北方視察
現地の孤児受け入れ政策の取り組みを視察する一行は、領地の大通りを歩いていた。
——その視線の中に、必ず混じるものがある。
値踏みするような、あるいは怯えと嫌悪の入り混じった、じっと絡みつく視線。そして決まって呟かれる"言葉"。
聞こえて来ずとも、眉のひそめ方や唇の動きだけで、何を言っているのかがセリウスには分かった。
幼い頃からそうやって、ひっそりと観察する術を身に付けていた。だから、知りたくなくても目自然とそちらへ向いてしまう。
初めて訪れる場所、関わる人間が多いほど、その妙な癖に煩わされたものだが、どうした事だろう。今日は不思議とそんな気にもならなかった。
セリウスは落ち着いた様子で先導する現地役人の説明にだけ耳を傾けている。
「……やはり、少し空気が張りますね」
隣を歩く文官のメンデスが、小声でそう漏らす。彼なりにセリウスを気にしてくれていた。
「大丈夫です。いつものことですから」
慰めでも、強がりでもない。ただの事実だった。
視線を受け流すのはセリウスにとっては造作もない事で。だとしても、彼の態度は奇妙なほど凪いでいた。
少なくともメンデスやアンヘルの目にはそう見え、彼の心の静けさが妙に気に掛かった。
漁港や牧場を一通り巡り、視察隊は再び大通りへ戻ってきた。
(……さすがに、この炎天下は堪えるな)
セリウスは意識的に歩調を落とし、隊列の最後尾に回る。
そのときだった。
背後から、ばたばたと足音が近づく。
「——っ!」
どん、と小さな衝撃。
誰かがぶつかった、と気づいた瞬間、胸元がわずかに引かれた。
「待て!」
アンヘルが即座に反応し、少年の腕を掴む。
その手の中には、セリウスの外套の内ポケットから抜き取られた小銭袋があった。
だがセリウスは、慌てる様子もなく少年を見下ろすと、ゆっくりと口を開く。
「それを取って、どうするつもりだったんだい」
声は穏やかだった。
「大した価値はないよ。食べ物にも、長くは換えられない」
その言葉に、少年の顔が歪む。
「……うるさい!」
アンヘルの手を振りほどき、少年は叫んだ。
「悪魔のくせに!お前がいると災いが起きるんだ!
白いのが来ると、誰かが死ぬ!——早く、どこかへ行け!」
吐き捨てるように言い放ち、少年は身を翻す。
アンヘルが追おうとするより早く、人混みに紛れて消えてしまった。
それまで逸らされて来た視線が一気にこちらに向くのが分かる。残された空気が、ひどく冷たかった。
「……追いましょうか」
沈黙を割くようにして、アンヘルが低く言ったが、セリウスは首を振った。
「いい。あの子は、私から何も奪っていないよ」
小銭袋はアンヘルの手に戻っている。
胸の奥が、ほんの少しだけ疼いたが、その感覚はどこか遠く、他人の物のような痛みとして上滑りした。
(そんなことよりも)
やるべき事がある。
前を向き、任された仕事をこなす。
教会も、王宮も、祝福も、厄災も、今はどうでもいい。ただ、臣下として、役目を果たしたかった。
御子としてではなく、ただの自分として。かつて自分に手を差し伸べてくれた人がいた様に、自分もまた手を差し伸べたい。
どうせこの命は自分だけのものではない。枯れかけてなお、生きろと引き戻されたのだから。いつか大地に還すまで、せめて人間としてのこの手が誰かを癒せたらいい。
そうすれば、いつかきっと——生きているのも悪くないと思えるだろう。
セリウスは静かに息を吸い、視察隊へと合流した。
*
「それで、孤児の受け入れに対する領民の温度感としては、いかがでしょうか」
視察隊の一人が、村長に問いかける。
村長は少し間を置き、やがて表情を緩めた。
「大方は好意的です。実際、人手が足りないというのは、領民が一番よく分かっていますから」
近年進む過疎、減り続ける若い漁師——。
子どもたちが成長し、未来を担ってくれることへの期待。その言葉に、視察隊の面々は頷いた。
「あの……“大方”というのは」
そんな中、後方からの控えめな問いかけに、村長が向き直る。
一瞬眉が跳ねたが、努めて平静に彼は尋ねた。
「あなたは……?」
「セリウス・モルフォンドと申します。前回は同行出来ず、ご挨拶が遅れました」
名乗ると、すぐ隣の役人が補足した。
「この政策の発案者です」
村長は感嘆と共に軽く頷き、少し身を乗り出して視線を合わせた。少なくとも外側だけで判断をする人間ではないことに、セリウスは小さく安堵する。
「——そうですね。“大方”と申しましたのは、懸念を示す領民も少なからずいる、という意味です」
そう前置きし、言葉を探すように一度俯く。
「この地は、酪農と漁で生計を立てています。北の海は気性が荒く、ときに船を飲み込むこともある」
家長を失った家。取り残される寡婦たち。
「村として新しい働き手を得られるのはありがたい。ですが一方で、外での仕事を経験したことのない奥方たちが、家の中だけで暮らしを立てるのは難しい場合もあります」
セリウスは静かに頷いた。
「彼女たちはどうやって暮らしているのですか」
別の視察員が尋ねる。
「漁師の寄合単位で、残された家族を面倒見ています。保存の利く食料を工夫し、冬は薪を分け合い……知恵と経験で、何とか生き延びているのが現状です」
守られている。だが、それだけで本当に良いのだろうか。セリウスは俯き、思案した。
悪い癖で、思考を巡らせるあまり、周囲の距離感が——ふっと抜け落ちる。
隣にいたメンデスの持つ資料が目に入り、そこに書かれた地図や地域の記録を食い入る様に見つめ、押し黙った。
「……」
突然。
視界を埋める白銀の髪に、メンデスの肩がぴくりと跳ねた。
「……えっと、セ、セリウス殿……?」
メンデスの声が僅かに上擦る。
——近い。
周囲の視察員が、一瞬だけ視線を逸らした。村長も咳払いをひとつして、わずかに間を置く。だが、ほとんど肩が触れ合う程の位置に立っているのに、当の本人はまるで気づいていない。
それどころか、
「……ここに、“生きるための雇用”を作れるはずです」
資料から目を離さないまま、淡々とセリウスは続けるのだ。メンデスはそれまで視線を彷徨わせていたが、とうとう切り替える様に詰めていた息を吐くと、そっと手元の資料に目を落とした。
「……あ、なるほど」
声を整え、静かに頷く。
「守られるだけでなく、役割を持つということですね」
メンデスもまた視線を落としたまま淡々と答える。流石にこの距離で返事をすれば、本人だってこの異様な距離に気付くだろう、と期待もこめて。
だが、白い男は満足そうに小さく頷くと、さらに身を乗り出した。
「そう。例えば……ここを補えば、漁期に左右されない仕事が——」
「セリウス様」
すかさず遮ったアンヘルの声は低く、だが穏やかだった。同時に、外套の裾を軽く引く。
「……お足元が悪いようなので、今一歩後ろに」
「え——?」
ようやく我に返ったセリウスが顔を上げる。
僅かに身を退け反らせているメンデス。視察員たちのどこか気まずそうな表情。
「……あ」
ほんの一瞬、理解が追いつき、そして僅かに耳が赤くなる。
「失礼しました」
そう言って一歩下がると、空気がふっと緩んだ。
アンヘルは何事もなかったように視線を前へ戻す。
セリウスは小さく咳払いし、気を取り直して説明に戻る。今度は、きちんと距離を保ったままで。
「ふふ…」
メンデスは思わず笑ってしまった。
噂とは、ずいぶん違う。その奇跡の力と拾われた家の家格により守られた異端。養父のコネで名ばかりの王宮医官となった飾り物。聖なる贄でありながら、王弟の気を惹き自由を許された御子。
そのどれもが、今のこの男には似つかわしくない。あまりに愚直で、人間くさい。
彼の屋敷で共に作業した時も思ったが、一度のめり込むとまるで周りが見えなくなる。何かに駆り立てられる様なその横顔が恐ろしくもあった。
セリウスは一歩だけ前に出た。
「ランドフォードでは、事件の影響で雇用先を失った諸侯の従者たちを働き手として迎え入れました。
ですが——幸い、と言うべきでしょうか。この地には、すでに生きる知恵を持った方々がいらっしゃる」
視線が、村の家々の方へと向く。
「寡婦の方々です。家を守り、子を育て、冬を越す術を知っている。育児の経験があり、何より“生き延びる”という現実を知っている人たちです」
村長が、ゆっくりと瞬きをした。
「私はあの地での取組みで、唯一譲れない事がありました」
セリウスは一度息を吸うと、ほんのわずかに視線を落とす。
「孤児たちを、ただの働き手にしないことです」
その言葉に、周囲の空気が変わる。役人たちが無意識に背筋を正した。
「この子たちは、本来なら当然に享受するはずだったものを、すでに失っています。
温もりも、優しさも、帰る場所も」
声は静かだったが、確かな重みがあった。
「だからこそ、ここで——それらを、取り戻させたい。ただ生き残るのではなく、“育つ”場所を用意したいと思うのです」
村長は、思わず手元の杖を強く握った。
「ここで、その最も尊い役割を、寡婦の方々に担っていただくことは可能でしょうか」
一拍の沈黙。
やがて村長は、深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。視線を外し、遠くの海を見やる。
「……この地では、家長を失った女たちは“守られる側”であり続けてきました。必要とされてはいるが、選ばれることは少ない」
それから、セリウスに向き直る。
「だが……あなたの言う通り、彼女たちは何も知らぬわけではない」
村長の口元が、わずかに緩んだ。
「むしろ、失うことと共に生きてきた。子どもに与える温もりの意味を、一番知っているのは、間違いなく彼女たちでしょうな」
周囲の役人の一人が、小さく頷く。
「仕事として成り立たせるなら、報酬も役割も、きちんと用意する必要がありますよね」
「はい」
セリウスは即座に答えた。
「保育と生活支援を正式な職務として位置づけます。加工品の管理や教育補助も含め、段階的に制度化できるはずです」
「……やはり、机上の理想ではありませんね」
メンデスが笑ってそう言うと、セリウスもつられるようにして笑みをこぼした。
「理想だけでは、人は生きられませんから」
北の風が、街路を吹き抜ける。
その中で、彼の胸にあった決意は、確かな形を持ち始めていた。
守られるだけではない。役割を持ち、選び、育てる側に立つ未来。それは、孤児のためであり、寡婦たちのためであり——そして何より、かつての自分自身のための道でもあった。
*
視察の話がひと段落し、次の区画へ向かおうとした、そのときだった。
人混みの向こうに、見覚えのある背中があった。
——あの少年。
今度は盗もうとする気配もなく、ただ人の流れの端に立ち、落ち着きなく視線をさまよわせている。
何かを言おうとしては躊躇い、結局一歩も踏み出せないまま、ふらりと踵を返した。北道の方へ、逃げるように。
セリウスとアンヘルは、無言で顔を見合わせる。
「……様子がおかしいですね」
「ええ」
二人は視察隊から少し離れ、少年の後を追った。
道の脇に並ぶ粗末な家々。その一つ、屋根も壁も心許ないあばら屋の前で、少年は立ち止まった。井戸から汲んだ水桶を抱え、震える手で扉を押し開ける。
——中から、ひどい咳の音が聞こえた。
胸を抉るような、湿った咳。
セリウスは足を止める。
「……この咳」
気づいた少年が振り返り、セリウスたちを見るなり、顔を歪めた。
「来るな!」
水桶を抱えたまま、獣のように叫ぶ。
「母さんを地獄へ連れて行く気だろ!白いの!」
アンヘルが一歩前に出ようとするのを、セリウスは手で制した。
そして、静かに問いかける。
「今の咳は……君のお母さんかい?」
少年は答えない。だが、その目が揺れた。
「少し、診せてもらってもいいかな」
セリウスはヴェール越しに微笑む。
「私は医者だよ」
「嘘だ!」
拒絶は強かった。恐怖が、そのまま敵意になっている。投げつけられた水桶がセリウスにぶつかり、足元に転がった。
「恐れること自体は、悪くない」
少しの間を置いて、セリウスの淡々とした声が響いた。
「けれど、恐怖は正しく扱わないと、大切なものが見えなくなる」
そう言って、少年の横をすり抜ける。
制止も待たず、躊躇もなく、スタスタと家の中へ入っていった。
薄暗い室内。簡素な寝台に横たわる女性は、顔色が悪く、呼吸が浅い。
「……水は飲めていますか?」
すぐさま脈を取り、瞳を覗く。
癒しの力は、使わなかった。セリウスは持参していた薬包を開き、湯に溶かし、慎重に飲ませた。それから上体を上げてやり、横を向かせると軽い力で背を撫でてやる。すると痰が出しやすくなったのか、咳の間隔が少しずつ落ち着いていった。
「大丈夫」
それは患者ではなく、外で固まっている少年に向けた言葉だった。
「……あとは、村の医師に引き継ぐよ」
ほどなく領地の医師が呼ばれ、治療は正式に引き継がれた。
少年の母は、元からこの地で暮らしてきた寡婦だった。
「……なるほど」
領主が深く頷く。
「孤児のためだけの政策ではない、ということか」
この一件以降、同様の家庭は他にもあるだろうという声が上がり、視察の後半は取りこぼしを防ぐ仕組みについての議論に費やされることとなった。
セリウスは程よい充実感に、油断していた。
(……暑いな)
外套。顔を覆うヴェール。
睡眠を忘れ動き続ける身体。
容赦ない北の夏の日差し。
視界が大きく揺れ、キーンと耳が鳴った。
気づけば、道の脇の石壁に寄りかかり、そのまま動けなくなっていた。
「セリウス殿!?」
誰かの声が遠い。
けれど、小さな足音だけが、はっきりと近づいてくる。
「おい!」
ばしゃっ、と容赦なく水が顔にかけられた。
「ん……っ!?」
反射的に息を呑み、目を開ける。
そこにいたのは、あの少年だった。
息を切らし、桶を抱え、こちらを睨みつけている。
「おまえ、本当に医者かよ」
ぶっきらぼうに言う。
「顔色、最悪だぞ」
——その言葉が、胸の奥に触れた。
水面が揺れるように、何かが広がりかける。
驚きと、可笑しさと、ほんの少しの安堵。
けれど——それはすっと均されてしまった。波紋は広がらず、静かに沈む。
「……ははっ、確かに。これは、医者失格だね」
セリウスは、遅れて笑った。
額の水を拭う手が、わずかに止まる。
——今、何かが動いたはずだったが、もうその輪郭は掴めない。
少年はきょとんとした顔をしてから、ぷいっと視線を逸らす。
その背中を見ながら、セリウスは目を細めた。
この身体は——ずっと、世界に拒まれていると思っていた。それでも。
少年が叱るように、声をかけてくれた。それはセリウスの心を優しく撫でる出来事だったが——温かいはずの何かが、指の隙間からこぼれていく。触れたはずのものに、触れきれない。
「……?」
セリウスは無意識に、胸元へと指をやった。
衣服の下、スフェーンの首飾りに指先が引っかかる。だが、何も語らなかった。
遠くで、子どもたちの笑い声がした。
(……まあ。いいか)
言葉にならないまま、思考は途切れた。
*
北方視察の最終夜。
セリウスは、視察の傍らで見聞きした現地に残る記録と伝承を仮設の執務机で丹念に書き留めていた。
土地の復興史。祭礼の由来。そして必ずと言っていいほど語られる、女神の神話。
走らせていたペンを止め、その三本しかない握りの甘くなった指を注視した。
「……同じ女神でも、随分と違うものだ」
ルーカス領では、女神は自らの肉を分け与えたと伝えられていた。荒れた大地に血と土が混じり、作物が芽吹いた——犠牲による救済の神話。
一方、この地で語られる女神は違う。
力を「与えた」のではなく、人と「共に耐えた」という。
飢えや寒さに震え、それでも祈りを絶やさなかった。奇跡は、神が一方的にもたらしたものではなく、共に耐え続けた末に訪れたものだと。
同じ名の女神。同じはずの奇跡。それでも、語られ方は驚くほど異なっていた。
(……土地が違えば、祈りも違うのだな)
セリウスはペンを置き、灯りの揺れる机上を見つめる。
昼間、あの少年が向けてきた剥き出しの恐怖もまた、この土地で生き延びるために育ったものなのだろう。
白いものが来ると、災いが起きる。誰かが死ぬ。だから、追い払わなければならない。
それは迷信ではなく、生きるための「答え」だった。
(神話も、同じなのだろうな)
その土地に生きた人々が、恐れや希望に意味を与えるために紡いだ物語。
もし女神が、そうして人の中から立ち上がってきた存在だとしたら。
もしティアベアラーもまた、祈りや恐れの中で役割を与えられてきた存在だとしたら。
(……最初から、定められた姿などなかったのかもしれない)
セリウスは、胸元のチャームにそっと指を触れた。スフェーンは冷たく、静かだった。
感情は波立たない。
悲しみも、寂しさも、遠い。
ただ、一つだけ、確信したことがある。
これから先は、自分で選び、自分の足で進むことも出来るかも知れない。癒しの力でも、神話でもなしに。
今日、差し出したのは、医師としての手と、言葉だけだった。それでも、確かに届いた。
名も、役も、まだ持たない。
だが——恐れや祈りに縛られる存在ではなく、人が人として息をする、その傍らに在るものになれたら。
その思いだけを胸に、セリウスは再びペンを取る。
灯りの下、静かな夜は、何も答えを与えないままに深まっていった。




