夜会(1)
——正直に言えば、気分は最悪だった。
鏡の前に立つエミリアは、完璧に整えられたドレスと髪を一瞥し、ふう、と短く息を吐いた。
色味も、意匠も、申し分ない。王宮が用意した「正解」の装いだ。
それでも胸の奥に引っかかるものだけは、どうにもならなかった。
「準備はいいかい、エミリア」
背後で扉が開く気配。
振り返らずとも、誰が立っているかは分かる。
「見ての通りよ」
素っ気なく返しながら、ゆっくりと振り向く。
そこに立っていた兄は、白銀の髪をきっちりと結い、エスコート役として過不足のない正装を身に纏っていた。
豪奢すぎず、しかし隙もない。
——“妹の付き添いの貴族男性”。
そう見えるよう、きっちり整えられた姿。
(叔父様も、本当に性格が悪いわ)
今夜の兄は、誰が見ても“御子ではない”。
役割を剥がされ、ただ名前だけが残された存在。
エミリアは無意識に、兄の顔を探る。
(……読めない)
穏やかな表情。
柔らかく細められた瞳。
いつも通りの、セリウス。
腹が立つ。
好きなら、好きだと言えばいいのに。
今さら聞き分けよく離れたりせずに。
少なくともあの日、眠るセリウスの傍らを離れようともしない王弟の姿こそが本心に思えたのに。
エミリアは、そこでようやく気づいた。
兄は、穏やかに立っている。
表情も、姿勢も、何一つ変わらない。
その奥に、縋るものも、拒むものも、あらゆる感情を手放してしまったような。
胸の奥が、ひやりと冷える。
嫌な静けさだった。
今さら気づいたところで、後には引けない。
自分で突きつけた条件だ。
逃げ道はない。
喉が、わずかに詰まる。
「……行きましょう」
そう言って、兄の腕に手をかける。
指先に伝わる感触が心許なかった。
「緊張している?」
セリウスが、ふわりと笑う。
それは、あまりにも自然で、あまりにも正しい“兄の顔”。
本気で心配しているのか。それとも——そうするべきだから、そうしているのか。
もう、分からない。
「いいえ、ただ」
一拍置いて、はっきりと言う。
「今夜は、“兄妹”として振る舞ってね」
その言葉には、わずかな棘が混じっていた。
それ以上でも、それ以下でもない関係でいろ、と。それを選んだのは、あなただと。
セリウスは一瞬、彼女をじっと見つめた。
その意味を測るように。
そして、小さく微笑む。
「当たり前だよ」
重厚な扉が、ゆっくりと開く。
光と音と、無数の視線が一斉に流れ込んでくる。
エミリアは一歩、前に出た。
兄の腕に触れたまま——けれど、もうその心には、触れられないまま。
*
「モルフォンド公爵家、セリウス様とエミリア様、ご入場です!」
名が響いた瞬間、ざわめきが走った。
忠臣の家が、殿下の夜会に姿を現した——それだけで十分、意味を持つ。
エミリアは背筋を伸ばし、顎を上げた。兄の腕を取ったまま、堂々と歩み出す。
ざわめきが一拍、遅れて広がった。
最初に視線を集めたのは、エミリアだった。
淡い色調のドレスは過剰な装飾を排しながらも、歩みに合わせて柔らかく揺れる。
背筋は自然に伸び、顎の角度ひとつ、視線の配り方ひとつに、幼い頃から叩き込まれた貴族教育が滲んでいた。
可憐であることと、軽やかであることは違う。
愛らしさと、軽視されぬ気品は、同時に成立しうる。
そのことを、彼女は無言のまま証明してみせていた。
隣に立つ白銀の青年——セリウス・モルフォンドが、あくまで“兄”として半歩先を歩くことで、その構図はいっそう明確になる。
寄り添いながらも、寄りかからない。
支え合いながらも、依存しない。
それは、夜会に集った者たちにとって、あまりにも分かりやすい「答え」だった。
モルフォンド家は、揺らがない。
そして、まだ幼さの残るこの令嬢は、ただ守られるだけの存在ではない。
そんな評価が、言葉になる前に、空気として会場を満たしていく。
(これでいい)
そう“見える”ことだけが、今夜の役目なのだから。
視線の洪水の中心で、エミリアは小さく微笑んだ。
ざわり、と音にならない波が押し寄せる。
視線。視線。
王都中の好奇心と計算と欲望を煮詰めたようなそれが、容赦なく突き刺さる。
兄も歩きながら、完璧な微笑を浮かべる。
軽く会釈し、視線を配り、呼吸するように社交をこなす。
——その顔を、エミリアは知らなかった。
兄の周りに人が集まり、離れず、また増えていく。それを捌く仕草に、無駄がない。
(……意外に慣れてるのね)
ちらりと横顔を盗み見る。
穏やかで、隙がなく、そしてどこか遠い。
けれど分かってしまう。
(でも……無理してる)
人のために尽くし、誤解されて。
それでも弁解しなくて。
自分が削られていることに、興味もない。
そのとき——空気が、もう一段変わった。
(……来た)
艶やかな黒髪。
茜色の眼。
——王弟アルヴェル、その人。
触れていた兄の指が小さく跳ねた。
それだけで、胸がきしむ。
(今更後悔したって遅いのよ)
兄に向けたはずの言葉が、胸に刺さる。
歩み寄る王弟に、セリウスの方が先に口を開いた。声音は落ち着いていて、曇りがない。
アルヴェルもまた、過不足のない距離で応じていた。
そのやり取りを見た瞬間——エミリアは、内心で息を呑む。
気まずさも、躊躇もない。
視線がぶつかることもない。
あるのはただ——整えられた距離だけ。
王弟と、その臣下。
あるいは、互いを理解した者同士が選んだ、崩れない関係。
もう、決めていたのか。
セリウスも。
王弟も。
ここに立つと決めた時点で、もう。
——揺れているのは、自分だけ。
胸の奥が、ひどく居心地悪くなる。
「こちらは、妹のエミリアです」
セリウスの声音が少しだけ柔らかくなった。
「本日は、どうかお手柔らかに」
その言い回しに、エミリアは一瞬だけ兄を睨みかけ——だが、王弟がふっと笑ったことで、その勢いを失った。
「ああ……だが」
アルヴェルは、わずかに視線をエミリアへ向ける。
「以前のように鋭い目で睨まれる覚悟は、できています」
「——っ」
思わず、頬が熱くなる。
セリウスが昏睡していた、あの日。
感情のままに睨みつけたことを、まさか憶えていたとは。
「……な、何を仰ってるのです」
「とても魅力的でしたが」
さらりと、追撃。
エミリアは、完全に言葉を失った。
——ずるい。
絶対に分かってやってる。
後方で、空気が一斉に揺れたのを感じた。
令嬢たちが、まとめて撃ち抜かれた気配。
そして同時に、こちらへ向けられる、ちくちくとした嫉妬の視線。
なぜ私が、こんな役回りに——そう思いかけて、エミリアははっとする。
セリウスは、微笑んだまま。
いつもの、完璧な外面。
貼り付けた「兄」としての顔は、むしろそれ以外を装わなくて済んだ、とでもいう様な安堵すら感じられた。
——もう、いいのか。
「……王弟殿下」
エミリアは少しだけ、挑むように微笑んだ。
「今宵は、覚悟なさってくださいませ。私、踊りは逃げませんので」
アルヴェルの瞳が、面白そうに細まった。
「それは光栄だ」
声は、ちゃんと淑女だった。
だが内心では、まったく違うことを思っている。
挨拶が終わり、兄の腕に戻る。
その瞬間、ようやく自覚する。
胸の奥が、忙しなく騒いでいるのは——自分だけが、取り残されている気がしたからだ。
何ひとつ分かっていない癖に、子供みたいに、感情に振り回されて。
自分の居心地の悪さを、兄と王弟のせいにして。
「……大丈夫かい?」
耳元で、低く柔らかな声。
いつもの兄の声。
「少し休む?人も多いし」
いつもの、兄らしい気遣い。
それが今日は、妙に胸に刺さった。
「……お兄さまは?」
思わず、言ってしまった。顔を上げないまま、ぶっきらぼうに。
「大丈夫なの?」
兄にだけ向ける、不機嫌混じりの本音。夜会向きではないと分かっていても、もう止められなかった。
セリウスは一瞬だけ足を止めると、彼女を伴って壁際へと静かに身を引いた。喧騒から半歩外れたその場所で、彼は少しだけ表情を緩める。
「……君が何を怒っているのかは分かっているし、私を思ってくれるのも、嬉しいよ」
その言い方が、ひどく優しい。
「……けれどね」
彼はエミリアの前に立ち、視線の高さを合わせた。さきほどのカーテシーで頬にかかった一房の髪を、そっと指で払う。
「それは余計なお世話と言うものだよ」
「な……」
抗議しかけた唇は、続く言葉に塞がれた。
「私だって、今日ここで——君の兄として立てるのが、うれしいんだから」
その声には、微塵の偽りもなかった。
ただ、兄として、妹を伴ってこの場に立っている。それ以外は何も望まない、と言い聞かせるように。静かに、線を引く。
視線を上げると、やはり兄は穏やかに微笑んでいた。
悪魔憑きだと忌避される白すぎる肌と髪。
それでも一度柔らかく笑えば令嬢たちの心を撃ち抜く麗しの月の精。その淡い水色の瞳が今は——自分にだけ向けられている。
それ以上、穿ってくれるな——と、やんわりと遠ざけるように。
「やめてよ、そういう顔」
小さく、唇を尖らせる。
「どんな顔?分からないな」
セリウスはくすりと笑い、再び腕を差し出す。
その動きが、ほんのわずか遅れたことに、エミリアは気づかなかった。
「さあ、休憩は終わり。行こうか、今夜は長い」
エミリアはその腕に手を置きながら、胸の内で小さく舌打ちした。




