臨界点
北方視察を終えると、視察隊は二日掛けて王宮へ戻った。移動し易さを思えば晴天はありがたい事だったが、良すぎるのも考えものだ。陽射しは強くなる一方で、セリウスでなくても堪えた。
「アンヘル、私は少し残り仕事を終えてから帰るから。先に戻っていてくれないか」
王宮にて散会となり、メンデスたち文官が「あとはこちらでやります」と報告書のほとんどを持って行ったはずだった。
「しかし……お顔色が優れませんよ?」
渋るアンヘルに、セリウスは小さく笑ってみせる。
「大丈夫。医局にも寄るから」
半ば強引に納得させ、彼を帰したあと、セリウスはようやく足取りを緩めた。
確かに陽射しに焼かれた皮膚もひりつき、暑さにやられた感もある。だが、この息苦しさはそのどれとも違うように思えた。
とにかく、少し一人になりたかったのだ。
早めに戻れたのは幸いだった。この数日間ずっと誰かが近くにいた。そのせいで少し気疲れしたのかも知れなかった。
誰にも邪魔をされない場所で少し休めば、夕刻までには持ち直す——はずだ。
そう思いながら、足は自然と回廊を外れ、坪庭へ向かっていた。
代わりに世話をしてくれていた後輩の姿は、もうない。それでも、彼女が植えたリナリアは、まるで意思を持つかのように株を広げ、淡い色の花を揺らしている。
——北の町で出会った、あの少年の顔がよぎった。
怯えと怒りをないまぜにした視線。それでも、悪魔から母を守ろうとしていた、小さな背中。
もしかするとイシュマエルも、あの少年と同じだったのかもしれない。誰にも頼れず、声の上げ方も分からないまま。
一度でも、誰かに話すことができていたなら——ほんの少しでも、違う未来があったのかもしれない。
(……結局、私の指はどこへいったのだろう)
土に埋められて、穢れた土壌を癒しているのだろうか。それともイシュマエルと共に葬られたのだろうか。今更どうでもいい事だけど。
セリウスは乾いた笑いを漏らした。
回廊の縁に腰を下ろすと、足元の花へと指先を伸ばす。
土に触れ、葉に触れる。それだけで、胸の奥に溜まっていた重さが、わずかにほどけていく。
——ここでは、息がしやすい。
胸元のペンダントが、ふと煩わしく感じられた。
首から下ろし、適当に脇へと置く。それだけで、また少し楽になる。
「……疲れた」
柱に背を預けて零れた声は、驚くほど素直だった。
回廊には人の気配がない。静かすぎて、置き去りにしてきた感情が、ひとつずつ輪郭を持ち始める。
忙しかった。充実していた。楽しかった——気もする。
「ああ……参ったな……」
小さな呟きは、風に溶けた。
それを、いちばんに聞いてほしい相手には、もう容易く会うことは叶わない。会わないと決めた。
守られていた時間は、終わったのだから。
あの日、この場所から、既に道は分かれていた。
『セリィ』
『……その様な意図で話したのではない』
『悪かった』
忘れようとしていた記憶が、急に牙を向いた。真っ直ぐに自分をその瞳に映した彼の悲痛な表情までもが——強く、胸を叩く。
大丈夫だったはずなのに。
この場所は思い出が多すぎた。
胸の奥がざわめき、感情だけが遅れて押し寄せると、吐き気に似たものが喉まで迫り上がった。
「ゔ………?!」
セリウスは深く息を吸い、花から手を離すと、傍らのペンダントを掴み、立ち上がる。
結局、医局にも寄らずに足早に王宮を出て、そのまま屋敷へ戻った。歩調は保っている。だが、身体の内側だけが、どうにも追いついてこない。
胸の奥——凪いでいるはずの水面がひどく重く、静かなまま、底だけが軋んでいる。
心が、溢れかえりそうだった。
*
そのまま自室のベッドに雪崩れ込んだセリウスは、強制的に意識をシャットダウンした。
どれほど眠ったのかも分からないまま、しばらくして階下のざわめきで意識が浮かび上がる。
カーテンはいつの間にか閉められていて、サイドテーブルに水差しが置いてあった。おそらくシンディが気を遣ってくれたのだろうと分かる。
外はすっかり暗くなっていた。
身体は重い。だが、眠りで癒えた感覚はほとんどなかった。
言い合う様な声が気になり、結局無理やり身を起こす。ゆっくりと階段を下りると、玄関ホールには、珍しくベルトランの姿が見えた。
その隣で腕を組み、微動だにしないエミリア。少し離れた場所には、困惑を隠せないシャルルと、状況を測りかねているローワン。
「皆さん、お揃いで……どうしたんです?」
声は、思ったよりも平坦だった。
ベルトランが振り返る。その表情を見た瞬間、セリウスは理解した。
——良くないことが起きている。
「ご苦労であった、セリウス。疲れているところ申し訳ない。エミリアが帰らないと駄々を——」
「お兄さまはどっちの味方?」
言い終わる前に、エミリアが割り込んだ。
「こら、エミリア!」
シャルルが珍しく声を荒げ、セリウスは思わず胸元へ手を伸ばした。
——あるはずの、静けさを求めて。
けれど。
そこにあったのは、凪でも、鎮静でもない。
ただの、空白。
これまでなら、多少なりとも安らいだ気がしていたのに。
わずかに、呼吸が浅くなった。
(どうして——)
玄関ホールの空気が、静かに張りつめていく中で、セリウスだけが、取り残されたように立ち尽くしていた。
***
最初から、こうなることは分かっていた。
応接間に並ぶ大人たちの顔を見渡しながら、エミリアは内心で小さく息をつく。
父シャルル、叔父ベルトラン、そして——薄く笑みを浮かべて立つ兄。その笑みがどれほど無理をしたものか、彼女には分かってしまう。
王弟アルヴェルの妃選びが公になった以上、忠臣であるモルフォンド家が沈黙を保つことは許されない。
それに加えて。
瀕死の王弟を救った御子の安否。
ルーカス領の空に走った青白い光。
あれは力の暴発だったのではないか、という噂。
そして何より“王弟のお気に入り”とされてきた御子が、妃選びが始まってから姿を見せていないこと。
王宮が隠すほど、それまで事実の断片に過ぎなかったものが、勝手に意味を与えられるのだ。
「エミリア、これは王家への礼でもある」
「国中の令嬢が集うのだ。君が顔を出さぬ理由はないだろう」
父と叔父が、交互に諭す。
どちらも正しい。だからこそ、逃げ場がない。
こういうとき、妙に機転の利くはずのローワンは別室に追いやられていた。この話を無関係な彼の前でできるほど、誰も無神経ではない。
「……分かっています」
背筋を伸ばし、形だけ整った笑みを浮かべる。
「ですが私は、あの方に興味がありませんの」
空気が張り詰めた。
「興味がない、では済まない問題だ」
「エミリア、王弟殿下は——」
「ええ、存じております」
わずかに強くなった声で、遮る。
「優秀で、冷静で、王国に必要な方。……それは重々承知しております」
だからこそ、嫌なのだ。
胸の奥で、ざらりとした感情が擦れる。
兄を縛り、遠ざけ、利用し——それでもなお必要とすれば引き戻す。
あの人は。王族は——そういうことができてしまう。兄は、それでも従う。疑いもせず、拒みもせず。それが使命だからと、命すら惜しまずに。
(……どうして)
そのとき。これまで黙っていたセリウスが、一歩前に出た。
「……エミリア」
穏やかな声。だがその奥に、わずかな疲労が沈んでいる。まだ身体が完全に癒えていないのだろう。 自分の問題に、兄を巻き込んでしまっているこの状況を少し後悔した。だが。
「君が、どう思っているのか……聞かせてほしい」
その言葉に、これまで彼に対して抱いていた苛立ちが、はっきりと輪郭を持ってしまう。
(それよ)
いつもそうだ。
兄は、自分の望みを言わない。代わりに、相手に選ばせる。その優しさがどれだけ残酷かも知らずに。そしてそれは必ずセリウス自身をも傷付けることになるのに、なぜわからないのだろう。
エミリアは一歩踏み出し、真正面から兄を見据えた。
「逆に、お兄さまにお聞きしますわ」
室内の視線が集まる。
「お兄さまは本気で、私に——あの方の妃になってほしいとお思い?」
セリウスは、わずかに目を伏せた。
だが、迷いではない。答えを持たない者の沈黙だった。
「……でしたら、条件がございます」
「条件だと?」
叔父の顔が曇る。また無理難題を押し付けると思っているだろう。そしてその予想は当たっている。
エミリアは微笑んだ。
「夜会に出ても構いません。お兄さまが、私をエスコートしてくださるのならね」
「エミリア!」
今度は父の声が鋭く飛んだ。
当然だ。彼はまだ癒えていない。加えて今の彼は、“見世物”にされかねない立場にある。
だが。
「……なるほど」
ベルトランが静かに口を開いた。
「むしろ好都合かもしれんな」
その目は冷静に状況を測っている。
「御子自ら公の場に姿を見せる。妹を伴い、穏やかに振る舞う。それだけで、“囲われている”だの“力を失った”だのという噂は自然と鎮まる」
「兄上!」
シャルルが制するが、ベルトランは視線を逸らさない。二人が揃って夜会に出れば、モルフォンド家の面目も保たれ、王弟も妃選びが一歩前進するだろう。そう算段を立て、ただ一人——セリウスを見る。
「どうだ、セリウス」
一瞬だけ、沈黙。——それでも彼は、いつものように笑った。
「……構いません。お役に立てるのなら」
その言葉に。エミリアは胸の奥で、小さく笑った。
(嫌味一つもないのね)
自分を後回しにして、誰かのために利用される事に、何の躊躇もない。
でもだからこそ。それが悪手だと、良い加減気付くべきなのだ。
「では決まりね」
くるりと踵を返しながら、振り返る。
「……覚悟なさってくださいませ、お兄さま」
夜会は、もう始まっている。
逃げ場など、どこにもなかった。




