【Spin-off】王妃 2
あれから数ヶ月のうちに、セリーヌは旅立った。
それからの一年、王宮はひっそりと静まり返っていたが——長い冬が明ける頃、水面下では密やかに、新たな妃を立てる機運が高まりつつあった。
呼び出されたのは、宰相の執務室だった。
「ですから……私などではなく、もっと若くて家格の宜しい令嬢が相応しいと、何度も申し上げているではありませんか」
ややうんざりとした面持ちで、リディアは言う。
だが向かいに座る宰相は、変わらず穏やかな表情のまま、静かに首を振った。
「そうは言うけれど。あなたであれば王子殿下方の不安が最も少ない。——それが宜しいと、陛下も仰っておるのです」
「宰相殿……。私は今やただの侍女です。身寄りもない私など、王国にとって何の旨味もないでしょう?」
肩を落とし、半ば呆れたように返す。
だがその言葉に、宰相の目がわずかに開かれた。
「旨味なら、ございます」
穏やかだった声音に、はっきりとした芯が通る。
リディアは思わず視線を上げた。
「今、世界は——自分たち人間の力を、改めて見直し始めています。祈るだけではなく、我ら自身が立ち上がり……あの忌まわしき災害に、二度と屈することのないように」
「……それが、なんだと言うのです?」
問い返す声は、自然と硬くなる。
「あなたの父君は、その先頭に立っておられた」
静かに告げられたその言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
「……父を、祭り上げる気ですか」
低く、抑えた声だった。
宰相は首を振る。
「いいえ、そうではありません」
はっきりと否定する。
「お父上の築かれた堤防や灌漑設備——あれは我らヴァルセニアの同胞であり、いまや時代の先端をゆくトルキア共和国の技術です」
淡々と、しかし確信をもって続ける。
「そして、あなたにはその血が流れている」
一拍置いて。
「半分は、トルキアの血を」
リディアは言葉を失った。
父の背中。
水路の流れ。
土の匂い。
それらが、遠いものではなく——ここに繋がっているのだと、突きつけられる。
「つまり……」
乾いた声が、ようやく形になる。
「架け橋になれ、と?」
口にした瞬間、その意味の重さが遅れて沈んできた。
王妃として。
母として。
そして——国と国とを繋ぐ者として。
それは、あまりにも多くを背負う役だった。
宰相は、静かに頷く。
「ええ。あなたにしか出来ぬ役目です」
王族預かりとなっていた故郷——ヴァルグレン領は、ほとんど放置されたままだった。
領民の多くは周辺領へと吸収され、帰属を変えた。
復興の優先順位は低く、荒れた土地と、使われぬ水路だけが残されている。
——あの場所だけが、時間から取り残されたように。
「仰る事は分かりました」
宰相の前で、リディアは静かに口を開いた。
「でしたら——後妃の任をお受けするにあたり、ひとつ条件がございます」
まっすぐに視線を向ける。
「あの地を——残していただきたいのです」
リディアはわずかに間を置き、慎重に続けた。
「誰かが、いつか受け継げるように。人が、戻ってこられる形で」
宰相はすぐには答えなかった。
指を組み、わずかに眉を寄せると
「……難しいな」
そう、低く言った。
「未だ持ち直していない領地も多い。人のいないヴァルグレン領の修繕に資金を回せば、諸侯が黙ってはおるまい。自領への援助を優先しろと、必ず声が上がる」
もっともな理屈だった。
だが、リディアは引かなかった。
「では——朽ち果てさせるおつもりですか」
静かに、だがはっきりと返す。
「災害に持ち堪えた灌漑が失われれば、人はそれを“奇跡”だったと片付けてしまうでしょう。
——祈りで救われたのだと。人の手で成し得たものではなかったのだと」
その声には、わずかな熱が宿っていた。
「それでは——何も残りません」
宰相の目が、僅かに細められる。
リディアはさらに言葉を重ねた。
「今すぐ、村に人を戻せと申しているわけではありません。
父がやり残したものを——あの場所で、誰かが継げる形を残していただきたいのです。
研究としてでも構いません。名目は、いかようにも整えられるでしょう?」
——あくまで理を通すように。
「トルキアとの架け橋になれと言うのなら、これは優先事項のはずです」
言い切った。
宰相はしばらく黙していたが——やがて、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
その眼差しに、わずかな感心が混じる。
「やはり、いい顔をなさる。リディア殿」
宰相はふっと表情を緩めた。
その静かな笑みの奥に、わずかな警戒が混じっていたのをリディアは知る由もなかったが。
*
孤独。
それが、最初に抱いた感想だった。
かつてセリーヌがそうしてきたように、侍女が囲むその中央にリディアは座った。
誰もが、こちらを見ている。けれど——誰も、隣にはいない。
ああ、こんな気持ちだったのか。
ようやくと言うべきか。
セリーヌのいた世界に、追いついてしまった気がした。
王宮は、良くも悪くも「王宮らしく」リディアを王妃として扱った。
それまで同じ立場だった従者の目は冷ややかで、足を引っ張ろうとする者もいた。
「ただのリディア」が王妃になる、とはそういうこと。多くの重臣たちにとって、それは通過儀礼のようなもので、取り立てて問題になることはなかった。
「でもねえ王妃陛下、それをあなたが当たり前にしてはいけないよ」
医官シャルルは苦笑混じりに言った。セリーヌの叔父である彼は彼女の父親ベルトラン侯とは随分歳が離れており、リディアもセリーヌも王宮で殆ど唯一気を許せる兄のような存在だった。
「ねえ?セリウス」
シャルルは同意を得るように彼の背後に隠れている白い子を見下ろして言った。
セリウスは無言のまま、こくこくと肯首した。
リディアと目が合った途端、またシャルルの背へと身を引く。それでも目だけを動かして、部屋の中を確かめるように——何かを探していた。
「アルヴェル殿下に会いにきたの?」
リディアがそう声をかけると、セリウスの肩がびくりと揺れた。
思えば——セリーヌのあの一件以来、言葉を交わしていない。けれど、普段のこの子の様子を見ていると、あの時の姿が、まるで幻だったのではないかと——そう思いたくなるほどだった。
「ほら、セリィ。陛下が訊ねているよ」
シャルルに軽く背を押され、セリウスは一歩だけ前に出る。
数度、ぱちぱちと瞬きをしてから——おずおずとリディアを見上げ、小さく頷いた。
「ほ……本を、読む約束を……していて」
言葉を選ぶように、途切れ途切れに告げる。
「そう……」
リディアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「もうすぐ戻ってくる頃よ。ここで待つ?」
するとシャルルはセリウスの肩に軽く手を置き、
「父上はこれから王太后陛下の診察があってね、妃殿下のお許しが出たから、ここにいさせてもらいなさい」
と口添えた。彼には珍しく、追い込むようなやり方だった。
言われて、セリウスは一瞬だけ表情を曇らせる。
だが——。
「……はい」
駄々をこねることもなく、セリウスは小さく答えた。
ふと先ほどの言葉が気に掛かり、リディアは少年からシャルルへと視線を移す。
「どこか具合が?」
「どこ、というか……まあ、もうお年ですからね」
リディアの問いにシャルルは肩をすくめ、曖昧に笑う。
リディアはその様子に目を細めていたが、ふとシャルルの横顔に視線を戻したとき、彼の複雑な表情に気付いてしまった。
痛みを抱えたまま、誤魔化すような微笑み。
「……王太后陛下が危ぶめば、またあの子は駆り出されるの?」
聞くべきではない。が、聞いてしまった。
アルヴェルが不在と分かっていて、わざわざここへ預けに来たのだ。つまりは息子を役目から遠ざけようとしている。
王国の忠実な家臣ともあろう者が。
「いえ、させません」
さすがにこれ以上ははぐらかせないと思ったのか、それとも隠す気がないのか、シャルルははっきりと答えた。
「いずれそうなるとしても……あれはまだ小さい。誰かを救うほどの力はありません」
最後は誰とはなしに言い聞かせるような言い方だった。
「でも、あの子自身がそうは思っていないわよ。だからここへ遠ざけに来たのでしょ?」
リディアの脳裏に——迷いなくセリーヌの横に跪いた、あの小さな背中が鮮明に思い出されていた。
シャルルは返事の代わりに「……狡い人間だよね」と自嘲する。視線は窓際で一人静かに本を広げている白い少年に向けられていた。
あの子を教会から引き取った経緯は聞いていた。
その異例が赦されるのは、彼らが神官の一族であることと、行き先が王宮だからというのも暗黙の事実だ。
ヴァルセニア王国を長く支え続けていたモルフォンド一族はセリーヌが王妃となった頃はまさに大盤石と謳われるほどであった。
それが現在では、そのセリーヌが亡くなることを見越して次は幼きベアラーを利用して王族に取り入った、と密かに囁く者もいる。
だが実際のところ——まだ十にも満たない子どもを御子として使うことに、ここに連れてきた張本人が躊躇いを見せている。
当然だろう。
ただの異形としての一生を歩ませまいと——願っただけなのだから。
シャルルが退室すると、部屋には再び静けさが戻った。時折、セリウスが本の頁をめくる音だけが心地よく響いた。
「……」
ようやく訪れた春の陽射しはまだ弱く、彼の輪郭を優しく撫でている。綺麗な白い髪が光を反射させ、まるで現実感がない。
「えっと……何か……」
気付けばリディアは無意識に彼に歩み寄っていた。セリウスが、気まずそうに顔を上げる。
「……そこは冷えるでしょ。椅子を持って来させるから、そこに座って読むと良いわ」
腰を下ろし、視線の高さを合わせると、少年は面食らった様に俯いてしまう。
もじもじと両の指を絡めているその下に広げられた書籍は彼の養父のものだろうか。薬草の絵の横に、いくつも書き込みがしてあった。
「お父様のように、医官になりたいの?」
「……え?」
弾かれたように顔を上げる。水色の瞳が大きく見開かれ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
聞き逃したというよりは、予想外の言葉に驚いたという様子だった。
「シャルル卿の本でしょう?それ。難しそうね」
にこりと笑って本を指し示す。セリウスは束の間逡巡した後、
「なれ、ますか……?」
と聞き返す。一瞬反応が遅れたが、すぐに一つ前の自分の問いかけを思い出し、リディアは他愛無く答えた。
「なれるんじゃない?勉強さえ、出来れば」
本当に、他愛なく。
「……そうなんですね」
安堵。喜び。
控えめに上がる口角に、そんな気配がした。
——ああ、そうか。この子は。
生きたいのだ。
自分に課せられた使命とは関係なく。
セリウスという人間として。
「……本、好き?」
「はい」
リディアは、開かれた頁を白い指がそっと撫でるのを眺めながら言う。
「……その気持ちは、きっとあなたの足元を照らしてくれるわ」
本を読むということは、世界を知るということだ。父の書棚をあさった、かつての自分と重なった。
「——だから、これしかないだなんて思わないで。知ろうとしなさい。存分に」
そのとき。
扉が、勢いよく開いた。
乾いた音が、部屋の空気を切り裂く。
「セリィ!」
黒髪の少年が、息を弾ませて飛び込んでくる。
「お待たせ」
駆け寄って来るアルヴェルに、白い少年は先ほどまでとは打って変わって柔らかに微笑むと「アル」と小走りに近付く。
「扉を乱暴に開けてはいけませんよ」
静かに釘を刺すことも忘れない。
先程とは打って変わって生き生きと、まるで水を得た魚のようだった。
リディアは、きゅっと目を細める。
アルヴェルの隣で、セリウスはどこか誇らしげに、背筋を伸ばして立っていた。
守られるためではなく。
誰かを救う側に立つことを、あの子は——すでに選んでいた。
まだ、それ以外の道を知らないままに。
*
それからさらに数年が過ぎた。
リディアは母親代わりとしても、王妃としても、求められる役目を過不足なくこなしていた。
周囲はそれを称えた。
賢明だ、気丈だ、まさに王妃に相応しい——と。
だが、そのどれもが、どこか薄っぺらく響いた。
それは、これまでセリーヌを間近で見てきたから出来ることに過ぎない。そう分かっているからこそ、諸侯やその夫人たちの、取り入ろうとするような賞賛は、かえって空虚に思えた。
一方で、二人の王子は健やかに成長していた。
それだけが、リディアにとって確かな救いだった。
自分が褒められるたびに、セリーヌの存在が軽んじられているようにさえ感じる。
だが、この二人の王子こそが、彼女の揺るぎない功績を——静かに証明し続けている。
この一点において、リディアは不可侵を貫いていた。
国王のことは、嫌いではない。
むしろ——好意を抱いていた。
あの夜、声を掛けられて以来、ずっと。
セリーヌが亡くなってからも、国王は変わらず穏やかな威厳を保ち続けていた。
だが、ふとした横顔に、拭いきれない哀しみが差すのを、リディアは知っている。
セリーヌが思うより——彼は、変わらず彼女を愛していた。
子どもだけが愛の証だとは言わない。
だが、少なくとも彼にとっては、そうだったのだろう。
だからこそ、あの子たちは——わざと、差をつけて育てられた。
争わぬように。
手を取り合って進めるように。
それには彼自身の、兄弟に対する考えが影響していたのだろう。
国王は、王弟との関係を、最後まで上手く築くことが出来なかった。
あの人は——あまりにも違いすぎた。
人前に出ることを好まず、気弱で、常に何かに怯えているようでいて。そのくせ、自らより弱い者に対しては、無理に威厳を保とうとする。
歪な均衡だった。
妃との間に、一人娘を授かった。
それだけを見れば、穏やかな家庭にも見えただろう。
けれど——その後は、酒に溺れた。
夜毎のように侍女が呼ばれ、そして、いつの間にか姿を消す。入れ替わりは珍しいことではなくなっていた。
泣きながら暇を願い出る者もいれば、何も言わずに去っていく者もいた。かつて共に仕えていた者の中にも——戻らなかった者が、何人かいる。
リディアは、それを止められる立場にはいなかった。
そしてあの日——。
誰も予測していなかった事態が、起きた。
「父上!」
扉が、叩きつけるように開いた。
振り向く間もなく、声が飛び込んでくる。
やはりそこに立っていたのは、アルヴェルだった。
だが——いつもの朗らかさは、欠片もない。
息を乱し、目を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔のまま。それでも無理やり押し留めるように、歯を食いしばっている。
「あの人を——追い出して」
震える声だった。
怒りと、焦りと、恐怖がないまぜになったような。
何のことか分からず、国王はリディアを見た。
リディアは小さく首を振る。分からない——と、無言で答えてから、ゆっくりとアルヴェルに向き直った。
「落ち着いて。……何があったのか、話してくれる?」
努めて穏やかに問うと、アルヴェルは一歩踏み出しかけて——止まった。
躊躇うように、振り返る。
その視線の先。
開け放たれた扉の影に、もう一人——小さな影があった。
白い衣。かすかに揺れるそれが、光を受けて淡く滲む。
「……セリウスもいるのね」
リディアが静かに言う。
「入っておいで」
今度は国王が、穏やかな声で促した。
呼ばれた少年は、俯いたままゆっくりと部屋に入って来た。その様子は、普段とさほど変わらないようにも見える。
だがそれ以上に、リディアの目を引いたのは、アルヴェルの方だった。
白い手を引いて父の前まで進むと、繋いでいた手をそっと持ち替え、空いた方の腕でセリウスの肩を抱き寄せる。
庇うように。
覆うように。
小さな手が——守っていた。
その光景に、リディアの胸の奥がひどくざわつく。
(……この子が?)
普段のごっこ遊びのナイトではない。
責任と使命を、まるで当然のように受け入れ——守る側”に立っていた。
「……あの人が、セリウスに……」
喉の奥から搾り出すような声だった。
アルヴェルは言い切る前に、ぐっと歯を食いしばる。
その代わりに——抱き寄せる腕に、力がこもった。
それだけで、十分だった。
空気が、凍りつく。
国王の表情が、ゆっくりと消えていく。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ——何かが決定的に、断ち切られたような沈黙。
リディアは動けなかった。
冷たいものが足元から這い上がり、指先の感覚が、遠のいていく。
その場にいたはずなのに、どこか遠くから見ているような感覚だけが残った。
——後のことは、よく覚えていない。
ただ。あの日を境に、王弟の姿を見ることはなくなった。




