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女神の国 1  作者: 大福駒子


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臨界点


 北方視察を終えると、視察隊は二日掛けて王宮へ戻った。移動し易さを思えば晴天はありがたい事だったが、良すぎるのも考えものだ。陽射しは強くなる一方で、セリウスでなくても堪えた。


「アンヘル、私は少し残り仕事を終えてから帰るから。先に戻っていてくれないか」


 王宮にて散会となり、メンデスたち文官が「あとはこちらでやります」と報告書のほとんどを持って行ったはずだった。


「しかし……お顔色が優れませんよ?」


 渋るアンヘルに、セリウスは小さく笑ってみせる。


「大丈夫。医局にも寄るから」


 半ば強引に納得させ、彼を帰したあと、セリウスはようやく足取りを緩めた。

 確かに陽射しに焼かれた皮膚もひりつき、暑さにやられた感もある。だが、この息苦しさはそのどれとも違うように思えた。

 とにかく、少し一人になりたかったのだ。


 早めに戻れたのは幸いだった。この数日間ずっと誰かが近くにいた。そのせいで少し気疲れしたのかも知れなかった。

 誰にも邪魔をされない場所で少し休めば、夕刻までには持ち直す——はずだ。

 そう思いながら、足は自然と回廊を外れ、坪庭へ向かっていた。

 代わりに世話をしてくれていた後輩の姿は、もうない。それでも、彼女が植えたリナリアは、まるで意思を持つかのように株を広げ、淡い色の花を揺らしている。


 ——北の町で出会った、あの少年の顔がよぎった。


 怯えと怒りをないまぜにした視線。それでも、悪魔から母を守ろうとしていた、小さな背中。

 もしかするとイシュマエルも、あの少年と同じだったのかもしれない。誰にも頼れず、声の上げ方も分からないまま。

 一度でも、誰かに話すことができていたなら——ほんの少しでも、違う未来があったのかもしれない。


(……結局、私の指はどこへいったのだろう)


 土に埋められて、穢れた土壌を癒しているのだろうか。それともイシュマエルと共に葬られたのだろうか。今更どうでもいい事だけど。

 セリウスは乾いた笑いを漏らした。

 回廊の縁に腰を下ろすと、足元の花へと指先を伸ばす。

 土に触れ、葉に触れる。それだけで、胸の奥に溜まっていた重さが、わずかにほどけていく。


 ——ここでは、息がしやすい。


 胸元のペンダントが、ふと煩わしく感じられた。

 首から下ろし、適当に脇へと置く。それだけで、また少し楽になる。


「……疲れた」


 柱に背を預けて零れた声は、驚くほど素直だった。

 回廊には人の気配がない。静かすぎて、置き去りにしてきた感情が、ひとつずつ輪郭を持ち始める。


 忙しかった。充実していた。楽しかった——気もする。


「ああ……参ったな……」


 小さな呟きは、風に溶けた。

 それを、いちばんに聞いてほしい相手には、もう容易く会うことは叶わない。会わないと決めた。

 守られていた時間は、終わったのだから。

 あの日、この場所から、既に道は分かれていた。


『セリィ』

『……その様な意図で話したのではない』

『悪かった』


 忘れようとしていた記憶が、急に牙を向いた。真っ直ぐに自分をその瞳に映した彼の悲痛な表情までもが——強く、胸を叩く。


 大丈夫だったはずなのに。


 この場所は思い出が多すぎた。

 胸の奥がざわめき、感情だけが遅れて押し寄せると、吐き気に似たものが喉まで迫り上がった。


「ゔ………?!」


 セリウスは深く息を吸い、花から手を離すと、傍らのペンダントを掴み、立ち上がる。

 結局、医局にも寄らずに足早に王宮を出て、そのまま屋敷へ戻った。歩調は保っている。だが、身体の内側だけが、どうにも追いついてこない。

 胸の奥——凪いでいるはずの水面がひどく重く、静かなまま、底だけが軋んでいる。


 心が、溢れかえりそうだった。



 そのまま自室のベッドに雪崩れ込んだセリウスは、強制的に意識をシャットダウンした。


 どれほど眠ったのかも分からないまま、しばらくして階下のざわめきで意識が浮かび上がる。

 カーテンはいつの間にか閉められていて、サイドテーブルに水差しが置いてあった。おそらくシンディが気を遣ってくれたのだろうと分かる。


 外はすっかり暗くなっていた。

 身体は重い。だが、眠りで癒えた感覚はほとんどなかった。

 言い合う様な声が気になり、結局無理やり身を起こす。ゆっくりと階段を下りると、玄関ホールには、珍しくベルトランの姿が見えた。

 その隣で腕を組み、微動だにしないエミリア。少し離れた場所には、困惑を隠せないシャルルと、状況を測りかねているローワン。


「皆さん、お揃いで……どうしたんです?」


 声は、思ったよりも平坦だった。

 ベルトランが振り返る。その表情を見た瞬間、セリウスは理解した。


 ——良くないことが起きている。


「ご苦労であった、セリウス。疲れているところ申し訳ない。エミリアが帰らないと駄々を——」


「お兄さまはどっちの味方?」


言い終わる前に、エミリアが割り込んだ。


「こら、エミリア!」


 シャルルが珍しく声を荒げ、セリウスは思わず胸元へ手を伸ばした。

 ——あるはずの、静けさを求めて。

 けれど。

 そこにあったのは、凪でも、鎮静でもない。

 ただの、空白。

 

 これまでなら、多少なりとも安らいだ気がしていたのに。

 わずかに、呼吸が浅くなった。


(どうして——)


 玄関ホールの空気が、静かに張りつめていく中で、セリウスだけが、取り残されたように立ち尽くしていた。


***





 最初から、こうなることは分かっていた。

 応接間に並ぶ大人たちの顔を見渡しながら、エミリアは内心で小さく息をつく。

 父シャルル、叔父ベルトラン、そして——薄く笑みを浮かべて立つ兄。その笑みがどれほど無理をしたものか、彼女には分かってしまう。


 王弟アルヴェルの妃選びが公になった以上、忠臣であるモルフォンド家が沈黙を保つことは許されない。

 それに加えて。

 瀕死の王弟を救った御子の安否。

 ルーカス領の空に走った青白い光。

 あれは力の暴発だったのではないか、という噂。

 そして何より“王弟のお気に入り”とされてきた御子が、妃選びが始まってから姿を見せていないこと。

 王宮が隠すほど、それまで事実の断片に過ぎなかったものが、勝手に意味を与えられるのだ。


「エミリア、これは王家への礼でもある」

「国中の令嬢が集うのだ。君が顔を出さぬ理由はないだろう」


 父と叔父が、交互に諭す。

 どちらも正しい。だからこそ、逃げ場がない。


 こういうとき、妙に機転の利くはずのローワンは別室に追いやられていた。この話を無関係な彼の前でできるほど、誰も無神経ではない。


「……分かっています」


 背筋を伸ばし、形だけ整った笑みを浮かべる。


「ですが私は、あの方に興味がありませんの」


 空気が張り詰めた。


「興味がない、では済まない問題だ」

「エミリア、王弟殿下は——」


「ええ、存じております」


 わずかに強くなった声で、遮る。


「優秀で、冷静で、王国に必要な方。……それは重々承知しております」


 だからこそ、嫌なのだ。

 胸の奥で、ざらりとした感情が擦れる。


 兄を縛り、遠ざけ、利用し——それでもなお必要とすれば引き戻す。

 あの人は。王族は——そういうことができてしまう。兄は、それでも従う。疑いもせず、拒みもせず。それが使命だからと、命すら惜しまずに。


(……どうして)


 そのとき。これまで黙っていたセリウスが、一歩前に出た。


「……エミリア」


 穏やかな声。だがその奥に、わずかな疲労が沈んでいる。まだ身体が完全に癒えていないのだろう。 自分の問題に、兄を巻き込んでしまっているこの状況を少し後悔した。だが。


「君が、どう思っているのか……聞かせてほしい」


 その言葉に、これまで彼に対して抱いていた苛立ちが、はっきりと輪郭を持ってしまう。


(それよ)


 いつもそうだ。

 兄は、自分の望みを言わない。代わりに、相手に選ばせる。その優しさがどれだけ残酷かも知らずに。そしてそれは必ずセリウス自身をも傷付けることになるのに、なぜわからないのだろう。

 エミリアは一歩踏み出し、真正面から兄を見据えた。


「逆に、お兄さまにお聞きしますわ」


 室内の視線が集まる。


「お兄さまは本気で、私に——あの方の妃になってほしいとお思い?」


 セリウスは、わずかに目を伏せた。

 だが、迷いではない。答えを持たない者の沈黙だった。


「……でしたら、条件がございます」


「条件だと?」


 叔父の顔が曇る。また無理難題を押し付けると思っているだろう。そしてその予想は当たっている。


 エミリアは微笑んだ。


「夜会に出ても構いません。お兄さまが、私をエスコートしてくださるのならね」


「エミリア!」


 今度は父の声が鋭く飛んだ。


 当然だ。彼はまだ癒えていない。加えて今の彼は、“見世物”にされかねない立場にある。

 だが。


「……なるほど」


 ベルトランが静かに口を開いた。


「むしろ好都合かもしれんな」


 その目は冷静に状況を測っている。


「御子自ら公の場に姿を見せる。妹を伴い、穏やかに振る舞う。それだけで、“囲われている”だの“力を失った”だのという噂は自然と鎮まる」


「兄上!」


 シャルルが制するが、ベルトランは視線を逸らさない。二人が揃って夜会に出れば、モルフォンド家の面目も保たれ、王弟も妃選びが一歩前進するだろう。そう算段を立て、ただ一人——セリウスを見る。


「どうだ、セリウス」


 一瞬だけ、沈黙。——それでも彼は、いつものように笑った。


「……構いません。お役に立てるのなら」


 その言葉に。エミリアは胸の奥で、小さく笑った。


(嫌味一つもないのね)


 自分を後回しにして、誰かのために利用される事に、何の躊躇もない。

 でもだからこそ。それが悪手だと、良い加減気付くべきなのだ。


「では決まりね」


 くるりと踵を返しながら、振り返る。


「……覚悟なさってくださいませ、お兄さま」


 夜会は、もう始まっている。

 逃げ場など、どこにもなかった。



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