Fons(2)
セリウスの部屋を辞したあと、シャルルは屋敷のリビングで一人、古い書を広げていた。
革表紙はところどころ擦り切れ、紙は黄ばんでいる。代々の当主が手に取ってきたのだろう、頁の端には細かな書き込みも残っている。
ローワンはその様子を少し離れたところから眺めていたが、やがて声をかけられる前に近づいた。
「……興味がありそうだね」
シャルルはそう言って、隣の椅子を軽く叩いた。
「一緒に手がかりを探してみるかい?さっきから、どうにもすっきりしない顔をしている」
促されるまま腰を下ろすと、ローワンは広げられた書の頁を覗き込んだ。そこに記されているのは、王国の成立以前——女神信仰と、御子、そしてその「守り人」についての断片的な記述だった。
「この、守り人って……モルフォンド一族のことですか?……御子の“隣”にいた、とありますが」
「そう。文脈的には、彼らの前に立って盾になるというより、寄り添い支える立場だったのだろうね」
シャルルはゆっくりと言葉を選ぶ。
「その力を溜め込み過ぎないように、溢れすぎたなら、受け止めて——泉そのものを塞ぐのではなく、貯水池の役目の様な……」
シャルルはポケットから取り出したペンダントに視線を落とした。
「私がセリウスにこれを持たせてから、体調が安定したように見えたんだ。だが——その後で、また崩れた」
先程セリウスと交わしていた会話を思い出し、その意味を、ようやく今、理解し始めていた。
頁を一枚、指でなぞる。
女神の涙より生まれし御子よ
泉を以て 民を潤せ
其れのみが 背負いし業を救済する
守り人よ
救済の為 流離う御子を知る者よ
御子が主の恩寵に苛まれるとき
その涙を 汝の皮袋に蓄えよ
そして慈しみ 共にあれ
不思議な言葉だった。
「癒しの力は対象の持つ治癒力を高める。
本来は傷を負った者に向けられるそれを、無傷の人間が受け取ることは、少なからず身体に負担があったはずだ。
もしかすると受け取ったその涙の泉に溺れずに済むためには、こうした石が必要だったのかもしれない」
シャルルは小さく息を吐いた。
「泉とは、いったい何だと思う?」
シャルルの訊き方は、すでに何かしら確信していることがある様に思えたが、ローワンはすぐには答えられず、ただ頁をめくるにとどまった。
(あ、これ……)
文字に走らせていたローワンの目がふと止まる。
己が深き処に 向き合う者あり
そのとき女神また向き合い給う
恥を厭わず 心を閉ざさぬならば
その涙 壺に満ちん
脳裏にランドフォードでの日々が浮かんでいた。
いつも穏やかで、声を荒げることもなく、感情を表に出さなかった、あの頃のセリウスを。
「……これまではあの石がなくても、セリウス様は普通に過ごせていたんですよね」
問いに、シャルルは小さく頷く。
「あの石が何か……例えば興奮や、強いショックを和らげるものだったとするなら……。
僕が思うに、それはきっと——必要以上に、ご自分の心の深いところを覗いてこなかったからじゃないでしょうか」
シャルルは一瞬だけ眉を寄せた。だが何も言わず、続きを促すようにもう一度頷く。
「ランドフォードで出会った頃の彼は、本当に穏やかで……あまり分かりやすく感情を表に出すことはありませんでした。でも、孤児の受け入れを始めてから、目に見えて笑うようになったんです」
そのとき、シンディや他の従者たちが、どこか安堵したような顔をしていたのを思い出す。
「セリウス様が声を上げて笑ったとき、皆本当に驚いてた。あの反応が、ずっと引っかかっていました」
王都に来てから聞いた、セリウスの過去。
シャルルやベルトランの、どこか壊れ物を扱う様な態度。そして——ランドフォードにいた頃とは違う、諦念の滲む水色の瞳。
「もし……彼の心が力の源泉なのだとしたら。セリウス様の変化は、それをちゃんと感じるようになってきた、ということなんだと思います。
素直に喜んだりできるようになったから、素直に怒ったり悲しんだりも出来るようになった」
ローワンは言葉を探しながら、続ける。
「それは、きっと楽なことじゃない。でも……それは今、枯渇している泉を戻すために必要な痛みなんじゃないかって」
辿々しく言い終えたローワンに、シャルルはしばらく返事をしなかった。
「上手く、伝わりましたか……?」
もじもじと両手を握り直しながらそう問いかける少年に、シャルルは苦笑混じりに頷いた。
「ああ。悔しいけど……その仮説は当たっているんだろうね」
返事をしながらふっと階段の方へと視線を流した。
(やはり、あの時も同じだったのかも知れない……)
今も部屋の奥で眠り、時にうわ言を繰り返す息子。もうすっかり大人の体躯であるのに、その状況は我が家に迎え入れたばかりの幼き頃とそっくりだった。
(いや、あのときよりはまだマシか……)
何かに怯え、傀儡の様に部屋の隅に凭れていた。
それでいて夜ごと泣き叫び、魘され、自身を掻きむしっていた。あれは、心身に受けた傷のせいだけではなかったからかも知れない。
(溢れかけていたのかも知れない……心が)
言葉もまだうまく扱えぬ年齢で。自分たちに助けられたとはいえ、彼にとっては知らぬ大人たちに囲まれて、恐ろしかったに違いない。
王宮ならば市井よりも露骨に彼の見た目に嫌悪を示す者はおるまい。そんな下心から彼を共だって出仕した。それに、当時第二王子だったアルヴェルはセリウスと年も近かった。きっと大人よりも子ども相手の方が、心がほぐれるに違いないと願って。
だが。
——ずっと誤解していたというのか。
5歳も過ぎると、セリウスはほとんど手が掛からなくなった。元より役立るために引き取ったのではなかったが、大人のことをよく見ていて、痒い所に手が届く配慮が自然とできる聡い子どもだった。物静かなのに、何かを訊ねれば小さな頭で一生懸命に考えて話す。そういう叩けば鳴る反応の良さが、父王にも気に入られていた。
いつも穏やかに微笑んで、物事を前向きに捉え、礼を尽くそうとする。そういうあの子の姿に、我々大人たちは胡座をかいていたんだ。
長い長い沈黙の後、彼は幾度も頷き、目元を指で押さえた。
「……そうだね」
ほんの少し、声が掠れていた。
「君の言う通りかもしれない。あの子は……ようやく、自分の心に触れ始めたんだ」
彼自身も触れようとしてこなかった、本心に。
リビングの窓から、夏の光が斜めに差し込んでいた。開きっぱなしの古書の頁が、風にわずかに揺れる。
「……結局のところ」
シャルルは少し言葉を選んで、それでも何かを覚悟する様に言った。
「教会にとっては便利だったんだよ。“心を持たない御子”という存在が」
もう後は、ただ事実を並べる声音だった。
「心を律し、感情を抑え、力を安定させる。膨大な力がない方が、管理する側にとっては一番“都合がいい”からね」
ローワンは黙って頷く。否定も肯定もせず、続きを待った。
「ティアベアラーが人間であることを忘れさせるには、“聖なる役割”と“規律”ほど便利なものはない」
シャルルは本を閉じ、指で表紙を撫でた。
「私たちが迎え入れなければ——あの子は、私たち"持たざる者"のように心を揺らすこともなく、ただの“御子”として在れたのかもしれない」
シャルルは、どこか遠くを見るように言った。
「……でもね」
小さく、笑う。
「可愛かったんだよ。ひとつ出来るようになって、またひとつ覚えて。——そうやって、少しずつ成長していくのが」
声が、わずかに掠れる。
「何をしてでも守ると、あの時は本気で思ったんだ」
なぜだろう。その言葉が、懺悔のように聞こえてならなかった。
ローワンは、その静けさの中で、ようやく口を開く。
「……セリウス様は」
言葉を選びながら、続けた。
「誰よりも、自分の在り方を分かっていたんじゃないかって。……悪魔だとか、神の使いだとか——そういうものとして見られているから、求められる役割を演じていたのかなって、最近思うんです」
シャルルの肩が震えているのをローワンは視界の端に捉えていたが、気付かぬふりをして続けた。
「あんなことがあったばかりなのに、視察に参加して。……異様でした。役に立たなければ、価値がない。……そう思っていたんじゃないかって。全部、今更ですけど」
テーブルの上のペンダントに、陽が差す。
穏やかで、澄んだ光。感情の波を、静かに鎮めてしまう光。
「これ、今のセリウス様には……もう、要らないんじゃないでしょうか」
言ってから、少しだけ視線を伏せる。
たかだか一年ちょっとの付き合いの癖に、彼の養父に自分は何を偉そうな事を言っているのか。自分の傲慢さを戒めるように、今更になってローワンはそっと唇を噛んだ。
シャルルは、すぐには答えなかった。
やがて、深く息を吐く。
「……強くなった、と思っていたんだよ」
自嘲気味に笑う。
「御子としてではなく、ひとりの臣下として立って——ようやく“人”として認められるんじゃないかって。あの子自身でその道を切り拓いているんだって思えて嬉しかった」
一瞬、言葉が途切れる。
「でも結局、私は……何も、分かっていなかったね」
その声には、誇りと、後悔が同時に滲んでいた。
「君は、すごいね。セリウスを見ていてくれて、ありがとう」
差し出された言葉は感謝だったが、淡い哀しみが滲んでいた。
そんな使命なんてなくても——
仮に御子でなかったとしても——
ここに居ていい、と。
愛している、と。
そう、言ってやるべきだった。
そんな後悔の色が混じっていた。
ローワンは、シャルルの言葉をしばらく反芻したあと、何かを決したように口を開いた。
「ティアベアラーは——神の使いである以前に、人間なんですよね」
低く、静かな声だった。揺らぎはない。
ローテーブルの上のスフェーンに、そっと触れだが、当然何も起こらない。ただ冷たいまま、沈黙している。
かつてこれを身に着けていた者たち——守り人。
その役目は、もう終わったのか。
それとも、形を変えて残っているのか。
(力があれば——)
胸をよぎる思いを、ローワンは否定しなかった。
「自分自身を感じることを許されないまま、奉仕だけを求められるなら——それは、あまりにも残酷だ」
シャルルは、何も言わない。だが、その沈黙はすべてを肯定していた。
「僕は……間違ってると思う」
小さな声だったが、けれど、そこに迷いはなかった。もう——守られるだけの場所には、戻れない。
ローワンの中で“何者でもない少年”が、静かに終わろうとしていた。




