夜会(2)
音楽が、ゆるやかに調子を変えた。それだけで、会場の空気が一段、張り詰める。
談笑していた声が自然と抑えられ、令嬢たちは扇の向こうで視線を交わし、紳士たちはそれぞれの立ち位置を探る。
——ダンスの時間だ。
セリウスは、その変化を不思議なほど冷静に受け止めていた。
胸が高鳴るわけでも、緊張が走るわけでもない。ただ、音と人の動きが、少し遠くで整列していくのを眺めているような感覚だ。
そのとき、会場の視線が、ゆっくりと一方向に引き寄せられていくのに気がついた。
王弟が、動いたのだ。
ざわめきは起きない。代わりに、ためらうような沈黙が波紋のように広がる。
誰を最初に選ぶのか。その期待と計算が、熱を帯びて会場を満たしていく。
人々のその視線の端が、エミリアを追い越してこちらへも触れてきた。自分もまた、物語の中心に数えられている——だが、その滑稽さすら心を上滑りしていった。
まるで、舞台の袖から照明の動きを眺めているような気分で、立ち尽くしていた。
やがて。
アルヴェルが悠然とエミリアの前に現れる。
言葉はない。表情も、変わらない。
誰の目にも、王弟と彼に大切な妹を預ける兄としての、完璧な仮面のまま。
(……妥当な選択だな)
今やはっきりと、自分と彼の立ち位置は分たれていた。
それでも、互いが、こうして今もこの場所に立っているという事実だけで十分に思えた。
一歩間違えば、彼は永遠に失われていたかも知れなかった。だからきっとそう思うのだろう。
アルヴェルは、エミリアに向き直り、穏やかに一礼した。アーサーと比べれば、凛々しすぎる無駄のない所作。けれども今夜は口の端に笑みを湛え、主役に相応しい華やかさも忘れてはいなかった。
「よろしければ、一曲」
差し出された手に、エミリアが一瞬だけ躊躇い——それから、意を決したように指先を乗せる。
その横顔は、少しだけ緊張しているけれど、決して怯えてはいなかった。
音楽が流れ出す。
セリウスは自然と一歩下がり、見送る位置へとずれると
(……行っておいで)
心の中で、そう言った。
ダンスの輪の中で、エミリアは案外きちんと笑っていた。アルヴェルもまた、周囲を意識させない距離感で彼女を導いている。少なくとも、無理をさせてはいない。
それを確認して、セリウスは小さく息を吐いた。
エミリアは思い違いをしている。
アルヴェルと自分は彼女が思うような間柄ではない。両親を亡くした幼い王子と王宮で居場所のなかった異端が互いに淋しさを埋めただけ。その距離の近さに、最近まで縋り続けてしまった。
ただそれだけ。そもそもが間違っていたのだから。
依存していた時代は、もう終わった。
自分はこれからも彼ら王族の『生命のスペア』。
もう少し欲を出しても良いのなら、せめていち臣下として自分のような孤児を手助け出来たら嬉しい。
願うのはそれくらいだ。
(なのに——まるでそれ以上を望んでいる様な口ぶりで。全く、困った妹だ)
セリウスは視線を上げ、会場を見渡した。
令嬢たちの囁き、楽団の音、きらめく装飾。
そのすべてが、今夜はどこか遠く、静かに感じられる。
暖かな光の粒が、ランドフォードの金色の麦畑を思い出させた。
(……懐かしい)
——自分の居場所はここだけであるのに。
息を吸った感触だけが、ひどく曖昧だった。
*
「おやおや、これはこれは……」
不意に声が掛かり、セリウスの意識が引き戻された。
粘つくような声音。香油と酒の匂い。
それよりも先に刺さってきたのは、視線だった。
「今宵は幸運だ。モルフォンドの若君にお会い出来るとは」
年配の男は笑みを浮かべながら、双眼から唇、白い首筋へと、ゆっくりと視線を滑らせていく。
舐めるように、値踏みするように。
人を見る目ではない。ましてや、娘を伴う父親のそれでもない。
その隣で、令嬢が不安げに視線を伏せている。
セリウスが微笑み返すと、彼女はびくりと肩を震わせ、首を引っ込めるようにして視線を逸らした。
それだけで、ああ、と思う。
「……行け、何を怖がることがある」
父親が小声でそう促すが、令嬢の足は床に縫い付けられたように動かない。父親はチッと短く舌打ちをして、代わりに一歩踏み出した。
「妹君かな?今踊っているのは。さすがはモルフォンド家、王弟相手に実に落ち着いていらっしゃる」
この男の関心は、最初から娘にはなかった。
王宮に近づく機会。モルフォンド家との繋がり。そして——“御子”という、扱い方ひとつで価値を変える存在。
この場には、それを嗅ぎつけた者も当然いる。
夜会とは、そういう場所だ。今も昔も。
「して、月の精は今夜は妹君に王弟を譲っておられるわけだ——」
「本日の主役は、王弟殿下とご令嬢方だと認識しております」
男の言葉が続く前に、セリウスは少し被せるようにしてそう言った。
自分でも驚くほど、声は澄んでいた。
これまでなら、先に身体が強張っていたのに、今は——凍った水面のように、何も通さない。
「ですが、ご令嬢を怯えさせてまで話を続けるのは心苦しく——。失礼ですが、お嬢様は私にご興味がない様です」
セリウスは視線を男から外し、令嬢へ向けた。
だが彼女は、やはり俯いたまま。
「私のような者は、令嬢のお傍に置くのに相応しくありません」
欠けた指のせいで所在なげに揺れる手袋の先をそっと握り、背に隠した。
「今宵は、どうか安全な場所へ」
短く、しかし確かに届く声でそう言い、もう一度笑う。
令嬢は一瞬驚いた顔をし、それから申し訳なさそうに曖昧に微笑むと、父の袖からそっと身を引いた。目的を断たれた男は、苦々しさを滲ませながら後退る。
「……失礼しました」
形ばかりの礼を残し、人混みへと消えていった。
その背中を見送りながら、セリウスはようやく息を吐く。
遅れて、心臓が脈打ち始めた。
胸の奥を叩くような鼓動が、今さらになって“恐怖”を思い出させたのだ。
(やっぱり、苦手だな……)
咄嗟に指先が胸元へ伸びた。
スフェーンのひやりとした感触。それだけで整うはずだった。これまで、何度もそうしてきたように。
だが相変わらず、言葉にならない感情がぐるぐると渦巻き続けるのみだった。
——ふと視線を上げれば。
少し離れた場所。茜色の瞳が、こちらを見ていた。
その視線と、ほんの一瞬、絡み合う。
(……今、また)
無意識に——縋ろうとした。
その瞬間。キシリ、と。とうとう“何か”が崩れる音がした。
*
楽団が旋律を変え、フロアの中央がゆるやかに開かれる。
差し出されたアルヴェルの手に、エミリアは一拍だけ迷ってから指先を預けた。踊り出すと、王弟の所作は驚くほど静かで、無理がない。元騎士らしい安定感がありながら、意外にも、力を誇示することは一切なかった。
「……お聞きしても、よろしいですか」
エミリアは正面から彼を見据えた。不敬だと言われかねない態度だと、自分でも分かっている。
「今夜ここに立っていらっしゃる理由です」
アルヴェルは一瞬だけ瞬きをしたが、エミリアの問いの意図を理解したのか、穏やかに笑って聞き返す。
「王族としての理由か?それとも私の?」
「勿論、後者です。兄の前で、取り繕われるのは不本意ですから」
ふ、と小さく息を吐き、アルヴェルは視線を落とす。
「……覚悟、だよ」
その一言は、決して軽くなかった。
「逃げ続けることもできた。選ばないことで、誰も傷つけずに済ませることも。でも、それは結局——国にも、兄にも誠実ではない」
ゆっくりと顔を上げる。
茜色の瞳が、真正面からエミリアを捉えた。
「だからここにいる。選ばれる立場に立たねばならない」
——この人は、逃げていたわけではなかった。
そして兄は、彼の覚悟を丸ごと肯定したのだろう。
「……そう」
それだけを返し、視線を逸らす。彼女の横顔からは、先ほどまでの棘が消えていた。
そのときだった。
粘つくような声。そして、周囲の人間の小さなざわめきに、エミリアはふと視線を流した。
そのエミリアが気づくより早く、アルヴェルの指先にわずかに力が入る。彼の視線の先——セリウスの前に立つ、年配の男が立っている。
隣に娘を控えさせていながも、セリウスへ向けたその視線が、あまりに露骨だった。
(……あれは、だめな目だ)
二人は、ほぼ同時にそう思った。
だが、兄は——わずかに強張った頬のまま、静かに微笑んだ。柔らかく、けれど一切の曖昧さを残さない拒絶の意思。その後すぐに、男は引き下がったが——その間、王弟の手は無意識に強張っていた。
(大層なこと言って……)
エミリアは胸の内で苦笑した。
余裕ぶっていても、結局は目が離せないのだ。ふと見上げると、アルヴェルが安堵の息とともに、わずかに微笑んでいるのに気づく。
彼の視線の先にセリウスがいる。
二人の視線が一瞬だけ交差した様に見えた。
*
石は、確かにそこにある。
触れている。握っている。
それなのに——さっきまで確かにあった、なだらかな静けさが、指の隙間から零れ落ちていき、その代わりに、押し上げてくるものがあった。
また息が、浅くなる。
陸にいるのに溺れていく様な。
それとも内面を焼かれ、喉の奥がひりついてゆくような。
(違う、何だ……これは)
セリウスは抑え込もうとした。
言葉で、形で、理屈で。
けれど——もう、間に合いそうにない。
視界の端で、光が滲み、音楽が、遠く歪む。
見覚えのある、あの視線。
粘つくように、肌に貼りつくそれが、離れない。
もっと近くで、もっと逃げ場のない場所で、それを向けられていた。
(……嫌だ)
石壁。閉じた空間。笑っている口元。
「いい子だ」「見せてごらん」と、繰り返す。
声を上げれば、余計に面白がられた。
だから——何も感じないふりをして、逃げることを諦めた。
あれは現実だったのか。それとも悪夢か。
肝心なことは何も思い出せないのに、その声と黴の臭いだけが鮮明に呼び起こされていた。
「モルフォンド卿?」
「大丈夫かしら。お顔色が……」
遠くで、誰かの声がして、床に立っているはずなのに、足元が揺れる。
沈めていたもの。見ないようにしていたもの。
蓋をしていた感情が一斉に、浮かび上がろうとしていた。
怖い。
気持ち悪い。
見られる。
触れられる。
値踏みされる。
——逃げたい!
静けさは消え、代わりに、むき出しの感情が、容赦なく流れ込んでくるのが分かった。
怖い。
どうしようもなく、怖い。
胸が締め付けられ、視界が揺れ、足元が、ぐらりと傾ぐ。
ここにいたら、壊れる。
理屈ではなく、本能がそう告げた。
最初に込み上げたのは、はっきりとした吐き気だった。胃の奥が裏返るように締めつけられ、遅れて冷たい汗が背を伝う。
「……っ」
視線を逸らしたまま、顔を戻せない。
呼吸が浅く、肺が震える。
(落ち着け、落ち着け)
自分に言い聞かせる声が、遠い。
それでも、湧き上がる感情の渦に飲み込まれぬように、セリウスは必死で思考した。
——自分は今、兄としてここに立っている。
少し前まで幼いと思っていたエミリアが、夜会の中央で堂々と立っている。
あの背筋。あの視線。そうだ、誇らしいではないか。
『——本当に?』
胸の奥がまた、ぎしり、と音を立てた。
『——お前は、なぜ今アルヴェルを探した?』
その感情。気づいた瞬間に、同時に手放すしかなかったそれ。
望めば壊れ、願えば歪む。
慕っていた。尊敬していた。大切だった。
あの日、失われるはずだった命がこうしてある。
それで、十分で——。
『——嘘をつけ。足りないくせに』
(違う。だめだ、だめだ、だめだ)
胸の奥で膨らむ、甘やかな痛み。
それを抱えたまま、前を向けるほど自分は強かったか。あの瞳と、二度と視線を交わさなくなっても。もう自分を必要としてくれなくなっても。
(……やめろ)
『——平然としていられるのか?』
(黙れ!)
心臓が乱暴に脈打つ。
熱が、理性の縁を叩く。
見たくない。こんな自分は。
視界の端で、人の流れの向こうに黒髪が遠ざかってゆくのが見えた。
意外と柔らかかったあの艶やかな髪。
形の良い眉。
不意に浮かぶ記憶。
思考が崩れ、身体すら散り散りにばらけてしまいそうな気がして、もう一度胸元のスフェーンを握り込んだ。
その瞬間——ちくり、と痛みが走る。
遅れて違和感。
「お兄さま……っ!」
戻ってきたエミリアが、セリウスの顔を見るなり歩みを速める。
「顔色が……それに、指……血が……!」
その声を、どこか遠くに聞きながら、セリウスは自分の指先を見つめた。
「ああ……本当だ」
妙に落ち着いた声だった。
「……知らないうちに割れてしまったみたいだね。大丈夫、大したことないよ」
それが、胸元の石のことなのか。
それとも——
セリウス自身にも、もう判別はつかなかった。




