爆心
密偵から届けられた報告書は、ヒューストン伯に二度の精読を強いた。
最初の一読では、単なる若者同士の不釣り合いな接触記録に見えた。
二度目に至って、ようやく“違和感の正体”が輪郭を持つ。
ランドフォード領。
現地で実務を取り仕切っている女——リディア。
その名を目にした瞬間、紙を持つ手に力が入る。
「……十三年前に亡くなった王妃と、同名か」
偶然。
そう切り捨てることもできた。だが、報告書は容赦なく続く。
そのリディアの息子、ローワン。
齢十三。
王立大学校在籍。
イシュマエル事件の折、近衛師団長ヘリオス、ならびに王弟アルヴェルと直接接触。
——そして。
「……茜色の、瞳?」
紙面をなぞる指が、ぴたりと止まった。
茜色。
王家において、亡き父王を除き、その色を持つ者は一人しかいない。
添えられた簡素な似顔絵に、伯爵は低く息を漏らした。
「……似ているな」
柔和な弧を描く眉と口元は国王に、そして強すぎる眼差しは王弟によく似ている。
若き日の彼らを知る者であれば、否定しきれない程度に。
ここまで揃えば、もはや社交界の下世話な噂で片付けられる話ではない。ましてや、息子ヴィクトルの嫉妬心だけで説明できる段階でもなかった。
王弟の手を離れた白い御子。
そして今、その彼に酷似した少年。
——“代替”という言葉が、男の脳裏をよぎる。
生まれなかったはずの血。
存在してはならなかった余分な駒。
もし、これが事実なら、教会が黙っているはずがない。そして王宮が放置できるはずもない。
「……だから、あの御子は王都から遠ざけられたのか?」
推測に過ぎない。
だが、推測であっても“もっともらしさ”を持ってしまえば、それは噂になる。
セリウス・モルフォンド。
王弟を救い、力の制御を逸し、静養の名目で王宮を離れたとされる白い御子。
その不在を埋めるかのように浮上した、別の可能性。
ヒューストン伯は報告書を静かに折り畳んだ。
この話は、もう止まらない。
誰かが意図して流したものではない。だからこそ、手に負えない。
貴族社会は血の匂いに敏い。一度嗅ぎつければ、必ず群がる。
そして——当の少年は、まだ何も知らない。
自分が、この国の均衡を揺るがす“爆心”になりつつあることを。
*
蝋燭の灯りは、教会の応接間では控えめに保たれていた。
豪奢さよりも、沈黙を尊ぶ場所だ。
ヒューストン伯は、無駄のない所作で椅子に腰を下ろした。
向かいには、教皇代理——名目上は「相談役」とされる枢機卿がいる。
「——本日は、お耳をお貸しいただき感謝いたします」
向かいに座る枢機卿は、穏やかに頷くだけで促さない。だから伯爵は、あくまで“相談”の体で話を切り出した。
「些細なことかもしれません。ですが、近頃王都で囁かれている噂が、どうにも気にかかりまして」
静謐な執務室で、ヒューストン伯爵は低く切り出した。
相対する男は、沈黙のまま先を促す。
「白の御子——セリウス・モルフォンド殿が、王都を離れられたという噂です」
枢機卿の指が、紙の上でわずかに止まった。
それを確認してから、伯爵は続ける。
「あの御子は、もともと王宮に“あてがわれた存在”ではありませんよね」
ティアベアラー。
神に選ばれ、管理され、力を貸し与える代わりに自由を持たない御子。
王族に仕える御子とは、命を繋ぐための聖具であり、人格は考慮されない。
だが、セリウス・モルフォンドは違った。
「モルフォンド家が差し出したのは、表向きには“乳兄弟”という立場でした。
幼少期から王宮に近づけた。あの外見ですから、養子を守るためにはとても巧妙なやり方でした。
——御子であることを明言せず、しかし完全にも切り離さない」
伯爵は、あたかも評価するかのように、わずかに口角を上げた。
「神に捧げた聖なる奴隷としてではなく、あくまでも忠臣一族の御曹司、次代の忠臣として。
そうすれば、王族は情を抱き、教会は強く口を出しにくくなる」
少なくとも——伯爵の目には、それは庇護ではなく利用に映っていた。
シャルルやベルトランの慈悲ではなく、一族としての計算に。
「道具として差し出しながら、同時に“人”として囲い込む。結果として、モルフォンド家は王家との結びつきを一層盤石にした。」
そこで、ヒューストンは一拍置いた。
「ですが、その曖昧さが今になって牙を剥いている。まさかこんな事態になろうなどモルフォンド侯爵も予想しておられなかったでしょう」
伯爵は一拍置く。
「辺境での静養の後、彼はこれまでのお飾りの“医官”としてではなく、明確で特別な役割を与えられ戻ってきた。
セリウス殿本人はどう思ったでしょうな」
枢機卿の眉が、ほんの僅かに動く。
「曖昧さは、秩序を壊します。
人として扱われた御子が、もし——自分の意志で王族を動かせると知ったら?」
伯爵の声は、どこまでも穏やかだった。
「王弟を救ったのは御子として当然の行為。
ですが、元はと言えば王弟が先に御子を守ったからというではありませんか」
そこまで言って、伯爵は静かに視線を落とす。
「さらに……彼が“家族”と呼ぶ少年の存在です」
枢機卿が、初めて顔を上げた。
「ランドフォード領にいる十三歳の少年。名はローワン。
父王が崩御された年と同じ頃に生まれ、
亡くなった後妃と同じ名を持つ女を母に持ち、
そして——亡き父王によく似た茜色の瞳」
偶然、という言葉は使わなかった。
必要ないと分かっていたからだ。
「暴発で力を失い、またこれまで囲っていた王弟にも捨てられた御子が、今度はその少年と行動を共にしている」
伯爵は、憂慮するように息を吐いた。
「もちろん、私は陰謀論を語りたいわけではありません。
ただ……もし世間が、“御子が隠された王族を自らの盾にしようとしている”などと考え始めたら——」
伯爵は、一瞬言葉を迷うような仕草をした。
「教会としては、いかがでしょうか。
管理されていない御子。
意志を持ち、人として扱われ、王族の血に近しい少年と結びついている御子」
伯爵は、深く頭を下げた。
「私は、ただ秩序を案じているだけです。
王宮が今、妃選びという繊細な時期にある以上——王宮も、教会も、不要な混乱に巻き込まれてはなりませんでしょう」
枢機卿は、しばし沈黙していた。
卓上の書類に視線を落とし、指先でその縁をなぞる。
ヒューストン伯は、急かさない。
沈黙は、今は味方だった。
「……確かに」
目の前の男が低く息を吐いた。
「白の御子が王都を離れたこと。
その御子が“家族”と呼ぶ、素性の定かでない少年の存在。そして、その少年が王族の血を疑われるに足る特徴を持っていること——看過できる話ではありませんね」
ヒューストンは、わずかに眉を下げた。
憂慮と遠慮を装った、よく出来た表情だ。
しばしの沈黙の後、向かいの男は小さく頷いた。
「この件は、教皇猊下にお伝えいたします」
その一言で、場の空気が決まった。
ヒューストン伯は、ほっとしたように肩の力を抜き、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。
私はただ、王国と教会の秩序が、不要な混乱に晒されることを案じているだけです」
声は誠実そのものだった。——表向きは。
伏せた視線の奥で、伯爵は冷静に計算する。
教皇の耳に入れば、白の御子の扱いは慎重にならざるを得ない。
噂の少年についても、調査が入る。
王弟の妃選びなど、後回しになるのは目に見えている。
(今は、“選べる状況”じゃない)
王弟の噂が膨らめば、妃選びは滞る。
その間に、息子ヴィクトルの立ち位置を固めることができる。
秩序のため。教会のため。王宮のため。
そう語るその舌は、確かに、自らの利益の味を知っていた。
ヒューストン伯は、顔を上げ、穏やかな微笑を浮かべた。
「教会のお力添えに、感謝いたします」
その笑みの裏で、彼は確信していた。
*
正午前、ランドフォード領の空気が変わった。
街道を進む四騎を最初に見つけたのは、畑に出ていた領民だった。
揃いの外套、馬具に刻まれた教会の紋章。
誰かが息を呑み、走り出す。
——教会だ。
何かが起きているのだと皆が悟った。
すっかり憔悴した顔で再びこの場所に帰ってきたセリウス。
それでも、町に馴染んだ子どもたちに向ける笑顔は柔らかく優しく、かつての彼を取り戻し始めたというのに。
それが、静かに失われていく音が聞こえる。
人々は言葉もなく、セリウス邸へと駆けた。
*
使節が馬を降りたのは、丘の上のセリウス邸ではなく、麓の——リディアの家の前だった。
騎士が二人。武装は最小限だが、隠す気のない威圧がある。
その後ろに枢機卿と神官が続いた。
「ランドフォード領主代行、リディア殿」
枢機卿の声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。
「こちらの少年——ローワン殿に、お話を伺いたい。
王都へ同行願えるだろうか」
「……その件でしたら」
リディアは息を呑み、だが狼狽えることなく一歩、前に出る。
「王家を欺き、子を連れて逃れた責は、すべて私にございます。
咎めるのであれば、この身を——」
「いえ」
枢機卿は、柔らかく、しかし確実に言葉を切った。
彼の視線が階段を下りてきたローワンに注がれる。
ローワンは、その視線をまっすぐ受け止めたまま口を開いた。
「お話があるのは、僕ですね」
年相応の声だったが、そこに曖昧さはなかった。
そのまま表情ひとつ変えず歩み寄る。
「ローワン——」
少年は母親の呼ひ掛けをその背中で制すようにもう一歩前へ出た。
「母さん。そろそろ行かなくちゃと思っていたところです。それが向こうからやって来た。
それだけのことだよ」
振り返らない。
枢機卿はその言葉を測るように、しばしの間黙した。
少年は、名も血も、まだ口にしない。
だが――覚悟だけは、すでに差し出されていた。
そのとき、庭を駆けてくる足音がした。
「……どういうご用件でしょうか」
息を切らし、セリウスが姿を現す。
強い日差しの事など忘れて、眼鏡もヴェールも着けずに飛び出して来た様だった。
「彼を巻き込むのはおやめください。
ローワンは、ただの——」
「ただの、何だ?」
振り向いた騎士の一人が、切れ長の眼に力を込めて言い放った。
「王家の血を隠し、自らの側に置き、その上で『ただの少年』と呼ぶか。
貴様が過ぎた真似をするから、こうなる」
セリウスは一瞬、唇を噛んだ。
予期していた事だ。それでも。
「で…でしたら咎を受けるのは私でしょう。彼は母親とここで慎ましく暮らしてきたのです。それを……」
「セリウス」
枢機卿がゆっくりと振り向く。深く刻まれた目尻の皺ん一層強めてセリウスを見つめると、静かに言う。
「我々は、彼自身の言葉を聞きに来たのだ。そなたの出る幕ではない」
だが、引くわけにはいかなかった。
「……どうしても連れて行くというのなら、私も同行します。ローワンは未成年です。保護者なしでの連行は、認められないはずだ」
沈黙。
枢機卿はしばしセリウスを見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「——まあ、よいでしょう」
その言葉に、許可以上の意味はなかった。
ただの処理だ。
リディアの手が震えながら、セリウスの袖を掴む。
「……セリウス……」
セリウスは振り返る。
いつものように、柔らかく笑えているかは分からなかった。
「私が着いていきます」
見届けると約束した。
それだけは守らなければならない。
ローワンは黙って、その背を見ていた。
逃げるためではない。
向き合うために、ここまで来たのだと——自分に言い聞かせながら。




