【Spin-off】王妃 1
王宮の離れにある小さな私室。
暖炉の火は弱く、秋の夜気が二人の会話をそっと包む。
「リディア……行ってしまわないわよね?」
泣き出す寸前の声音で、セリーヌが袖をつかんだ。
身じろぎのせいで、彼女の膝の上で微睡んでいた猫が迷惑そうに薄目を開けた。
「そんな顔をしないで、セリーヌ。
あなたともう会わないなんて言っていないでしょう?」
優しく笑ってみせながらも、リディアの胸はちくりと痛む。
王宮主催の淑女教育はあと数日もすれば終わるだろう。その後、お偉い方による選考があり、ついに国中の令嬢の中からたった一人だけが選ばれるのだ。
考えなくても分かる。
今目の前にいるこの少女こそが、その座に就くのだ。それはもう殆ど初めから予想がついていた事で、特段それについて異論はない。
心から祝福したいと思っているし、それに——自分には自分の夢がある。
なのに。
「だって……あなたまでいなくなったら、私、ひとりになってしまうもの」
リディアは今、足止めを食らわされていた。
「あなたは一人ではないでしょう?」
そう言いながらも、リディアは視線をそっと窓の外へ逃がした。
夜風に揺れる庭の影が、まるで自由の形を描くように揺れている。
だが、セリーヌはそれを見ていなかった。
ただひたすらに、リディアだけを見ている。
「……あの場所は」
ぽつりと、セリーヌが呟く。
「誰も、本当のことを言ってくれないもの」
小さな声だった。けれど、それは確かに本音だった。
リディアは一瞬だけ言葉を失う。
この子は、分かっているのだ。
選ばれることの意味を。そこにある孤独を。
「いずれあなたが王妃に選ばれたら——
私は生まれ育った領地に帰って、父と一緒にもっともっとあの場所を良くするの。畑も充実させて、村に子どもたちの学び舎を作って……そんな夢を、叶えさせてよ」
セリーヌの眉がきゅっと寄る。
羨望とも、不安ともつかない複雑な影が揺れた。
「……でも、あなたがまだ必要よ」
なんてずるい子なのだろう。そう思うのに、放って置けない自分も大概だ。
「ああ、もう!分かった」
ため息を誤魔化すようにリディアは言った。
「あなたが自分で立てるようになるまでは、そばにいるわ」
「リディア……」
あからさまに安堵するセリーヌに苛立ちを感じるのに、同じくらい胸をくすぐられてしまう。そういう天性の魅力の様なものを持っているのだ、この子は。
「泣かないで。ほら。あなたを見捨てるなんてしないから」
リディアは柔らかな笑みでもう一度念を押すと、セリーヌの鼻先をキュッとつまんだ。
家格も本人の人柄も申し分ない。ただ、気弱で優しすぎた。淑女教育中も陰でどれだけいびられていたか。途中でリディアが気付いていなければとっくに里に帰っていたに違いなかった。
余計な事をしたとは思う。
何度も辞めたらいいとは言ってみた。だがどうしたことか懐かれ、ずるずるとここまで来てしまった。
そう、だからつまり、これは贖罪でもある。
このままではきっと、その重圧に潰されてしまうだろうことが容易に想像できるから。
セリーヌは震える手を漸く袖から離し、代わりにぎゅっとリディアの指を握り込む。
「……わたし、頑張るわ。
あなたに置いて行かれないように。あなたみたいになりたいのよ」
その夜、二人は火の消えかけた暖炉の前で、しばらく手を取り合っていた。
*
王妃の私室は、かつてと同じ場所にありながら、まるで別の空間のように感じられた。
重ねられた布、控える侍女たち、絶え間なく出入りする人影。
その中心に——セリーヌがいる。
リディアは一歩下がった位置で、静かに控えていた。
王妃付きの侍女。それがリディアの立場だった。
かつては同じ場に立ち、同じ椅子に座り、未来を競う立場だったはずの相手の——いまは“傍らに仕える者”。
元より分不相応だったのだ。
しがない男爵家の四女。姉たちは皆、それぞれの家へ嫁いでいった。
女ばかりの家で——父は少し風変わりな人だった。
誰かに家を継がせることに、何の執着もない。
だからこそ——末の私が継ぐものだと、勝手に思っていた。
父に一番懐いていたのは自分だった。
畑の手入れも、村の様子を見るのも、あの人の隣で覚えてきた。
成人したら戻る。ずっとそう言っていた。
私が家を継いで、あの土地をもっと良くするのだと。
けれど。
「こんな博打みたいな仕事より、せっかく王妃が望んでくれたんだ。残ればいい」
父はそう言って、あっさりと笑った。
引き止めるでもなく。期待するでもなく。
ただ、手放すように。
あの時、胸の奥に落ちたものの名前を、リディアは今も上手く言葉にできない。
寂しかったのか。腹立たしかったのか。
それとも——自分が思っていたほど、その場所に必要とされていなかったことへの、諦めか。
それでも。
ここにいることを選んだのは自分だ。
良いこともある。ここでしか得られない知識があった。高価で、領地ではとても手に取れないような書物も、許可さえあれば読むことができる。
学べる。蓄えられる。
——いつか、持ち帰るために。
(あと三年……)
胸の奥で、静かに繰り返す。
セリーヌは婚姻後まもなく男児を授かり、誰の目にも順調に見えていた。
王宮は祝福に沸き、安堵と期待が一気に膨らみ——その熱が高まるほどに、彼女は静かに追い詰められていった。
次があるはずだと、当然のように求められること。応えられて当たり前とされること。
誰も責めてはいない。それでも『子が生まれない』ただそれだけの事実が、ゆっくりと、確実にセリーヌを蝕んでいった。
笑っているのに、笑えていない。
祝福に囲まれているのに、ひとりでいるような顔をする。
リディアは、それを知っていた。
「ねえ、リディア。これを持っていて」
セリーヌがそう言って差し出したのは、小さなチャームだった。
「それで……時々でいいの。一緒に祈ってほしいの」
そっと、掌に乗せられる。
淡い緑の石が、昼の光を受けてかすかに煌めいた。揺れるたびに、細い光がリディアの視界を掠める。
「……これは、テラのチャームでは?」
思わず問い返す。
テラ。
彼女が嫁ぐ前から飼っていた、小さな猫。
気まぐれで、人に懐かないくせに——セリーヌの膝の上だけは、いつも定位置だった。
「同じ形で作らせたの」
セリーヌは少しだけ嬉しそうに微笑む。
「私と、あなたの分」
言葉が、すぐには出てこなかった。
掌の上のそれは、軽いはずなのに、妙に重く感じられる。
「頑張るから。……私、頑張るから」
これは、祈りのためのものだ。
そういう体裁の——鎖。
リディアは一瞬だけ目を伏せた。
返す言葉を探すように。
だが結局。
「……承りました、王妃殿下」
当然のように——三年が過ぎてもなお、リディアは彼女の傍らに立っていた。
お守りだと言って渡されたその石を、リディアが同じように持っているという事実は、不思議とセリーヌの支えになっていた。
純粋な友人ではいられなくなっても、同じ祈りの中にリディアがいるのだと——そう思えるだけで、彼女は踏みとどまれたのだろう。
第一王子は大きな病もなく、すくすくと育っていった。それもまた、彼女にとって確かな拠り所となった。
やがて、あの頃の怯えるような面影は、少しずつ薄れていく。
それが良いことなのかどうか、リディアには分からなかったけれど。
そして。
第一子誕生から六年後——。
待ち望まれていた第二子が、生まれた。
父王と同じ色の瞳を持つ、男の子だった。
「殿下。元気な男の子ですよ」
汗に濡れた額をそっと拭いながら、リディアは微笑む。
「良かった……ああ、本当に……」
セリーヌは、ほとんど息を吐き出すようにそう言った。
張り詰めていたものが、ようやくほどけていく。
(これで少しは——)
解き放たれる。私も、彼女も。
もっと、強くなれる。
漠然とそう——思ってしまった。
だから、罰が当たったのだ。
「次々に決壊しています!」
「被害は——」
「西部一帯が浸水、王都にも水が——!」
翌年のある夜半、怒号のような報せが飛び交った。
濁流は一晩で、すべてを攫っていった。
家も、畑も、人も。
祈りなど、何ひとつ届かなかったかのように。
それは、決して遠い場所の出来事ではなかった。
セリーヌは、弟を亡くし、そして——リディアもまた、姉を失ったのだった。
国を建て直す為に国王は忙しく、城の人手の多くも災害派遣に取られていた。
セリーヌは産後の身体も癒えぬまま、これ以上市井の不安を煽らぬ様に、人前では決して視線を下げず、背筋を伸ばし励まし続けた。
痛ましいほどに。
「もういい加減寄りかかっていてはダメね」
そんな風に言ってくれていたのに。
里に帰りたければ帰って大丈夫だと。
——なのに。
「もう少しだけ、いるわ。今帰ってもきっと、足手纏いになる」
リディアは郷へ戻る事をしなかった。
戻れなかった、のかもしれない。
父が築いたものを守るべきだった。あの土地で生きる人々のために、尽くすべきだった。
それが——自分の夢だったはずなのに。
疲れ切ったセリーヌの横顔を見ていると、どうしても、その場を離れるという選択ができなかった。
あの夜。
泣きながら袖を掴んできた少女の姿が、どうしても脳裏から離れない。
(あなたが自分で立てるようになるまでは、そばにいる)
あれは、約束だったのか。
それとも、ただの情けだったのか。
その時のリディアにはもう分からなくなっていた。
ただ唯一分かるのは、もうとっくに——あの時、思い描いていた夢を思い出せなくなっていることだった。
胸元に触れると、小さなチャームが触れた。
淡い緑の石。
祈りという名の鎖。
それを手放せなくなっていたのは、リディアの方だった。
*
国の西側は、ことに大水の被害が凄まじかった。
だが——リディアの故郷は、奇跡的に持ち堪えていた、とセリーヌが言った。
里帰りの折に、リディアの故郷も見てきたらしい。
「一緒に来ればよかったのに」
セリーヌは言ったが、夢を忘れてここにいる事を選んだくせに、今更どんな顔をして帰ったらいいのか分からず、結局ついて行かなかったのだ。
後に分かったことだが、領地が完全に潰れなかったのは、父が興した灌漑が、水の力を巧みにいなしていたお陰だったという。
今は亡き母の故郷から受け継いだ技術。
それをこの土地に合わせ、何年もかけて形にしてきたものだった。
決して大規模なものではない。だが確かに、人の命を救っていた。
あの人らしい——そう思った。
本来ならば、それはリディアの胸に強く火を灯すはずだった。
あの背中を継ぐのは自分だと、もう一度、思い出させるはずで、長い時間をかけて飼い慣らされてきた独立心が強かに、揺り起こされるはずで——。
けれど。
同じ頃に、知ってしまった。
父が、亡くなっていた。
残った領民を避難させ、決壊を免れた水路を調べ、さらに強くするための改良に追われ——そのまま、力尽きたのだと。
道半ばだった。
「リディア……」
セリーヌは、リディアの分まで泣いた。
「もっと早く返すべきだったのに。帰れなくなってしまった……」
震える声だった。
きっと、慰めのつもりだったのだろう。
けれど。
その言葉は少しも心に届かなかった。
(違う)
胸の奥で、静かに否定する。
自分の意思で残ったのだ。帰らないと決めた責任も、夢をそっと諦めた後ろめたさも、全部自分のものだ。
それを、そんな風に“あなたのためだった”ことにされるのは、違う。
あんなにも優しい陛下が側にいながら。
人の人生を変えてしまうほどの選択をさせ、それでいて——私の後悔までをも奪うのか。
(……なんて、傲慢なのだろう)
それでも、どれだけ突き放そうとしても、どれだけ嫌いになろうとしても——。
もう、リディアにはセリーヌしかいなかった。
「……これ以上は、目が腫れてしまいます」
やわらかな声で、そう告げる。
「私を思ってくださるのなら――涙を拭いて、楽しい話をしましょう」
いつものように。
——領主を失ったリディアの故郷は、王国預かりとなった。
*
積み上げたものは、指先で触れれば崩れる砂のようだった。
復興の第一段階を終え、少しずつ国に平穏が戻ってきた頃だった。
一度持ち直したはずのセリーヌの心は、驚くほど容易く崩れた。
あれほど強くなろうとしていたのに——。
この頃になると、彼女は床に伏すことが増えていた。
陛下に、面会を控えていただくよう願うために、扉の前で何度頭を下げたか知れない。
中からは、時折、押し殺したような嗚咽が聞こえた。そのたびに、リディアは目を伏せるしかなかった。
ある日。
「……君は、大丈夫なのか」
低く、静かな声だった。
顔を上げると、国王と目が合った。
侍女に毎度頭を下げさせることを、居た堪れなく思ったのだろう。
「……私、ですか?」
一瞬、問いの意味を取り違えたように返す。
「父君を亡くしたと聞いている。
暇を取って、見舞いに行っても構わない」
逃げ道を与えるような、穏やかな声音だった。
「ありがとう存じます」
リディアは深く礼をした。
初めて目にした頃から、もう十五年ほどが経っている。
少年の頃の穏やかな面影を残しながら、いまは若くして王位に就いた者の気配を纏っていた。
「ですが……今は、出来ません」
顔を上げ、小さく笑う。
それが精一杯だった。
「そうか」
王もまた、わずかに困ったように笑う。
だが、去り際——ふと思い出したように足を止めた。
「けれど、あの頃の君の夢を大切にしてほしい。リディア」
名を呼ばれた。
それだけではない。
胸の奥にしまい込み、いつしか自分でも触れなくなっていたものを
不意に、引き出された。
「あの……どうして、それを」
思わず問い返す。
王は軽く首を傾げた。
「忘れたのかい。君が自分で言っていたじゃないか。父君の後を継ぐ、と」
遠い日のことだった。
まだ互いに、大人と子供の境目にいた頃。
「忘れるものか。あの時の君は——」
ふっと、楽しげに目を細める。
「妃候補としての建前など意に介さない顔をしていた。あんなに堂々と“自分の人生”を語る令嬢は、他にいなかったよ」
くすり、と小さく笑う。
「セリーヌの方が年上なのに、あの頃からずっと、君の方が姉のようだったな」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋んだ。
——覚えている人が、いたのだ。
あの頃の自分を。何にも縛られていなかった、自分を。
不意に、視界が揺れそうになる。戻れるのなら、と。
だが、リディアはそれを押し留めた。
「……過分なお言葉です。それに、もう父は居ません。帰る場所も、もう——」
いつものようにきちんと返す事が出来なかった。
俯いたリディアに、それでも王は穏やかな声で言った。
「だとしても。君は明るい方へ歩いてゆける才能があると私は知っているよ」
リディアは思わずぱっと顔を上げたが、返す言葉に迷っている間に
「すまないね。……いつも、ありがとう」
その言葉だけを残して、陛下は去っていった。
残された廊下に、静けさが戻る。
リディアはしばらく、その場から動けなかった。
*
それから、また数年の月日が過ぎていた。
医官であるセリーヌの叔父が、時折、妙な子どもを連れてくるようになった。
白い髪に、白い肌——どこか現実味の薄い子だった。
聞けばあの大水の年の孤児で、数年前から養子に迎え入れたのだと言う。
最初は一度きりかと思われたそれが、いつしか当たり前のように宮に出入りするようになっていた。
毎夏の避暑の折に会っていたというだけあり、王子たちはいつも一番年下の彼を構う。
セリーヌは、長椅子に身を預けてそれを眺めていることが多かった。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、決して交わろうとはせずに、王子たちとその白い子が無邪気に遊ぶ様子を、ただ静かに見つめている。
その頃にはもう、国王と褥を共にすることはなくなっていた。
(不仲ではないはずなのに……)
当のセリーヌはどこか、安堵しているように見えた。張り詰めていたものが、ようやく緩んだような。役目から、少しだけ解放されたかのような。
——その代わりに、何かを手放してしまったかのようにも、見えた。
「殿下……!」
その日。
部屋の扉を開けた瞬間、同僚の切羽詰まった声が飛び込んできた。
「何事——」
言い終えるより早く、足が動いていた。
視界に飛び込んできたのは、長椅子にぐったりと身を預けたセリーヌの姿。
白い喉元を汚す、鮮やかな赤。
——血を、吐いていた。
何が起きたのか、分からなかった。
「何か召し上がったの?」
周囲の侍女に問う。
だが、誰もが首を振るばかりで、答えは返ってこない。
皆、リディアと同じように困惑していた。
「医官を呼んで!早く」
短く指示を飛ばす。
そのまま視線を巡らせ——王子たちの姿を見つける。
第一王子は、母に駆け寄ろうとして侍女に止められ、十歳になったばかりの第二王子は、状況も分からぬまま、泣いていた。
その背を、白い子がそっと抱き寄せる。
一度、二度。小さな手で静かに撫でてから、
「アル、アル……、だいじょうぶ。私がいる」
囁くように言った。
場違いなほど、落ち着いた声だった。
「殿下方を別室へ」
あっけに取られていた意識を引き戻す。
セリーヌの咳が、現実へと叩き戻した。
——いけない。
まずは窒息を防がなければ。
リディアはすぐにその背に手を回し、「殿下」と声を掛ける。
「……驚かせて、ごめんなさい」
掠れた声で、セリーヌは言った。
(どうして、謝るのです)
こんな時でさえ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
泣きたくなるのを、押し殺す。
そのとき。
背後に、気配。
「あの……」
振り向くと、あの白い子が立っていた。
「向こうに行っていなさい」
反射的に言う。
「いいえ。わたしの役目ですから」
迷いのない声だった。
「……何?」
その言葉の意味を問うより早く——白い手が、二人の間へと差し込まれる。
静かな動きで、セリーヌの腕にそっと触れた。
子どもは、まつ毛を伏せる。祈るように。
息を、ひとつ吐いた。
その瞬間——光が、流れた。
青白い、淡い光が。子どもの手から、セリーヌの身体へと、静かに、確かに、渡っていく。
「……これ、は」
時間にして、ほんの数十秒。だが、それはあまりにも長く感じられた。
流れ込んでいた光がふと揺らぎ、
途切れる——そう気づいた瞬間だった。
子どもの身体が、糸の切れた傀儡のように崩れ落ちる。
「——セリウス!」
咄嗟に名を呼び、抱き止めた。
軽かった。あまりにも。
腕の中に収まるその体温が、現実味を欠いている。
(この子は——)
ようやく、理解が追いつく。
あの光。
癒しの——御子。
だとすれば。
この子がここに来るようになった頃には、もう。
セリーヌは——
「妃殿下……!」
慌ただしい足音と共に、シャルルとエルネストが部屋へと入ってくる。
「モルフォンド卿……」
セリウスを抱えたまま、リディアは顔を上げた。
その様子を一瞥して、
「……遅かったか」
シャルルは、低く言った。
感情の見えない声だった。
「殿下は……いつから病魔に?私、何も——」
言葉が途切れる。
知らなかったことが、今さらのように重くのしかかる。
「陛下以外には決して他言するな、と仰せだったからね」
シャルルはリディアを見ないまま、淡々と答えた。そのままセリーヌの側へ寄り、手早く容態を確かめる。
「呼吸は落ち着いている。……ひとまず、持ち直しているな」
短く呟くと、振り返らずに続けた。
「止血剤を調合する。後で飲ませてくれるかな」
「……はい」
返事はした。その声は自分の声のはずなのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
*
まぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
「……あの子は?」
開口一番、セリーヌはそう尋ねた。
その問いが、息子たちを指していないことを、リディアはなぜか理解していた。
「先ほど目を覚まされました。アルヴェル殿下が、付き添っていらっしゃいます」
「そう……」
セリーヌは、ほっと息を吐いた。
「うふふ。アルヴェルらしいわ」
その横顔は穏やかで——気づけば、すっかり母のそれになっていた。
ずっと、弱い人だと思っていたのに。
「リディア、あのね」
そう言って、身を起こそうとする。
「まだお休みになった方が——」
思わず手を伸ばしかけて、リディアは動きを止めた。
セリーヌはゆるく首を振る。
「大丈夫よ」
穏やかに笑って、ゆっくりと上体を起こした。
リディアが彼女の背にクッションを当て、寄りかかれるように整えているその間に——
セリーヌは、ためらいもなく寝衣の胸元を開いていた。
「見て」
言われるまま、視線を落とす。
そこには——
花が咲き乱れるようにも、緋色の鉱石が内側から突き出ているようにも見える、異様な肉の塊があった。
言葉を失う。
「……二年くらい前からね」
まるで他人事のように、静かな声だった。
感情の揺れは、どこにも見えない。
「少しずつ、大きくなって」
——二年。
その言葉が、胸の奥に重く沈む。
夜伽を拒むようになったのは。
湯浴みに人を付けたがらなかったのは。
母乳が出ないと、王子を抱こうとしなかったのは。
そして——
もう、自分の手を離して良いと言ったのは。
ひとつ理解すると、次々に繋がっていく。
遅すぎるほどに。
「こんな姿、陛下にもあなたにも見せたくなかった。気味悪がられたら、わたし……立ち直れないもの」
寝衣を整えながら、ふっと、わずかに目を伏せる。
「そんなこと、思わないわよ」
リディアの口からほとんど反射のように、言葉が出ていた。
侍女としてではなく——友として。
セリーヌは、小さく笑った。
「……ありがとう」
その笑みは、力が抜けていて。それでいて、どこか決意めいていた。
「今まで、ごめんなさい……。あなたのようになりたかったのに、最後まで情けなくて」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「……でも、やっと——あなたを解放できるわ、リディア」
何を言っているのか。
そんな解放の仕方はない。
どこにも行けなくしておきながら。
「セリーヌ……残酷なことを言うのね」
リディアは、苦笑した。
「私が離れないと分かっていて、敢えてそうやって突き放す言い方をする。……昔から、変わらないわね」
責めるでもなく、ただ見抜くように。
セリーヌは一瞬、目を見開き——やがて、ふっと息を吐いた。
「そうね……そうかもしれない」
ぽつりと、噛みしめるように言う。
「自由で強いあなたが、大好きだった。
そんなあなたが——わたしを見捨てずにいてくれることが、ずっと支えだったの」
一度、息を継ぐ。
「陛下も、わたしを大切にしてくれたわ。……でも、分かっていたの。
王妃の風格があるのは、あなた」
視線が静かに落ち、微かに笑った。
「陛下が心惹かれていたのも、きっと——」
「やめて。そういうのは」
リディアは、続く言葉をぴしゃりと遮った。
決して大きな声ではない。だが——その場の空気が、わずかに張り詰める。
セリーヌは驚いた顔をして、目を瞬かせた。
やがて、その瞳がわずかに潤む。
まずい、とは思ったが——取り繕うより先に、セリーヌはふっと吹き出した。
「違うの、ごめんなさい。言い方が良くなかったわ。でも……」
はにかむように笑い、続ける。
「そうやって叱ってもらうの、何年ぶりかしら」
ほんの少し、声が柔らいだ。
「……ねえ、リディア。
もし、あなたがどこにも行かないつもりなら——あの子たちを、見ていてはくれないかしら」
いつも自信なさげに俯いている琥珀色の瞳が、この時ばかりはリディアをしっかりと捉えていた。
「……あなたは、自分の手で領地を良くすることは出来なかったかもしれない。でも、それで終わりじゃないわ」
セリーヌは一度言葉を切り、にっこりと微笑むとリディアの両手を取った。
「あの子たちが、これからの国を作っていく。
だから——あなたの持っているものを、あの子たちに残してほしいの」
願い乞う、そんな仕草だった。
「どこまでも、ずるい人ね」
呆れたように、リディアは笑った。
ほんの一歩だけ距離を詰める。
「その前に」
少しだけ身をかがめて、顔を覗き込む。
「あなたを、うんとお世話させてね」
言い終えるより早く。
リディアは、そっとセリーヌの鼻をつまんだ。
子どもの頃と同じように。
あの頃と、何も変わらないみたいに。
「……もう」
セリーヌは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
その笑い方も、やっぱり昔のままだった。




