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女神の国 1  作者: 大福駒子


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Divisa via


 嘲笑と嫌悪の視線。

 皮膚を突き破る針の感覚。

 殴打された時の骨身が軋む音。


 振り下ろされる刃。

 肉を裂き、骨を断たれた衝撃。


 苦しい。怖い。


 ——場面が、反転する。


 舐め回すような視線。

 伸びてくる手。


 逃げようとして、身体が動かない。


 その瞬間、光が差し込んだ。

 眩しくて、痛いはずの光。


 けれどそれは、いつのまにか——

 柔らかく、懐かしい温もりに変わっていた。


「……お前は、本当に……」


 欠けた指に。

 手の甲に。

 肩に。


 降るように、そっと。


 それから、額に。

 閉じた瞼に。

 

(……まただ)


 誰かの呼吸が、自分の呼吸と重なっていく。

 境目が、ゆっくりと曖昧になる。

 

 胸の中心に、触れられた。


 押すでもなく、求めるでもなく。

 ただ、深いところを温め直すみたいに——

 静かで、密やかで、それでいて確かな触れ方。

 その温度が、胸の奥の裂け目にまで沁みていく。


(誰……?)


 触れられた場所から、境界が溶けていくような感覚。

 どちらの鼓動が、どちらの息が、どちらのものなのか。


 分からなくなるほどの穏やかな一体感。


 二つの魂が、揺れて、溶け合った——

 そんな錯覚を覚えた。


「……っ、はぁ……」


 息が、深く肺を満たす。


 長い微睡みの底から、ゆっくりと浮かび上がる。


 目を開けると、そこには誰もいなかった。

 けれど。


 胸の奥に残る重み。

 肌に残る、かすかな温度。

 確かに、抱かれていた感覚だけが、消えずに残っている。


 セリウスは、無意識のまま小さく息を整え、もう一度、静かな眠りへと沈んでいった。



 数日後。


 朝の光は穏やかで、昨日まで頭の奥に残っていた靄も薄れ、セリウスの意識ははっきりとしていた。

 身体の感覚も、自分のものとして確かに戻ってきている。


 部屋にはエミリアとローワンが来ていた。

 二人を連れて来たシャルルは、別室でセリウスの容態について話を聞いている。

 二人が椅子を引き寄せ、学校での出来事や世間での噂話を彼に聞かせているうちに、時間は思ったよりも早く過ぎていた。


 扉がノックされ、ノエルドとシャルルが入って来る。


「セリウス。もう、家に帰って良いそうだ」


 シャルルの言葉に先に息を呑んだのは、ローワンの方だった。


「……本当に?」

「良かった……」


エミリアもローワンとほとんど同時に呟いた。


 教会との件はひとまずの着地を見せ、セリウスの意識も安定している。

 王宮に匿い続ける理由は、もうない。端的にそう告げられた。

 セリウスは一瞬だけ言葉を探し、それから頭を下げた。誰に、というより、この状況全てに対する謝罪だった。


「……申し訳ございません。また、面倒事を——」


「セリウス」


 名を呼ばれ、言葉を遮られる。

 ノエルドの声でもシャルルの声でもなかった。

 顔を上げると王弟が扉を開けて立っていた。


「元より、王族と教会の問題だ。そう言っただろう。何でも自分事にするとは……よほど傲慢なのだな」


 叱責のようでいて、突き放すでもない。

 だが、否応なしに気づいてしまう。

 その声音は淡々としていて、明確に“王弟”の様相をこちらに向けていた。かつて自分に向けていた、あの執着や独占欲を孕んだ視線も、見当たらない。


 距離が、ある。正しい距離が、きちんと引かれている。

 それは確かに望んだ形だった。なのに——胸の奥に、小さな寂しさが落ちる。


 ……なんて身勝手で分不相応な感想だろうか。


 アルヴェルの言葉を遮るように離れるべきだと線を引いたのは自分なのに。アルヴェルは一度も自分を強要した事はなかったのに、不本意とでもいうように「命じろ」なんて刃を向けて。

 それなのに自分ごときのためにその御身を危険に晒させてしまった。

 それでもなお、手放されたことに寂しさを覚えるとは。


(……なんて、傲慢なんだ)


 吐き気にも似た自己嫌悪が、喉の奥に引っかかる。

 不思議なのは、それでいて——胸の内には、ほうっと温もりが灯っていることだった。


 目の前のアルヴェルは、王弟としてそこに立っている。もう、自分を求めることはない。

 それでも、胸の奥深くには確かに彼がいるような、拭いようのない感触が残っていた。目を覚ましてから、ずっとだ。理由は、分かっている。分かってしまっている。


 あのとき。

 自分は、限界を迎えていた。

 崩れかけた“泉”に、最後に触れたのが——誰だったのか。

 この温もりは、自分のものではない。

 与えられたものだ。

 差し出されて、引き戻された、命の残り火だ。


 だからこそ——


 こんなにも、優しい。

 こんなにも、苦しい。


 手放したはずの人に、内側から繋ぎ止められているようで。


(……皮肉だな)


 望んだはずの終わりは、確かに訪れていた。

 距離も、戻らない。

 それなのに。

 その人によって、今も生かされている。


「セリウス。何か異変があれば、すぐ伝えよ」


 言い置いてから、視線をローワンへ向ける。


「よろしく頼む」


 ローワンに対しては、彼はほんの一瞬だけ表情が和らいだ。砕けたというほどではないが、確かに人の温度を帯びていた。


 アルヴェルがノエルドと共に部屋を後にしたあと、


「……今の、見ました?」


ローワンがぶるりと身を震わせて言った。


「怖い人だと思ってましたけど……あんな顔、できるんですね」


 肝の据わった少年の物言いに、シャルルが肩を揺らして笑っている。

 セリウスも倣うように笑った。


 胸の奥——力の根源のあるその場所は、静かに優しく温まっている。

 なのに、そのすぐ隣にあるはずの心は、相反するように、きりきりと痛んでいた。



 回廊に出ると、爽やかな風が頬を掠めた。久しぶりの日差しは、強さを増している。

 

「日除けが無かったね。少し待っていなさい、馬車に置いてあったはずだから持って来るよ」


「お父さま、私も授業が始まっちゃうから途中まで一緒に行くわ」


 エミリアは名残惜しそうにセリウスを見ると「またお屋敷の方に伺うわね」とにっこり笑って、シャルルの後を足早に追ってゆく。

 

「ローワンは今日、学校は?」


「僕は今日、午後からなんです。だから良かった。家までお供しますね」


「そう?良いのに……」


 シャルルを待つ間、回廊の影に佇んで、二人で他愛のない会話をしていると、向こうから、執務室へ向かうらしい国王アーサーの姿が見えた。


 セリウスはすぐに姿勢を正し、礼を取る。その少し後ろでローワンもセリウスに倣った。


「アルヴェルから聞いたのだな。よかった。気をつけて帰れ」


 アーサーはそれだけ告げ、通り過ぎようとした。


 だが。ふと足が、止まる。

 アーサーは振り返り、その視線が——まっすぐにセリウスの背後に注がれた。


 その目は確かに、ローワンを捉えている。


「……そなたは」


 少年は背筋を伸ばし、深く礼をした。


「お初にお目にかかります。私——ローワン・ランドフォードと申します」


 その名を聞いて、アーサーの表情は変わらない。

 だが、問いはすぐに続いた。


「……母の名は?」


 空気が、わずかに張る。


 セリウスの胸が、ひやりと冷えた。

 唐突すぎる問い。それでいて、偶然ではないと分かる響き。

 ちらりと見たアーサーの顔は穏やかだった。

 だが、何を考えているのかまでは読み取れない。


(今、出るのは——まずい)


 セリウスは一瞬、逡巡する。

 この問いの意味を、ローワン自身が理解していることも、分かっていた。

 だが、ローワンは一拍も置かず、はっきりと答えたのだった。


「リディアです。——リディア・ランドフォード」


 その名が、静かに回廊に落ちた。


 アーサーは、ほんのわずかに目を細めた。それは笑みとも、思案ともつかない、ごく短い沈黙。


「……そうか」


 それ以上、何も言わない。

 問いも、追及も、ない。

 ただ、ローワンを一度だけ見つめ、そしてセリウスへ視線を移した。


「……道中、気をつけるように」


 それだけ告げると、今度こそ踵を返し、執務室の方へと消えてゆく。

 遠ざかる背を見送りながら、ローワンは小さく息を吐いた。


「……心臓が止まるかと思いました」


 冗談めかした声。だが、額にはうっすらと緊張の名残がある。

 セリウスは、口を開いたが、結局何も言えずに曖昧に頷いた。


(……気づいた。確実に)


 あの問いは偶然ではない。

 それでも、アーサーは、何も言わなかった。


 ——今は、まだ。



 回廊を抜け、執務室へと向かう足取りは、いつもと変わらないはずだった。

 だが、胸の奥では、わずかな違和感がまだ消えずに燻っている。


 先ほどの少年——ローワン・ランドフォード。

 あの立ち姿、目の色、骨格。

 そして、口にした母の名。


 (……リディア、か)


 亡き父王の後妃。

 そして、記録の上では静かに消された存在。

 だが——消えたのは記録だけだ。


 セリウスが、その名に気づかなかったはずがない。それでも彼は、何も言わなかった。

 誰にも告げず、問いも立てず、ただ少年をそばに置いた。


 ——王族に戻すためではない。


 そう思い、アーサーは小さく息を吐いた。


 セリウスは、そういう人間だ。

 祝福を授かる力を持ちながら、それを誇示せず、厄災を引き寄せながら、それを他者に押しつけない。

 ローワンを“使う”という選択肢だって、なかったわけではないはずだ。だが、それは少年の人生を犠牲にし、同時にセリウス自身をも縛る。

 だから彼は、影にした。守りながら、押し上げることなく。少年自身が、自分の道を選ぶその時まで。


 (……あいつらしいというか、何というか)


 そして同時に、王としてはこれ以上ないほど信頼できる存在でもある。


 彼の一族にも不審な様子は見られない以上、今触れるべきではない。

 知ってしまったからといって、動いてよい種類の事実ではなかった。


 だが一つだけ、確かなことがある。


 (……教会に知られていないといいが)


 あれが表に出れば、少年は“人”ではいられなくなる。

 そして、セリウスも。


 アーサーは静かに目を閉じ、すぐに開いた。


 王は選ばねばならない。だが同時に――選ばないという選択もまた、王の責務だ。

 少年は、まだ名を持たない。

 その猶予を奪う理由は、今のところどこにもない。


「陛下、先ほどの少年……」


 コリンがそっと耳打ちをした。

 だが、アーサーはいつもの朗らかな表情のまま「良い」と一言だけ告げ、それ以上は続けなかった。


 (……まだ、動かす時ではない)


 そうして、何事もなかったかのように執務室へと入った。

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