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女神の国 1  作者: 大福駒子


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国を統べる者


 彼の侍従コリンが扉を開けた部屋は、ほとんど灯が抑えられた書斎だった。

 普段執務で使う広々とした部屋ではなく、私用の雑然とした小さな部屋。

 扉の前でコリンは小さく頭を下げると、後ろに控えていたノエルドと視線を交わし、位置を預けて下がった。


(あくまで非公式、ということか……)


 まともに言葉を交わすだけで、これほど周囲を気にしなければならない。

 王宮の緊張は、もはや誰の意思とも関係なく、勝手に膨れ上がっていた。


 アルヴェルは目を伏せ、ため息を一つ。妃選びがこんなにも世を騒がすとは、思いもよらなかった。

 それは兄も同じであろう。いや、自分以上に兄は堪えているはずだ。


「お呼びですか、兄上」


 部屋に入るとすぐに扉が閉じ、照度はさらに落ちた。

 書斎机の上、小さな燭台だけがアーサーの顔を仄かに照らしている。


「……もっと近くに寄れ、見えない」


 笑みを含んだ声に、内心ほっとする自分がいた。

 苦労をかけている後ろめたさで、兄の心を見失っていたからだ。

 アルヴェルは言われた通り歩み、机を挟んで兄の前に立つ。

 その顔相は険しさを増し、少し窶れてもいた。


 言葉にはしなかったが、可哀想に、とでも言いたげに眉を寄せ、アーサーはほんの一瞬だけ目を伏せた。

 だがすぐに顔を上げ、要件だけを告げる。


「まだ返事をしていないそうだな」


 立候補は一人、ナピーリ家の令嬢、ヴァレンティナ。もう一人は宰相が推薦したモルフォンド家の令嬢——エミリア。


「はい」

「私が決めた方が良いか?」

「……え」

「王としては、モルフォンド家だな」

「……っ」


 ただ——兄を支えたかっただけだ。

 アーサーこそが、誰よりもティアベアラーの重荷を理解していると、信じていた。

 なのに。

 世界は、勝手に構図を作る。

 善き王と、冷酷な王。

 守る兄と、追い出す弟。

 そして、哀れな御子を巡る権力闘争。


(……やめてくれ)


 モルフォンド家を選ぶということは、兄が悪者にされている今の状況を肯定することに他ならない。


「嫌か?すべて丸く治ると思うが」

「ですが、それは……兄上が——」


 言いかけたアルヴェルを、アーサーの視線が鋭く射抜いた。


「今はお前の話をしているんだよ、アルヴェル」


 そうだ。

 自分も、無傷ではいられない。


 ——王弟は、御子を利用した。

 ——セリウスを切り捨てたあと、妹を娶ってモルフォンド家を掌握するつもりだ。

 ——結局は、野心のためだったのだ。


 アルヴェルは、込み上げるものを喉の奥で必死に押し殺した。

 守りたかったものが、すべて裏返っていく。

 人々は「王弟アルヴェル」という偶像を作り上げ、その偶像で、兄を殴り、御子を縛りつけている。

 アルヴェルは唇を噛み、息苦しさに耐えていた。


「……兄上は、覚悟……されているのですね」


 ようやく吐き出した声に、微かな震えが混じる。


「……何かを変えるのに、犠牲は付きものだよ。それでも私はソフィアも娘たちも守らなければ。

 お前が俺に変わって玉座に立つ日が来たら、今度は私がお前を支える側に立てば良い。私たちは変わらない。大丈夫だ。」


 アーサーは思う。


 なんて弱い。なんて弱い弟だ。

 残酷な判断ができない。

 誰かを切り捨てることで、均衡を取ることができない。


(……王に向かないなんて、言ってはいられないんだよ、アルヴェル)


 その思いは、言葉にされることなく、二人の間に落ちた。


「決めただろう。二人で。セリウスを、これからの御子を、すべて解放するのだと。

 ……腹を括れ。お前が王族であるならば」


「……はい」



 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 コリンもノエルドも、すでに下がっている。

 残ったのは、消えかけの燭台と、王の机と、アーサーひとり。


 彼はしばらく、その場から動かなかった。

 背筋を伸ばしたまま、視線も落とさず、ただ――待っているように。


 やがて、ふう、と息を吐いた。


「……アルヴェル」


 名を呼んでも、返事はない。

 それを確かめるように、もう一度息を吐き、椅子に深く腰を下ろす。


 弟は、王には向かない。


 姿形は自分よりも、はるかに父に似ている。

 端正な顔立ち、立ち姿、沈黙の重さ。

 だが、その中身は——母セリーヌに似すぎた。

 優しく、繊細で、守れるものより、守れなかったものを数える性分だ。


(父上も、分かっていた)


 だからこそ、差をつけた。

 兄弟を並ばせず、競わせず、王位から遠ざけた。


 アルヴェルが、争わずに済むように。

 壊れずに済むように。


 それが——今になって、仇となっている。


 王宮は、弟を“清廉な王族”として祭り上げた。

 そして、その影で、王を殴る。


 御子を酷使した王。

 血のない政治を選ぶ王。

 弟を盾にする王。


 それらすべてを、アーサーは否定しなかった。


 否定すれば、矛先はアルヴェルに向く。

 否定しなければ、刃は自分に向かう。


 選ぶまでもない。


(……私は、王だ)


 兄である前に。

 父である前に。

 友である前に。


 王として、引き受けると決めた。


 机の上に置かれた書簡に、アーサーは視線を落とす。

 そこには、妃候補の名と、政治的利点が簡潔に記されている。


 弟の人生を、均衡の駒として使う紙切れ。


 アーサーは、それを裏返した。


「すまないな」


 誰に向けた言葉でもない。

 それでも、胸の奥で何かが軋んだ。


 弟は、王に向かない。

 だが——自分を支えるために、壊れていい人間でもない。


 この国は待ってくれない。

 噂も、憎しみも、正義の顔をした暴力も。


 アーサーは、燭台の火を吹き消した。


 闇の中で、ただ一度だけ、目を閉じる。


(決めろ、アルヴェル)


 後のことは、自分が引き受けるから。

 だから、お前は——


 王らしくないまま、それでも目的のために進め。



 気づけば、足が勝手に動いていた。


 夜の王宮は、異様なほど静かだ。昼の喧騒が嘘のように、回廊に響くのは自分の靴音だけ。


 理性では分かっている。ここに来たところで、何が変わる訳もない。

 辿り着いたのは、小さな坪庭だった。

 持ち主に置いて行かれた簡素な庭。

 月明かりに照らされ、何一つ変わらない姿でそこにある。

 アルヴェルは立ち尽くし、四角く囲まれた空を仰いだ。


 本当にこれが、唯一の選択だったのか。


 守るために黙った。

 兄を守るために、王家を守るために、王弟として最も正しい振る舞いを選んだ。

 その結果——噂は兄を追い詰め、王宮は勝手に「正常化」へと舵を切った。


 望んだ結末じゃない。

 だが否定できるほど無垢でもなかった。


 胸の奥が、遅れて痛み出す。

 覚悟のはずだった選択が、歪んで返ってきている痛みだ。


 吐き気を堪えるように、低く息を吐いた。


「……クソだな」


 そのとき。


「――珍しい顔だ」


 背後から、軽い声が落ちてきた。

 振り向かずとも分かる。

 アルヴェルは、ゆっくりと息を整えた。


「……覗きか、ヘリオス」

「ひどいなあ。心配して来てあげたのに」


 近衛師団長は、いつもの気安い調子で柱にもたれかかっていた。

 だが、その視線は軽くない。逃がさない位置取りで、こちらを見ている。


「聞いたよ。妃候補の件」

「……そうか」

「地獄だね」


 即答だった。


「ナピーリ家なら王家の体面を担げる。でも噂は消えず、状況は一つも変わらない。

 モルフォンド家なら妃の兄との噂は払拭できる。だが、重臣を手中に納めて王に楯突いたと見なされる。それでも、ベアラーにとっての革命は起こせる」

「言い方を選べ」

「答えは明白だろ」


ヘリオスは肩をすくめる。

 アルヴェルは、言葉を返せなかった。


「だからさっさと逃げてしまえば良かったのに」

「……は?」

「結構本気で言ってたんだけどな」


 あまりに軽い口調に、思わず視線を向ける。

 だが、ヘリオスは冗談とも本気ともつかない顔で続けた。


「王弟が“いなくなった”方が、今のこの国は整理がつく」


 アルヴェルの喉が、僅かに鳴った。


「……兄上ひとりに全てを背負わせろって?」

「今もだろ」


 一言だった。

 それだけで、胸の奥が締め付けられる。


「噂はさ、正義の顔をして増える。

 君が何をしたって兄上は“御子を酷使した王”になる。ここまで来たくせに何も決められず怖気付いているなら、逃げたって同じだ」


 アルヴェルは、視線を伏せた。


「……分かっている」


 低く、絞り出すように言う。


「兄上と誓った。

 せめて……同じ檻に入れられる人間が少しでも生きやすい世界にすると」


 ヘリオスは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、ふっと息を吐く。


「本当、本人に聞かせてやりたいよ……」


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