Fons(1)
夜会を終えたその夜。
屋敷へ戻ったセリウスは、まるで人形のように朧げな瞳のまま、一言も話さず自室へとこもってしまった。
彼を送り届けた従者は、「何かあればご報告を、とエミリア様より託かっております」とだけ告げ、モルフォンド侯の屋敷へ引き返して行った。
ローワンはしばらく扉の前に立ち尽くしていた。
ノックすべきか、それとも——。
だが、迷いは長く続かない。不安の方が、わずかに強かったからだ。
静かに扉を開けるが、部屋には灯りがなかった。目を凝らして見れば、窓から差し込むわずかな光の中、椅子に腰掛けたまま動かない影があった。
呼吸は浅く、瞼は閉じられたまま。彼は胸の前でペンダントを握りしめ、祈るように身体を丸めている。
それでも、乱れてはいない。だからこそ、痛々しかった。
「……セリウス様」
ローワンは、ためらいながら声をかける。
「何か……ありましたか」
すぐには返事がなかった。
やがて、ほんのわずかに唇が持ち上がる。
廊下から差し込む仄かな光に照らされたそれは、あまりにも薄く、壊れそうな笑みだった。
「ねえ、ローワン」
どこか冗談めかした声音。問いに対する答えをなど、端からするつもりもない様で、
「全部が嫌になったら……みんなで逃げようって言っただろう?」
と、そう言った。モルフォンド侯爵が来たあの夜と同じ顔をして。
凪いでいる、のとは違う。感情が追いつく前に、置き去りにされた顔。淋しいのとも悲しいのともつかない、孤独で果てしなく遠くに消えてしまいそうな。
「君、言ってたろう?あれは、まだ有効……?」
軽い調子の言葉だった。けれど、その奥で何かが限界まで擦り切れているのが、痛いほど伝わってくる。
ローワンは、迷わなかった。
「はい」
それだけを、はっきりと。
——逃げていい。そうしなければ、この人はここに留まったまま、静かに壊れてしまう。
ローワンは、そう確信していた。
翌朝、屋敷は驚くほど静かだった。
まるで、こうなることを最初から知っていたかのように、セリウスはすでにすべての仕事を終えた状態で、アンヘルに王宮の文官宛へ書類を託した。
少し寝たお陰か、やや済々とした顔つきだった。
荷はほとんどない。思い出すら、置いていくかのようだった。
シンディが「戻って来ますよね?」と言いかけて、やめる。代わりに「最近働き詰めでしたものね」とぎこちなく笑った。
馬車に乗り込むとき、そんな彼女を安心させようと見せた彼の笑顔は、前日よりもわずかに柔らいでいた。何か無理をしているのは分かる。だが少なくとも他人を気遣うだけの余裕はありそうだ。
それにローワンは胸を撫で下ろしたのだが——王都を離れてほどなく、セリウスは三度、激しく吐いた。
顔色は青白く、指先は震えている。セリウスの中で、もう既に何かが起きていた。
すぐさまその場で進路は変更され、目的地はローワンの故郷、ランドフォードではなく——より近い、モルフォンド領へと向かった。
「静養」という言葉で覆い隠したそれは、実のところ、これ以上進めば、本当に壊れてしまうという判断だった。
馬車の揺れの中、セリウスは目を閉じたまま、何も言わない。ただ、ようやく力を抜いたその横顔だけが、ひどく疲れ切っていた。
**
数日遅れでモルフォンドの屋敷に戻ったエミリアは、静かに肩を震わせていた。
「私のせい……」
唇を噛みしめ、震える声で繰り返す。
「お兄さまを追い詰めたのは、私よ……」
事情も知らず、踏み込んだ。何かが変わればいいと——あるいは、前に進めればいいと。実際、兄はどうあれ王弟の方は、兄を特別に思っているのは明白だった。
けれど。
——余計なお世話というものだよ。
あの言葉が、耳から離れない。
閉ざされた扉の向こうにいる兄を思い浮かべ、エミリアは嗚咽を堪えきれなかった。
何も責めない。何も言わない。
そんな人が、意識的であれ無意識的であれ、あのとき確かに刃を向けたのだ。
——これ以上、踏み込むな、と。
みだりに触れるべきではなかった。
自分がどれほど危ういことをしたのか。エミリアは、ようやく理解し始めていた。
*
葡萄畑は、陽光を受けて静かにざわめいていた。
整然と並ぶ蔓のあいだから、甘く青い匂いが立ちのぼる。
「……ああいう夜会は一度で十分よ」
枝を傷めないように注意しながら、エミリアが言った。口調は軽いが、目元には泣き腫らした跡がまだ残っていた。
「父上も叔父さまも、目が本気すぎるのよ。逃げ場がないっていうか」
ローワンは籠を持ったまま、苦笑する。
強い子だな、と思った。
「エミリアも大変だったんだね。……でも、ドレス姿綺麗だっただろうな」
ぽろりと零れたその一言は、計算でも媚でもなかった。ただ、思ったままの感想。
エミリアの手が一瞬止まる。
「……まあ、否定はしないけど」
そっぽを向きながら、彼女は枝葉を整え直した。
耳が少し赤い。
ローワンは、それを見て、胸の奥が微かに疼いた。
夜会。王弟。煌びやかな灯りと、選ばれる人々。
その輪の中に、彼女はいたのだ。
そして自分は、そこにいなかった。
(……そうか)
ふと、理解してしまう。
今はこうして並んで土に触れ、汗を流し、気さくに言葉を交わせているけれど。それが「いつまでも続くものではない」可能性を、ローワンは初めてはっきり意識した。
エミリアはモルフォンドの令嬢で。
王弟と踊るほどの立場で。
やがて、もっと遠い場所へ行くかもしれない。
——自分の手の届かない場所へ。
指先の力が、少しだけ強くなる。
「ローワン?」
気づいたエミリアが、顔を上げた。
「大丈夫?ぼーっとしてる」
一瞬、視線が絡む。
夏の光の中で、彼女の瞳はいつもより眩しかった。
「あ、いや……なんでもない」
ローワンは慌てて笑った。
いつもの、人の好い笑顔。
「日差しが強いからさ。ぼんやりする」
「それ、言い訳じゃない?」
くすりと笑われて、胸が少し軽くなる。
けれど同時に、逃げ場のない気持ちが、確かに根を張った。
(……まだだ)
今は、まだ言葉にしない。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまう気がしたから。
*
葡萄畑の向こう、屋敷の窓は静かだった。
夏の午後、モルフォンド領の屋敷はひどく静まり返っている。
窓という窓を開け放しても、風は葡萄畑の向こうで滞り、廊下の奥まで届かない。セリウスは客間のさらに奥、遮光を落とした部屋で眠っていた。
——正確には、ようやく眠ったところだった。
夜ごと、魘され、吐き、明け方まで身体を抱えて耐えていたと聞く。医師としては「精神的な疲弊」と理解できるが、その言葉がどれほど空虚か、シャルルには分かっていた。
「……どうしたものか」
低く漏れた独白は、誰に向けたものでもない。
いや、本当は分かっている。どうすべきだったかなど、最初から。
兄にも、娘にも、もっと強く言うべきだった。
王家への配慮だの、家としての立場だの——そうした理屈を、彼らの前に並べる前に。
まだ、身体も心も癒えきってはいなかったのだ。元々強い子ではない。それを、父である自分が、知らぬはずがなかった。
ベッド脇に腰を下ろし、シャルルはそっと息子の額にかかる髪を払う。
熱はない。だが、呼吸は浅く、時折、夢の底で何かを拒むように眉が寄る。
首元に、細いチェーンが覗いた。
(——スフェーン?)
硬く握りしめられているのだろう、と分かる。単なる思いつきで渡したそれに、彼は縋っていた。それを離さぬことで、何とか均衡を保てると信じて。
「……苦しかろう」
ほとんど独り言のように呟き、シャルルは慎重にそのペンダントを外した。
抵抗はない。力尽きたような手が、ゆっくりと緩んだ。
掌の中で、宝石が微かに光を返す。
「……これは」
小さく息を呑んだ。
そこには、無数の細い亀裂。外側から衝撃を受けたのではない。内側から押し出すように、限界まで圧をかけ続けた末の、それ。
まるで閉じ込めた何かが外に向かって爆ぜるように。
ベッドサイドにそっと置くと、ほどなくして、セリウスの呼吸が——ほんのわずか深くなり、ぶつぶつとうわ言が始まった。
(何、だ……?)
ただ、魘されてはいるが、明らかに呼吸は深くゆっくりとしたものになる。そのちぐはぐな状況にシャルルはしばらく押し黙った。
(余計なことだったのかもしれない)
ひょっとしたら、もしかするとこのペンダントこそが彼の身体を蝕んでいたのだろうか。
シャルルはしばらくただ静かに、見守り続けた。
*
その夜半。
セリウスは浅い眠りから目を覚ました。
汗は引いている。だが、胸の奥だけが、熱を持ったまま疼いていた。
窓の外で虫の声が幾重にも重なっていた。
耳に届くはずのないほど遠い音がやけに鮮明だ。
無意識に、いつもの癖で胸元を探しかけて——指先が、宙を切る。
……ない。
視線を巡らせると、ベッドサイドの小卓に、淡く光を返すスフェーンの首飾りが置かれている。
誰かが外したのだろう。
手を伸ばせば届く距離なのに、身体が鉛のように重く、動けなかった。
目を閉じる。すると、押し込めていた感覚が、ゆっくりと、しかし容赦なく浮かび上がってきた。
あの夜会のざわめき。弦の音。無数の視線。
——その中に、混じっていた。
粘つくように絡みつく、あの目。
(……また、だ)
単なる好奇でも、社交上の打算でもない。値踏みするようで、舐め回すようで、拒めば傷つけられると知っている者の視線。
胸の奥が、ひくりと波打つ。
誰だったのかは、もう分からない。
顔も、声も、名も、すべて霧の向こう。
それが「そういうもの」だと理解する前に、止められた。守られた。そして、きれいに片づけられた。忘れなさい、と誰がに言われた気がする。いや、自分でそう思ったのか?
分からない。思い出せない。
でもいつからかそう思うようになった。覚えていなければ、傷は存在しない。感じなければ、汚れない。ずっと、そうやって生きてきた気がする。
けれど。
アルヴェルの茜色の瞳が、脳裏に浮かぶ。
あの夜、視線がぶつかったほんの一瞬。
本来ならあの場を離れれば、それで済むはずだった。
けれど——
(……ああ、だめだ)
閉じ込め続けた感情を、もう誤魔化し切れなかった。
触れたい。
離れたくない。
できるなら、この手の内に留めておきたい。
それは、決して口にできないほどの——欲。
(……なんて、醜い)
他人から向けられるそれに、怯えてきたはずだった。それを今、自分の内側にも見つけてしまった。
御子として崇められ。
白い悪魔として疎まれ。
そのどちらも、自分ではなかったのに。
「何かであること」を求められ続け、「自分であること」は誰も望んでいない。
だから——
欲してはいけなかった。
傷ついてはいけなかった。
誰かを求めてはいけなかった。
だって、それは——悪魔のすることだから。
それでもその欲が自分の中から消えるはずもなかった。
喉の奥が、ひどく詰まる。
「ずっと……お慕いして、……」
零れた言葉は、あまりにも軽くて。あまりにもありふれていた。エミリアの言葉を否定した癖に、一度認めてしまうとまた少し呼吸が楽になる。
思わず、笑いそうになった。
恋。
例えばエミリアが想像していたような、そんな言葉で片付けてしまえば、どれほど楽だっただろう。
けれど実際には、そんな綺麗なものではない。
あの日、繋ぎ止めて欲しかった。
鳥籠に入れたのなら、手離すだなんて考えずに。
だってそれは解放なんかじゃなく、ただの放棄だろう。私は、あなたがいたから息ができたのに。
あなたはそうじゃなかったと言うのか。
それは恨み言の様でいて、実際は叶うことなど初めから期待すらしていなかった願いだ。
ただ生きてさえいてくれれば良いと、そう願ったのは嘘じゃない。だけどそれは自分でさえ直視することのなかった心のほんの上澄みで、その水底には言葉にする間もなく打ち捨てた欲が澱となって沈んでいた。
なんて弱くて、浅ましくて、傷つきやすいんだろう。
それでも。
痛みも。恐れも。欲も。
どれも消えないまま、ただそこに在る。
——とくん。
胸の奥で、何かが落ちた。
水滴が、静かな泉に触れるように。波紋が広がってゆく。
消えずに、ただ、静かに沈んでいく。
全ての感情を等しく照らすように。
(……なんで)
癒しの力は、“清らかさ”だけから生まれるのではない。そんな確信が、言葉より先に身体に満ちていく。
汚れを恐れ、欲を否定し、傷つくことから逃げてきた自分が——ようやく、いまここに立っていた。
脈が強く打つ。何度も、何度も。
これほど苦しい実感が、これほど確かな“生”として、自分を満たすなんて。
(なんて……愚かな)
小さく、自嘲が零れた。
御子でもない。
悪魔でもない。
ただの、どうしようもなく人間じみた、自分。
ベッドサイドに置かれたスフェーンは、静かに光を失っている。
もう、触れなくてもいいと思った。
目を閉じると、身体の重さがほんの少し軽くなっていた。
再び意識が、ゆっくりと沈んでいく。
自分の中に湧き上がるそれを、何ひとつ否定しないまま。そのすべてを抱えたまま、深い眠りへと身を委ねたのだった。
*
朝。
薄いカーテン越しの光が、静かに部屋へ滲み込んでくる。
目を開けた瞬間、セリウスは小さな違和感を覚えた。
呼吸が、奥まで入る。
胸に手を当てた。昨夜まで確かにあった、息を詰めるような圧迫感が、完全ではないにせよ、後退している。
「……?」
身を捩り、起きあがろうとした時
「……起こしてしまいましたか」
控えめな声に、思わず肩が跳ねた。
ローワンが薬包を手に、足元の方に立っていた。その目は、安堵よりも先に、警戒を宿していた。それはそうだろう。昨日までの自分は自分ではないようだった。一回りほども下の少年に、随分心配を掛けさせて。
「いや……大丈夫だよ」
「顔色は……昨日よりは、良さそうですね」
ローワンはそう言いながら、後ろを振り返る。
「だが、まだ判断は早い。無理は禁物だよ」
ローワンの背後に養父の姿が見えた。
「気分は、どうだい」
いつもの朗らかさを抑えた声。
そして、その視線が自然と落ちた。ベッドサイドの小卓に置かれたままの、スフェーンの首飾り。無数のヒビが朝の光を受けて、否応なく目に入った。
「……すまないね」
低く、短い声だった。
「お守りひとつで、君を守れると思った」
シャルルは苦く息を吐く。
「だが、結果はこの通りだ」
父の口ぶりに含みを感じ、セリウスは一瞬言葉を探したが——それでも、思うままに訊ねた。
「父上……昨日、これを外してくださったのは……」
「私だよ。苦しそうだったからね」
すぐに答えたあとシャルルは小さく眉を寄せ、躊躇いがちに問う。
「……なにか、違った?」
やはり何か知っているのだろう。昨晩のあの感覚が思い込みではなかったのだと分かる。胸の奥が、わずかに波打った。
「はい……たぶん、それが理由な気がします。身につけていると……楽でした。あまりに」
慎重に言葉を選んでそう言った。
だが、シャルルが理解するのには、その一言で十分だったらしい。重々しく息を吐いてから彼は再びセリウスを見た。
「楽、すぎた?」
確認するような問い。
「……はい」
セリウスは、視線を逸らさず続けた。
「考えたくないことは傍によけていられました。感じなくていい。それが楽で……それが続くと、そのうち頼るのが癖になっていた、気がします」
シャルルは、短く笑った。それは、笑いというより、痛みに近い。
「ああ、やはり……。私は……浅はかだったな」
自嘲を隠さず言う。
否定しようとして、セリウスはやめた。代わりに、静かに首を振る。
「父上のせいだけではありません。私ももっと自分が御子であることに関心を持つべきでしたから」
それでも、声は優しかった。
シャルルはしばらく黙り込み、やがてスフェーンに手を伸ばした。
「これは……ティアベアラー自身が、常に持つものではなかったのだろう。使い方を誤ってしまった」
誤りを認める低い声。
「君が本来、向き合うべき感情まで……遠ざけてしまったのかも知れない。……申し訳ない」
父ではなく、一人の大人としての謝罪だった。
結局、スフェーンはシャルルの手元に戻った。
セリウスは、空になった胸元にそっと手を当てる。
まだ、痛む。
その痛みは、確かに自分のものだった。




