と伝えて。……手紙は危険だから」
一拍置いたその言葉に、青年の表情が強張る。
「……は、はい!」
深く一礼すると、青年は足早にその場を去っていった。
門の向こうから気配が消えるのを見届けてから、リディアは手元の書簡へと視線を落とす。
——土の匂いが、わずかに風に乗っていた。
それを指先に感じながら、ゆっくりと紙を折る。
支えるべきだと、大口を叩いておいて。
結局は、あの後——彼らを残して逃げて来てしまった。
たった一人を守るために。
シャルルの気持ちが、手に取るようにわかる。
あの人は、あの人なりに守ろうとしているのだ。
断ることは容易い。
だが——考えるよりも先に、答えは出ていた。
これは、贖罪ではない。
借りを返すだけ。
「……そうと決まれば、早めに準備しなければね」
もうじき、寒い冬が来る。
薪を用意しよう。凍えることのないように。
古びた図書室も換気して、不安な日には本の世界に逃げ込めるように。
庭も手入れして——やがて来る春とともに、その傷ついた心が少しでも癒えるように。
今もセリウスは、甘んじて護られる側にいるのだろうか。
そしてアルヴェルは、また「守れなかった」と心を痛めているのだろうか。
「私は自分の人生を生きている。——次は、あなたの番よ、セリウス」
本当は、守られるよりも守る側にいたい子。
弱い王子を、強く見せてくれた子。
「ばあや!」
「はあい、奥さま」
「丘の上の別荘なんだけれどね……」
ミーナを呼んで指示を出していると、屋敷の戸が開き、栗毛の少年が顔を出した。
「母さん、誰か来るの?」
「ああ、ローワン」
造形こそ似ているが、あの頃のアルヴェルのような快活さはない。
多感な時期に差しかかり、最近では何を考えているのかも、よく分からなくなってきている。
「ええ、丘の上にね。塀の向こうは、もう“他人の領地”ですからね?くれぐれも勝手に入ってはだめよ」
忠告をせずとも、この子はそんな危険を冒しはしないだろう。
そう思いながらも、リディアは一瞬だけ、ローワンの視線の先を追った。
丘の向こう。
塀の外。
まだ見ぬ誰かのいる場所。
ローワンは、何も言わずにただ頷いた。
「分かってるよ」
その声音は、幼さを残しながらも、どこかひどく落ち着いていた。
リディアはそれ以上何も言わず、小さく微笑む。
——まだ、大丈夫。
そう思った。
冬が来る。
静かな季節が、この地を包む。
その向こうにあるものを、今はまだ知らないままに。




