希望
ゆっくりと、だが確実にセリウスは調子を取り戻していった。
無理に何かをさせることも、閉じ込めることもせず。ただそばに人がいて、取り止めもなく会話をする。それだけで、溢れ出そうな幾つもの感情を、セリウスはゆっくりと自分の胸に抱き留めることが出来た。
その傍で、ローワンは胸に灯った小さな信念の焔を、誰にも見せぬまま、静かに、しかし確実に強くしていた。
ランドフォードまでの道のりは長かったが、体調を見ながらゆっくり進む旅は、ローワンにとっても得るものが多かった。宿場町で出会う人々、道中の小さな村、畑で働く老夫婦や、子どもたちの笑い声。
それぞれが、それぞれの場所で生きている。その当たり前の重なりが、——守られるべきものとしてではなく、共に在るものとして、ローワンの胸に静かに積み重なってゆく。
予定より十日ほど遅れて、ランドフォード領に着いたのは昼下がりだった。
門の前には、すでにたくさんの子どもたちが集まっている。声を上げて駆け寄る子、背伸びをして馬車を覗き込む子。丘の上では、セリウス邸からナディアやクロムウェルが大きく手を振っていた。
「……みんな……」
その光景を目にした瞬間、セリウスの表情がふっと崩れた。堪えきれずに零れた一粒の涙が頬を伝い、慌てたように瞬きをしてから、彼は笑った。
それは年齢よりもずっと無垢で、飾り気のない笑顔だった。
その横顔を見て、ローワンは思わず視線を逸らす。胸の奥が、少しだけ熱くなっていた。
——帰ってきたのだ。この場所に、この人の居場所に。そして、セリウスもまた生まれ変わろうとしている。そう思えた。
*
ランドフォードに戻った数日後のこと。
セリウスは、ある老女の診察に訪れていた。薬湯を用意している間、老女は昔を思い出すように、この地に伝わる神話を語り始める。
かつて、一柱の神が姿を消し、大地は荒れ果てた。他の神々は彼を国へ連れ戻そうとしたが、それは逆効果だった。理を失った神は激怒し、川の流れを逸らし、人の家々を押し流す。神と人とのあいだの裂け目は、広がるばかりだった。
困り果てた神々は、ついにすべてを一柱の女神に託す事にした。
東の国より来たりし、癒しと魔法を司る女神——カムルセア。
彼女は剣を取らなかった。
古き呪文と、正しき儀式をもって、荒ぶる神の心に向き合った。
そして、彼を本来あるべき姿へと還したという。
乱れた理は整えられ、世界は再び息を吹き返した。
それは、これまで各地で聞いてきた神話とは、微妙に語り口が異なっていた。
老女は静かに言った。
「あなたが、皆の前で話をなさった日があったでしょう」
領民に向けて、孤児受け入れについて説明した日のことだ。
「あのとき、光を受けたあなたは——まるでカムルセアのようでしたよ」
「……カムルセア?」
「ええ。遠い東の国の女神の名です」
ランドフォードの一族は、東方の異国からこのヴァルセニア王国へ渡ってきたと伝えられている。遠く隔たった土地に、よく似た神話が根づいていたのも、偶然ではないのかもしれない。
光を纏い、異郷より現れた女神の話。
今では治水に長けた国として知られるその地の神話には、「救済」の物語とともに、大水への恐れと祈りが滲んでいた。
もし——神話とは、神が与えたものではなく、民が自ら生み出したものだとしたら。人の心の奥底には、個人を超えて共有される層があるのではないか。
同じ苦しみ、同じ絶望に晒されたとき、人は似た形の救いを夢見る。遠く離れた土地で、よく似た神話が生まれるのも、個人の見る夢と、古い物語が重なり合うのも——なんら不思議ではない。
そう信じなければ、生き延びられないほどの厄災が、幾度もこの世界を襲ってきたのだ。
ランドフォードの人々は、初めてセリウスを見たとき、戸惑いはしても怯えなかった。他の領地で必ず囁かれた「白い悪魔」という言葉も、ここではほとんど聞かれなかった。
この地には、光を纏う女神の神話がある。白は忌むべき色ではなく、夜明けの色だったからだ。
「それにねえ……」
老女は微笑んだ。
「カムルセアは、捧げられた羊を、正しい場所へ導く役目を担っていたとも言われていますよ」
外から、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
老女はほとんど見えていない瞳を細め、窓の方を向いた。
「あなたは女神ではない。けれど……女神の心を持っている。少なくとも、私にはそう見えます」
(……だから、ここでは)
受け入れられていた。ただ、この地に在るものとして。
セリウスの胸に、もう一度、静かな灯がともる。けれどそれは使命などという大それたものではなかった。
贄としての覚悟でも、女神の代行者としての誇りでもない。
ただ——人として、人と向き合いたい。
誰かを救うために自分を削り尽くすのではなく、共に生き、共に迷い、共に選ぶ者でありたい。
畑を耕す手。
笑い合う声。
泣き止まぬ子を抱き上げる腕。
ここにあるのは、奇跡でも神話の再来でもない。
傷つきながらも日々を続けていく、人の営みそのものだった。
女神が剣を取らず、心に向き合ったように、癒しの力などなくとも自分にできることは、きっとある。この先、何を失い、何を背負うのかは分からない。けれど許されるのならば——。
それはまだ淡く心を滲ませる程度の、微かな願いだった。
*
夕暮れが近づくころ、屋敷は珍しく静かだった。
昼間の賑わいが嘘のように、廊下には人の気配もなく、窓の外では葡萄の葉が風に揺れて、かすかな擦過音を立てている。
ローワンは、母の前にまっすぐ立っていた。
背丈はまだ伸び盛りで、身体のどこかに少年の名残を残している。声もまた、変わりきらない途中の音で、少し掠れていた。
それでも、言葉を選ぶ目だけは、もう子どものものではなかった。
「母さんごめん。僕もう——ここには帰らないよ」
その一言で、部屋の空気がわずかに張りつめる。
リディアは縫い物の手を止め、針を布に残したまま、ゆっくりと顔を上げた。
驚きはなかった。
ただ、深く息を吸い込み、ローワンの目をまっすぐに見返す。
「理由を、聞いてもいい?」
責めるでも、遮るでもない声だった。
ローワンは一度だけ喉を鳴らし、言葉を探す。
「……大切な人がいる」
それだけでは足りないと分かっていても、まずはそこからしか始められなかった。
「守りたい人がいるんだ」
指先に力が入り、無意識のうちに拳を握りしめる。
「その人の尊厳が、都合のいい“物語”の中で削られていくのを、黙って見ていたくない。
この国が……ほんの少しでも、違う未来を選べるなら」
視線を逸らさず、言葉を続ける。
「僕は、その場に立ちたい。
逃げないで、見て、選んで、責任を負う側に」
無謀だと笑われるかもしれない。夢見がちだと言われることも、きっとある。それでも——今のローワンには、後戻りする気持ちはなかった。
「僕には……その場に立つための“札”がある。望んで手にしたものじゃない。でも、今はそれが必要なんだ」
リディアはしばらく何も言わず、ローワンを見つめていた。
やがて静かに立ち上がり、部屋の隅にある古い箪笥へと歩み寄る。引き出しを開け、一通の封筒を取り出すと
「……あなたの父親からのものよ」
そう言って、リディアはローワンの手のひらに、それをそっと載せた。セリウスを介して、長い時を経て本来の宛先へと渡ったのだ。
「いつか、“自分で選ぶ日が来たら”渡してほしいって言われていたの。使うかどうかは、あなた次第だとも」
ローワンは封筒を見下ろした。
紙の重さはほとんどないのに、手の中ではひどく確かな存在感があった。
知らず、指先が震える。
「……母さん」
「止めないわ」
即答だった。
リディアは微笑む。その笑顔は穏やかで、同時に、どこか誇らしげだった。
「怖くない母親なんていない。でもね、ローワン」
静かに、一歩近づく。
「自分の意思で立とうとする人を、縛る権利もない」
ローワンは深く息を吸い、封筒を胸に抱いた。
——これで、もう戻れない。
そう思ったのに、不思議と後悔はなかった。
遠く離れつつある誰かの横顔が、胸の奥で静かに灯っている。
彼はもう、「ただの少年」でいる場所には戻れない。
喪失感は無かった。
あるのはただ、選んだという、確かな実感だけ。




