彼の不在
セリウスはベッドに横たわったまま、窓際で本を読むローワンの横顔を眺めていた。
半ば逃げるようにして王都を出て六日ほど経っていた。本来ならとっくにランドフォード領で羽を伸ばしていたはずなのに、ローワンは今日もセリウスのそばにいる。
午後の光を受けたその輪郭は、少し前までの面影を残しながらも、確かに変わりつつあった。
「ローワン、大人っぽくなってきたね」
そう言って、セリウスは笑った。
ローワンは最近、声変わりが始まっている。背丈も、学校に通い始めた頃より随分と伸びた。
「きっと、かっこよくなる」
眠気を含んだ声で、ふふ、と小さく笑う。
その様子にローワンは読んでいた本を閉じ、静かに振り向いた。
「——知りたい、という気持ちは、きっと君の足元を照らしてくれる」
「うん?」
「セリウス様は、僕にそう言いましたよね」
「……え」
「得た知識が、たくさんの選択肢をくれる、とも」
セリウスは一瞬目を瞬いてから、困ったように笑った。
「……私、そんな偉そうなこと言ったかい?」
「言いましたよ」
ローワンもまた、ははっと思わず溢す様に苦笑した。
その笑い方が、一瞬だけ——アルヴェルに似て見えて、セリウスは胸の奥を小さく揺らされる。
「僕……一番“これはないな”って思っていた選択肢を、選びそうです」
「……そう、」
意味を掴みきれず、セリウスは曖昧に相槌を打つ。けれどローワンは、それ以上何も続けなかった。
ただ、もう一度だけ微笑む。
今度は紛れもなく、ローワン自身の顔で。
セリウスはその横顔を見つめながら、胸の奥に静かな予感が灯る。
何かが、確かに動き始めていたのだった。
ローワンが部屋を後にすると、エミリアがすぐそばの壁に凭れて待っていた。
「元気になってきたよ。大丈夫」
訊かれてもいないのに、ローワンが答えると、エミリアは萎れた花みたいに俯いたまま笑った。
二人はそのまま中庭へ出る。
葡萄の葉が陽を弾き、黒い影を落としていた。
甘い匂いと土の匂いが混じった、夏の空気。
「ねえ、ローワン」
エミリアは、あくまで何でもない調子で口を開いた。
「……もしもよ。ほんとうに、万が一の話だけど」
その前置きだけで、ローワンの胸はひやりとした。
「王弟殿下の妃が、どうしても決まらなかったら。
――そのとき、うちに話が来ると思う?」
ローワンは即答できなかった。
否定することは簡単だ。だが、彼女が“賢い”ことを、彼はよく知っている。
「……来ないとは、言い切れないよね」
慎重に選んだ言葉だった。
エミリアは苦笑する。
「そうよね。うん、分かってる」
葡萄の蔓に触れ、葉を避けながら続ける。
「忠臣の家って、便利よね。必要なときは“当然のように”差し出される」
皮肉めいた声音だったが、そこに怒りは少なかった。むしろ、覚悟に近い。
「……嫌かい?」
ローワンが問うと、エミリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
「嫌よ。もちろん。でも」
彼女は空を見上げる。
「私が余計なことしなくても——お兄さまも殿下も、もう覚悟していた。それが分かったから…」
言葉尻が震え、そこで言葉を切った。
彼女は空を仰いだが、背後にいたローワンに、その表情は見えなかった。
きっと以前なら、「君は強いね」と言っただろう。
その言葉の残酷さも考えずに。
「……エミリア」
名前を呼ぶと、彼女は顔を雑に擦ってから振り返った。
言葉は喉まで来ていた。
遠くへ行かないでほしい、と。
けれど、それは彼女を縛る言葉になる。
「——なんでもない」
ローワンは、いつものように笑った。
「今は、夏休みだ。
葡萄が先だよ。考えごとは秋に回そう」
エミリアは一瞬、彼の顔をじっと見てから、ふっと笑った。
「そうね。……秋は、案外すぐ来るけど」
その言葉が、二人の間に小さく残ったまま、
蝉の声が遠くで鳴いていた。
*
王宮の会議室では、北方で進められている孤児受け入れ政策の進捗が報告されていた。
長机の上に広げられた書類を一瞥しながら、アーサー王は視線を上げる。
「寡婦の社会参加支援についてだが——寄合ごとの共助の枠組みは、現地で機能しているのか?」
問いを受け、文官メンデス・クローヴィンが一歩前に出た。
「はい、陛下。現在は試験的運用の段階ではありますが、生活基盤の安定と孤児の定着率、いずれにも良い影響が出ております。寡婦自身が寄合の一員として意思決定に参加できる点が、特に評価されております」
「そうか……」
アーサーは小さく頷いた。
元はと言えば、セリウスが静かに差し出してきた構想だった。土地と人をよく見て幾度も調整を繰り返した末の策であった。
ふと、会議室を見回す。
「モルフォンド卿の姿がないが?」
一瞬、空気が揺れた。
「ランドフォード領へ、静養に向かわれたと伺っております」
「……聞いておらぬ」
思わず低く漏れた声に、答えた官僚が僅かに身を強張らせる。
「そ、それは……失礼いたしました。てっきり陛下には既にお伝えしているものかと……」
アーサーはそれ以上追及しなかった。
元々、政策の本格始動を理由に無理やりあの地から引き戻したのは自分だ。
むしろ内地にて指図しているだけでも十分であるはずなのに、不安定な状態のまま視察まで参加したのだと聞かされた時は笑えもしなかった。
このところの耳障りな噂が、またより一層真実味を醸し出す。
(……まずいな)
それでも。ランドフォードで静養している方が、この噂は届くまい。
まずはそれだけでも彼にとっては救いなのかもしれない。そう思うことにした。
何も言わずに発ったことが、少しだけ寂しかったが、アーサーは書類に視線を戻し、静かに息を整えた。
「続けてくれ」
王としての声は、揺れを残さなかった。
文官たちは、「彼の不在」を当然のことのように受け止めていた。
会議の議題は滞りなく進み、誰一人として名を呼ばない。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
けれど——
メンデス・クローヴィンだけは知っている。
噂の「誤爆騒ぎ」の後、ようやく王宮から私邸へ戻ったというのに、セリウスはその翌日から視察隊の報告書を丁寧に取りまとめていた。
文字は整い、内容は簡潔で、無駄がない。体調不良の兆しなど、どこにも見えなかった。
それどころか、次の視察への同行が決まると、彼は医師としても働き続けた。
現地では冷たい視線を浴び、水をかけられ、「悪魔」と罵られたが、彼は何事もなかったかのように振る舞い、誰よりも長く歩き、誰よりも多くの者から話を聞いていた。
まるで、何かに取り憑かれたように。あるいは、何かを必死に振り払おうとしているかのように。
あまりに痛々しくて、メンデスは何度も声をかけた。
けれど、そのたびに彼は穏やかに笑って、「大丈夫ですから」と言った。
だから——あの朝、彼の従者から大量の引き継ぎ書を受け取ったとき、胸の奥でほっと息をついた。
(やっと……止まった)
会議が終わり、書類をまとめて身支度を整えていると、控えめな足音が近づいてきた。
顔を上げると、王の侍従、コリンがすぐ目の前に立っていた。
「クローヴィン卿。少し、お時間よろしいでしょうか」
その声音は穏やかだが、逃げ道のない種類の丁寧さだった。メンデスは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに頷いた。
「……陛下のご用向き、ですね」
「ええ。改めて」
コリンはそう言って、わずかに声を落とす。
「——セリウス様の件で」
その一言で、胸の奥に冷たいものが差し込んだ。
休ませてやりたいのに。
王宮は、まだ彼を手放すつもりがないのか。
メンデスはゆっくりと息を吐いた。
(……これは、嵐の前触れだな)
コリンの後に続いて、メンデスは謁見の間に参じた。一介の文官が、この場所に参ずることなど、一生に一度あるかないか。
(その一度が、今か……)
短く息を吐き、手前を歩いていたコリンが足を止めると、「お待ちを」とだけ告げて奥へと去っていく。
やがて、国王が玉座に現れた。
「あれは——セリウスは、無事か?」
いつもの威厳に満ちた声とは、どこか違っていた。メンデスは膝を折り、深く頭を下げる。
「申し訳ございません。私も、突然に知らされたのです。……ですが、以前から準備されていたのだと思われます。あの量の資料は、とても数日で整えられるものではありません」
彼の無事を確認する為に、わざわざ場所を移動する。
セリウスは、王族の贄だ。
表立って慈悲を掛けられる存在ではない——そういうことか。
王弟は、あくまで“乳兄弟”として振る舞っていた。だが——それが許されるのは、王ではないからだ。
王こそが正しいのだと、突きつけられたようで、メンデスの心は冷たい風が吹き抜ける様だった。
アーサー王はそれから二、三言質問をしたが、どれも彼の欲しい回答を提示することは出来なかった。
ほんの短い間の付き合いのメンデスに、セリウスのことなど分かるはずもなかった。
謁見の間を辞したあと、回廊はひどく静かだった。高い天井に足音が吸われ、メンデスとコリン二人分の影だけが長く伸びる。
しばらく無言で歩いていたメンデスは、ふいに立ち止まった。
「……コリン殿」
名を呼ばれ、王の侍従は足を止める。振り返らず、ただ耳を傾ける姿勢だった。
「少しの間だけです。少しだけ、あの方と仕事をしただけの私ですら……」
言葉を探すように、メンデスは唇を噛んだ。
「分かってしまったんです。セリウス様が、どれほどがむしゃらで、頑固で……そして、誰よりも人間くさい方だということが」
回廊の窓から差し込む光が、床に模様を落とす。
「崇められもする。疎まれもする。まるで概念のように語られて。でも、あの人は……」
そこで一度、息を吐いた。
「御子なんていう、都合のいい名前で語られる王国の贄じゃありません。国民を、一人残らず助けようとする——愚直な医師です。私には、そう見えます」
声が、わずかに震える。
「守られるべき、この王国の民の一人なんですよ」
沈黙。
それを破ったのは、メンデス自身だった。
「……コリン殿も、ご存じでしょう。
昔から、あの方がどういう人間か」
コリンはようやく振り返った。
その表情は、侍従としての仮面を外しきれずにいる。
「……ええ」
それは、軽くはない肯定だった。
「私は、陛下の側で長く仕えてきました。
そして同じだけ、セリウスが“人であること”を見てきたつもりです」
メンデスは、首を横に振った。
「もう……引き戻すべきじゃありません。これ以上、あの方を役割に押し戻すのは」
コリンはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに答える。
「……それを、陛下が知らぬわけではありません」
それは慰めでも否定でもなく、ただの事実だった。
「だからこそ、動けない。選択を誤る訳にはいかないのです」
再び歩き出す二人の足音が、回廊に重なる。
王都は、まだ何も決定していない。
だが同時に、もう何も“なかったこと”には戻れなくなっていた。
噂というものは、いつも正義の顔をして広がる。
最初は、ささやき声だった。次に、もっともらしい理由が付け足された。最後には、誰かを断罪するための「物語」になる。
——ランドフォード辺境領送り。
セリウスが王都を離れたあのときの出来事が、今になって蒸し返されていた。
「王族自らが、御子を王宮から遠ざけた」
「それは果たして、単なる職務だったのか?」
事実、命令を出したのはアルヴェルだ。
だが、それは王の許可のもと、役職として下した判断であって——ティアベアラーを“王家の道具”として扱う歴史を終わらせる名目でも、ましてや、兄アーサーに背いた行為でもなかった。
それでも噂は、最も都合のいい形で膨らんでいく。
「王弟は、王の知らぬところで御子を王宮から追い出した」
「ティアベアラーを、王権から切り離そうとしたのではないか」
一方で、セリウスの王都帰還。王アーサーによる孤児支援政策の助言役を任命されたが、北方視察ののち、突如その任を離れた事。それにも妙な尾鰭が付いた。
「夜会の直後に、王都を離れたらしい」
「やはり、王弟は御子を王宮に置きたくなかったのでは?」
「御子は、王弟に利用されたのではないか」
「役目を終えたから、遠ざけられたのでは?」
それらは静かに、しかし確実に二つの声へと分かれ、王都の空気そのものを塗り替えていった。
ひとつは、ティアベアラー擁護派と呼ばれる人々。平民、孤児院の関係者、地方領主の一部。
「王弟アルヴェルこそが、弱き者の味方だ」
「御子を“人”として扱おうとした、唯一の王族だ」
「次代に必要なのは、ああいう王だろう」
彼らにとって、アルヴェルは“希望”だった。
もうひとつは、古参王族支持派。秩序と伝統を重んじ、それが崩れることを恐れる者たち。
「王弟は危険だ」
「王権と御子の関係を壊そうとしている」
「このままでは、王家そのものが揺らぐ」
そして——どちらの声の中にも、肝心の名前はない。
誰も、彼自身を語ってはいなかった。
メンデスの懸念通り、御子は、語られ、利用され、守られ、恐れられながら、どの立場からも、当事者として扱われはしなかった。
*
同じ頃、別の部屋では、もっと静かな“決定”が進んでいた。
アルヴェルは、机上に並べられた書類を眺めていた。
——妃候補名簿。
家格、血筋、政治的均衡。
同盟、牽制、沈静。
「……随分と、準備がいいな」
独り言のように呟くと、側近の一人が慎重に答えた。
「不用意な噂を抑えるためにも、形を示す必要があるかと」
形——その言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
「政局を安定させるには、妃殿下の存在が不可欠ですからな」
「候補は既に、数家に絞られております」
それは提案ではなく、確認だった。
もはや、決定事項をなぞるだけの声音。
王弟は黙って頷く。
いつものように、理を乱さぬ王族の顔で。
兄を、この国を助けたい。それを自己犠牲だとは思わない。
もとより、それが王族の宿命なのだから。
引き受けるからには——手放した彼が、そして彼と同じ存在が、今より少しでも呼吸しやすい国にしよう。
それは、兄と共に成し遂げるはずのことで。
手を取り合い、壊さずに、王宮と教会の築いてしまった理という檻を、丁寧にほどきながら進むはずだった。
——それなのに。
どうして絡め取ろうとする。
どうして歪める。
どうして、覆す。
机上に置いた拳に、知らず力が籠もったかと思うと、アルヴェルはぐっと身を丸めた。
「殿下……!?」
咄嗟に、侍従ノエルドが駆け寄った。
「……っ、は」
漏れたのは、笑いとも呼べない息だった。
情けない。
こんな時でさえ、胸の奥で存在を主張している。
温かくて、苦しい。
理屈では切り離したはずのものが、離れていってくれない。
引き受けると決めた。
王弟として、政治として、制度として。
けれど、その代価に誰の人生が、誰の心が、どれだけ削られるのか。自分はそれを「仕方がない」と納得できるだろうか。
アーサーはそれを覚悟と言った。
それが王なのだと。
では——
ならば自分はいま、何なのだ。




