Dum spiro, spero.
王城の謁見の間に、ざわめきが満ちていた。
玉座の脇、一段低い位置に立つ宰相が、巻物を閉じる。
「——以上をもちまして、王命と致します。
王弟アルヴェル殿下は、正式に妃を迎える意思を示されました」
一拍。
次いで、低く抑えられた声が波のように広がった。
政務官たちは互いに目配せをし、老獪な貴族たちは慎重に表情を整え、若い者は隠しきれない驚きを浮かべている。
——あの王弟が。
——ついに、か。
アルヴェル・オブ・バルセニウス。
王弟として、政務においては非の打ち所がなく、判断は速く、容赦がなく、しかも正確。
王国の舵取りにおいて宰相すら一目置く存在。
若き日の彼は、あまりに真っ直ぐで、鋭く、真面目すぎるあまり、周囲を圧することも少なくなかった。
その一方で、幼少時からまるで所有物のようにそばに置き、気にかけ、相貌を崩す乳兄弟——セリウス。
あの御子とのただならぬ噂を、王宮で知らない者はいなかった。
セリウスが辺境送りとなってからの一年余りで、アルヴェルは、その強さはそのままに、大人の余裕を纏い、鋭さをさりげなく隠す術を身につけていた。
本来であれば、この発表はふさわしいタイミングだったはずなのだ。
先日の暴発事件さえなければ。
瀕死の重症を負ったと思われたアルヴェルは、ほぼ無傷で生還した。
その事実も、セリウスの名も公式発表はされなかったが、人の口に戸は立てられない。それがあの御子の力によるものであったという噂は王宮内で瞬く間に広がった。
それ自体は何ら当たり前に起こることであったはずなのに、元より噂の人物であったが故に、余計な憶測が後を立たなかった。
当のアルヴェルは、まるで芯に一本、強靭な光を通したみたいに揺るがない。
何も語らず、怪我を負う前同様に堂々としている。
(……だからこそ、だ)
誰かの胸中を代弁するように、空気が重くなる。
才覚に優れる。隙がない。私情を挟まない。
——それは、政務においては美徳である。
しかし、父親として娘を差し出す立場に立てば。
(息が詰まるだろうな)
(あの方の隣で、気を抜く暇があるとは思えん)
(……娘が可哀想だ。正妻であっても、二番目にしかなれぬのでは)
声にはならない本音が、そこかしこに滲む。
王弟は、感情を表に出さない。
いや、出さぬようにしているのでもない。最初から、他者に期待しない——そんな印象すら与える男だった。
さらに言えば。
(王弟妃、となれば、半端な家格では釣り合わぬ)
(だが、彼を思い通りに出来るとも思えん)
自らの地位を盤石にしたい貴族にとって、アルヴェルという男は——頼もしいが、扱いづらい。
利用するには鋭すぎ、縛るには自由すぎる。
宰相は、そうした沈黙を承知の上で、淡々と続けた。
「なお、殿下は妃選定において、家格のみを重んじるお考えはないとのこと。本人の意思、資質、人となりを重視されるそうです」
——余計に厄介だ。
その条件で、誰が名乗りを上げるというのか。
王国は静かに、しかし確実にざわめいていた。
これは通達であり、相談ではない。
しかし当の本人は、その視線の意味を承知の上で、全く動じない。
それは、これから続く夜会週間になっても変わらなかった。
王宮主催の夜会は、眩暈がするほどの光に満ちていた。燭台の列、磨き上げられた床、絹と宝石の波。その中心に、今宵の主役——王弟アルヴェルは立っている。
これまで情報収集と情勢把握のため、ほんの短時間しか姿を見せなかった男が、今夜は違った。
逃げ場はない。
杯を片手に、令嬢たちの前に留まり続けている。
濃紺の礼装に身を包んだ彼は、これまでと変わらぬ端正な佇まい。
ただ一つ違うのは、口元に乗せられた、わずかな柔らかさ。
それだけで、空気がざわめく。
(……あの人が?)
(噂と、違う……)
父親たちから聞かされてきた評判は、冷酷、無表情、隙がない。
“白い悪魔”とも“白い御子”とも呼ばれる存在にしか心を開かぬ男。
だが、実物の王弟は——
令嬢の一人ひとりに視線を合わせ、低く落ち着いた声で言葉を返し、必要以上に踏み込まず、それでいて無関心でもない。
完璧に計算された距離感と、成熟した余裕。
その茜色の瞳に射抜かれ、胸の奥を焼かれる者。
あまりにも大人びた気品に、自分が釣り合わぬと俯く者。噂の“白い御仁”に負けてなるものかと、密かに闘志を燃やす者。
三者三様の感情が、会場に渦巻いていた。
(……兄上、これは拷問ではありませんか)
内心の呻きを隠しつつ、上げ続けて引き攣る頬に手を当てていたアルヴェルに、歩み寄る足音があった。
「お初にお目にかかりますわ、殿下」
澄ました声。
深紅のドレスを纏った令嬢は、顎をわずかに引き、意識して視線を上げてくる。
「私はヴァレンティナ・ナピーリ。父はご存じでしょう?」
「ええ。北方の再編で、随分と骨を折ってくださった」
即座に返る言葉に、ヴァレンティナの瞳がわずかに揺れた。
——覚えている。しかも、功績まで。
「噂とは随分と違うようですわね。
“心を許すのは、あの白い御子だけ”と聞いておりましたのに。これでは、拍子抜けですわ」
試すような視線。
落とす気満々の笑み。
だが、アルヴェルは一瞬だけ目を細め、穏やかに微笑んだ。
「噂とは、便利なものですから」
低く、よく通る声。
「信じる者にとっては真実になり、恐れる者にとっては化け物にもなる」
そして、ほんのわずかに首を傾げる。
「……あなたは、どちらをご覧になりたいのですか?」
その問いにヴァレンティナは、息を呑んだ。
「殿下は——」
「失礼いたします、殿下」
低く、しかし有無を言わせぬ声が割って入った。
ヴァレンティナの父である。
娘の肩に手を置き、即座に距離を取らせた。
「少々、娘をお借りしても?」
笑顔は作っているが、目は笑っていない。
王弟に向ける視線には、警戒と躊躇。
「……もちろん」
アルヴェルは、何も言わずに一歩下がった。
去っていく親子の背を見送りながら、周囲のざわめきが耳に届く。
令嬢たちの囁き。そして、その後ろで揃って浮かない顔をする父親たち。
これまで夜会ですら政務の顔しか見せなかった男の変貌ぶりが、かえって不気味なのだ。
アルヴェルは杯を置き、静かにその場を離れた。
回廊の陰、喧騒が嘘のように薄れた場所で、アルヴェルはようやく肩の力を抜いた。
(……予想外の展開だな)
深く、息を吐く。
「いやあ、想像以上だったよ」
壁にもたれ、葡萄酒の杯を指先で揺らしながら、ヘリオスが立っていた。
その口元は笑っているが、目は笑っていない。
「“王弟が白い御子を私物化している”——あの噂、完全に君の自作自演だろう?」
少しの間を空けて、アルヴェルは額に手を当てたまま答える。
「半分はセリウスを守るために仕方なく。残りの半分は……兄上への忠誠だ。
若い頃の愚かな王弟は、そういうやり方しか思いつかなかったんだ。悪いかよ」
ヘリオスは、小さく息を吐いた。
「忠誠、ね」
杯を傾けるが、口はつけない。
「君が“王弟として正しい”ことくらい、皆分かってる。でもさ——」
揺らしていたグラスがぴた、と止まる。
「これは本当に、君が描いていた結末なの?」
アルヴェルは口を引き結んだ。
「君はいつも、“最悪を想定して、最善を拾う”男だったはずだ」
静かな間。
遠くで、楽団の音がかすかに響く。
「……最善だろ」
アルヴェルは苦く笑った。
「少なくとも、誰かを巻き添えにしない結末ではある」
「それは“最善”とは言わない」
ヘリオスは即座に言った。
「それは、“君が一人で背負う”ってだけだ」
一瞬。
本当に一瞬だけ、アルヴェルの視線が揺れた。
「いっそ本当に、あの月の精を連れて、どこかへ消えてしまえばいい」
冗談めかした口調。
だが、その目は真剣だった。
「王位継承がどうなろうと、君がそこまで背負う義理はないだろう?」
アルヴェルは答えない。
ただ、回廊の奥——夜会の光の方を見る。
そこでは今も、誰かが期待し、誰かが怯え、誰かが計算している。
「……逃げれば、楽だろうな。俺は」
ぽつりと零れた声は、独り言に近い。
ヘリオスは、それ以上追及しなかった。
ただ、杯を揺らして肩をすくめる。
「だろうね。だから余計に、君は逃げない」
アルヴェルは、静かに息を整える。
ヘリオスはもう何も言わない。
王弟である以上。
夜会は、まだ終わらない。
*
王宮の一角、執務室。
宰相は、開いては畳み、畳んでは次を開く——その動作を、すでに何度繰り返したか分からなくなっていた。
「……もう、何ということだ」
低く絞り出した声に、書簡の山が答えることはない。
王弟アルヴェルが妃を迎える意思を公にしてから、王国は確かに湧いた。
だが、期待していた“名乗り”は——思ったより、ずっと、少なかった。
「才覚、人格、どれを取っても申し分ない。
それどころか、これ以上ない好条件だというのに……」
胃のあたりを押さえ、宰相は深く息を吐く。
——娘には荷が重すぎます。
——恐れ多くも、我が家には適任とは申せず。
——王弟殿下のお立場を思えば、より相応しいご縁があろうかと。
どれも丁寧で、遠回しな——辞退。
「……御子の噂も、やはり尾を引いているか」
隣で控えていた文官が、恐る恐る口を挟んだ。
「宰相殿……お顔色が」
「大丈夫だ。胃が少々。…己の職責を理解しただけだ」
笑いにもならぬ返答に、文官は黙った。
——先の事件。瀕死の王弟を救い、力を使い果たして倒れた白の御子。
あの場に居合わせた者の証言は、どうしても“特別”という言葉を呼び寄せる。
それでも以前のような、露骨な執着は見えない。
セリウス本人でさえ一歩引き、王弟と国の未来を考える姿勢を見せていたというのに。
(……頭で理解していても、娘の夫に、となると話は別、か)
娘を持つ父親として考えれば、無理もない。
隙がなさすぎる。誠実すぎる。強すぎる。
「……もう少し待って、それでも駄目なら」
打診、という言葉を思い浮かべた瞬間、胃がきりりと鳴いた。
「……ああ、これは本格的に駄目だな」
*
一方その頃。
セリウスは王宮ではなく、自宅の一室に籠もっていた。
北方視察に同行できなかった代わりに、戻ってきた視察隊の報告を集約し、整理する役目を引き受けている。
机の上には地図、報告書、補給表。
静かな部屋に、紙を繰る音と穏やかな声が落ちる。
「……この村は、食料自給率が想定より低いですね。
冬季の補給計画、もう一段見直した方が良さそうです」
眠気を帯びた眼差しで、それでも細部を逃さず拾っていく。向かいで資料を整理していた文官——メンデスは、何度目かの感嘆を胸の内に押し込んだ。
「……相変わらず、よく覚えておられますね」
「いえ。皆さんが集めてくださったものですから」
シンディが運んできた紅茶に礼を言い、セリウスは微笑んだ。
「資料を持ってきてくださっただけでなく、手伝ってまでいただいて。ありがとうございます、メンデス殿」
「私は半分、見張り役ですよ。異変があれば、すぐ報告せよと仰せつかっております」
なるほど、とセリウスは苦笑した。
「……信用がありませんね。では、あまり心配をかけないよう、ほどほどにします」
書類に伸ばしかけた手を一度止め、セリウスは静かに息を整えた。
胸に触れれば。
——あの温もりは、まだそこにあった。
癒しの力の源。そう呼ばれてきたものが、今は以前とは違うかたちで胸の奥に灯っている。
やわらかく、しかし消えない。
それが何なのか、言葉では分からない。けれど身体だけは、確かにそれを覚えていた。
そしてそれだけではない。朧げな意識の中で自分を呼び続けていたあの声も、頬や手に触れた大きく温かな手も、朝靄の立ち込める森林のような重く優しい香りも。
あれは……やはりアルヴェルに違いなかった。
だが、思い出しかけて——やめる。
あの夜のことも。あの人のことも。
どちらも、もうこれ以上考えなくていいことだ。
全ては、終わったこと。
そう思うことで、ようやく呼吸が整った。
「次は一週間後、北部沿岸の
視察があります。その頃には、ぜひご一緒を」
「はい。次は必ず」
世の中は絶えず動いている。生きている以上、立ち止まり続けている訳にはいかなかった。
短い約束を交わし、メンデスを見送るとセリウスはまた書類へと視線を戻した。
それから半刻、紅茶が冷め始めた頃。窓の外で、馬車が静かに止まった。
作業机に向かっていたセリウスは、ふと顔を上げる。
「誰だ……?」
ゆったりとした動作で立ち上がり、部屋を出る。階段を降りようとしたところで、上がって来る足音がした。
「やあ、来たよ」
訪れたのは養父シャルルだった。
この間会ったばかりだというのに、大して間を空けず様子を見に来る辺り、自分は余程信用がないらしい。ひとまず自室に案内するも、扉を開けてセリウスは後悔した。
「……で、」
養父は室内を見回す。
積み上げられた報告書、書き込みだらけの地図、湯気の残る茶器。穏やかなはずの相貌が静かに冷えてゆく。
「静養とは?」
「い、一応……」
視線を逸らしたセリウスに、シャルルは苦笑した。
「まあ、君らしい。」
シャルルは腰を下ろし、少し声を落とした。どうやらただの見舞いではないらしい。
「実はな、癒しの力の件だが……少し、調べてみた」
深刻ぶるというより、学者が興味深い資料を見つけた時のような口調だった。セリウスの指先が、わずかに強張る。
「ティアベアラーの力は“泉”だと言われている。溜め込めば溢れて荒れ、使い果たせば器が軋む」
聞き覚えのある理論だった。
「お前が昏睡していた時、ローワンが言っていたよ。教皇から聞いた話だと。その理論でいえば——すずらん祭りの際、君は一度、力をきちんと放出している。」
シャルルは、穏やかだが逃がさぬ声で続ける。
「公には暴発とされているが、あんな短期間で起こるはずがないんだ。
つまり、……お前の意思だね?」
沈黙。
「壊れてもいいとすら、思ったのだろう?」
図星だった。
「ノエルド殿も王弟殿下も、君の容態は詳しく教えてくれたが、何が起こり、何故そうなったのかは……結局濁されたままだった。
モルフォンド家の分家には神官も依然多いから、無理もないことだがね」
教会からの打診がなされてからは家族であっても面会は叶わなかった。ただでさえ暴発だと騒がれ、緘口令が敷かれていたにも関わらず、王弟を助けたという情報が漏れていたのだ。これ以上余計な情報が教会に伝わることを避けるには仕方のないことだった。
「幸い、大事には至らなかった。だが——次は、同じようにはいかない」
それは忠告というより、ほとんど確信だった。
「力の扱いも。……それ以上に、人の目もね」
視線が、机の上の書類に落ちる。
「君はもう、“曖昧なまま”ではいられない位置にいるんだ。分かっているね」
シャルルがそう言うのも無理はない。
あの日。セリウスが自宅へ戻ることが許された日、アーサーは確実にローワンの存在を認識したはずだった。
アルヴェルは知っているのだろうか。気付いている様子はなかったが、単に黙っているだけなのか。
簡単に問える状況にはいないのが余計に不安を掻き立てた。
「……君はローワンを守りたいのだろう?」
シャルルの声に、意識を引き戻される。
「だったら彼が“王政を覆す人物”などと誤解されぬように、行動には十分気をつけねばならないよ」
その言葉に、セリウスの胸がわずかに強張った。
守る。
そうだ。守らなければならない。
あの子が、自分の知らないところで、勝手に意味を与えられてしまう前に。
まだあの子が何を欲するのか、どう生きるのか、それが決まらないうちに巨大な波に巻き込まれる——それだけは避けたい。
セリウスは、静かに頷いた。
「……はい」
短い返事だった。
「よろしい。では今日は、無理はしない事だ。ここに来たついでに、シンディの料理でもご馳走になろうかな」
シャルルはそう言って柔らかく笑った。
その後、二人は階下に下り、シンディが淹れ直してくれたお茶を嗜みながら話していた。
しばらくして、僅かに開いた扉がかすかに揺れる。音もなく滑り込んできたのは、銀灰の毛並みの猫だった。
迷いなく歩き、二人の間をすり抜けると、腰高の窓枠へ軽やかに跳び乗る。
尻尾をゆらりと揺らしながら、こちらを見下ろす。
その首元で、小さな石が光を弾いた。
「……おや」
シャルルが、ほとんど独り言のように呟く。
「この猫は……?」
「ああ、リディア様の猫です。荷に紛れて、ランドフォードからついてきてしまったみたいで」
ルナは答える代わりに、窓辺で誇らしげに首を伸ばした。
その首元の石に、シャルルの視線が留まる。
「そうだ、父上……」
セリウスが思い出したように言った。
「あのチャーム、覚えていますか。セリーヌ様の猫も、同じものをつけていたような……」
「ああ、覚えているよ」
懐かしむように頷き、シャルルは続ける。
「セルがあげたんだ。本当に仲が良かったからね」
「……親友だったのですよね」
「そう」
柔らかく頷いたあと、シャルルは猫の首元を指した。
「懐かしいな。あれはスフェーンと言って、モルフォンドのお守りだ」
光を受けて、石は静かに瞬く。
「“永久不変”と“光”を象徴する石でね」
「ペリドットでは……ないのですね」
「よく似ているが、別物だよ」
そう言いかけて、シャルルはふと目を見開いた。
「……ああ、そうだ」
思いついた子どものような顔になる。
「セリウス、試してみるかい?」
「……私が?何をです?」
「言い伝えに過ぎないが——モルフォンドの一族はは、かつて御子の“守り人”と呼ばれていたらしい」
ルナが、ゆっくりと瞬きをする。
「側に仕えていた者がお守りとして身に付けていたものだから、ひょっとしたらその石は……御子にも何かしら作用するかもしれない」
「守り人……ですか。ですが、この前触れたときは特に何も……」
セリウスは少し考え、立ち上がる。
「もう一度、試してみてもいいかな」
手を伸ばした、その瞬間。
ルナは鼻を鳴らし、するりと身を翻した。
棚の上へ、ひらりと逃げる。
「あ……」
宙に残された手を引き戻し、セリウスは苦笑した。
「……懐かれていないみたいで」
その顔を見た途端、シャルルが吹き出す。
「ははは……いや、すまない。そんな顔をする君は初めて見た」
「父上……」
笑い声が、部屋の空気をやわらげる。
棚の上で、ルナはじっとセリウスを見下ろしていた。
その首元の石だけが、なぜか——わずかに、光を濁らせたように見えた。
そのとき、前庭から馬車の音が響く。
「ただいま戻りました!」
勢いよく扉が開き、ローワンとエミリアが姿を現した。
「父上がいらしていると聞いたのだけれど」
部屋の中を見回し、シャルルの姿を見つけると、にやりと笑う。
「さては……お兄様の具合が心配で、また急に思い立って来たのでしょう?」
「おや、よく分かったね」
シャルルは悪びれもせず肩をすくめた。
そのやり取りを横目で見ながら、ローワンが小さく息を吐く。
——それ、君も同じだろう。
言葉にはしないが、視線がそう語っている。
「なによ、その顔」
「別に?」
視線を逸らすローワンに、エミリアはふん、と鼻を鳴らした。そんな二人の様子を見て、シャルルはまた穏やかに笑う。
「相変わらずだね。君たちは本当に仲がいい」
「……普通です」
二人同時にそう答えて、そして顔を見合わせ、気まずそうにそっぽを向いた。
セリウスはその光景を眺めながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
死ぬべきだった、と今も思うのに。
浅ましくも、生きている。
その事実さえも、胸の奥の温もりが肯定している様で苦しかった。
*
シャルルとエミリアが帰ったあと、セリウスは今日聞いたチャームの話をローワンに聞かせていた。
「そんな意味のある石だったんですね」
ティーカップをソーサーに下ろすとローワンは興味深そうにめを瞬かせる。
「でも、ティーサロンで初めて君に見せてもらった時は、何ともなかったし……私に何か作用があるとは思わないんだけど」
ルナは部屋の隅でゴロゴロと喉を鳴らしていた。
今日は来訪者がいたおかげで自分もおやつをもらえたからか、いつもよりご機嫌そうだ。
茶器をテーブルに戻し、ローワンはゆっくり立ち上がる。
「あの時と今では、セリウス様の持つ力の量は違うのでしょう?ひょっとしたら回復のお守りかも知れませんよ?ものは試しです」
そう言いながら、ローワンはルナの方へ歩いていき、彼女を抱き上げて戻ってくる。
「ぐうう」とルナが鳴く。耳が少し倒れた。
「少し前から思ってましたけど、セリウス様、ルナに避けられてますよね?」と少し面白そうに笑う。
ランドフォードにいた頃は、屋敷の中から遠巻きに見ているだけだったために、セリウスの方が猫を苦手としていたと思っていたが、逆であったか。
「やっぱり……?」
くくく、と堪らずローワンは笑う。
精霊か何かのような佇まいをして、動物に嫌われているのだから。
「君まで私を笑うのか……」
ローワンに抱き上げられたルナは不本意そうにセリウスを見据えている。それでも飼い主に抱かれているからか、逃げなかった。
「ごめんよ……」とセリウスはそっと首輪に手を伸ばした。
石に触れる。
とくん。
胸の奥で、水滴が落ちる感覚がした。
その感覚が波紋のように広がり、沁み渡る。
けれどそれは、熱を帯びるようなものではなく——感情の輪郭が、ゆっくりと均されていくような感覚だった。
ほんの少し、先ほどまでの眠気が薄らぐ。
同時に、心が静かに凪いでいく。
喜びも、不安も、痛みも。
すべてが同じ高さに揃えられていくような。
「どうですか?」
とローワンが尋ねる。
「うん……この間と、違う」
セリウスは小さく頷いた。
だが、その楽さにわずかな戸惑いが残った。
2週間後、セリウスはようやく北方視察隊への同行が叶った。
「今度こそ、行ってくるね。また二週間後に戻るから」
馬上からそう言うセリウスの顔はヴェールに包まれよく見えない。それでも彼が笑っているのがローワンには分かった。
その胸元にスフェーンの首飾り。あの後すぐにシャルル卿が取り寄せた品だった。
目に見えて活気が戻ったわけではないが、それでもセリウスの安定には一役買っているのだろう。
夜中、扉の向こうでうなされている気配がなくなり、ローワンは一人ほっと胸を撫で下ろしていた。
「行ってらっしゃい。時々日陰に入ってくださいね。その格好じゃ、暑いでしょうし」
「ああ、無理はしないよ。今回は、監視役も居るしね」
肩をすくめて彼の前で馬を撫でているアンヘルに視線を送る。アンヘルもローワンに視線を送って静かに頷いてみせた。
馬がゆっくりと動き出す。
石畳を踏む蹄の音が遠ざかり、屋敷の輪郭が少しずつ小さくなっていく。
セリウスは胸元にそっと手を当てた。
そこにあるのは、守られているという実感と、まだ微かだが確かな鼓動。
生きながらえてしまった。
それは皮肉にも、命をかけて救った相手に願われてしまったから。
——生きている限り、望みは消えない。
依存に戻りたくはない。
その誓いの為に、王都へ帰って来たのだから。
道は違えた。だけど、この胸に今もその存在がいる。それで十分ではないか。
息をしている。一人で立っている。
もう守られる必要はない。今度こそ。




