不知の自覚
白亜の大聖堂は、昼なお薄暗かった。
高窓から差し込む光は祈りの文様を床に落とし、空気は香の残り香で重く満ちている。
その中央を、アルヴェルはただ一人、音もなく進んでいた。
教皇ラドクリフは玉座に腰掛け、長い白髪をきちんと撫でつけ、杖の先を床に預けている。老いてなお、その視線は鋭く、相手の内を抉るようだった。
「王弟殿下。ご足労、感謝いたします」
穏やかな声。
だが歓迎の色はない。
「教皇聖下のお招きとあらばお断りする理由はございません」
アルヴェルは一礼し、王族として過不足のない距離で立ち止まった。
ラドクリフは、わずかに口角を上げる。
「相変わらず、隙のないお方だ」
大聖堂に響くのは、遠くで鳴る鐘の余韻だけだ。
「さて——本題に入りましょう」
ラドクリフは杖を軽く床に鳴らした。
「御子セリウスの件です」
アルヴェルは、瞬き一つせずに応じる。
「王弟殿下が重傷を負われた折、御子の力が暴発し、一命を取り留めた。その代償として、彼は力の大半を失った——ここまでは、よろしいですね」
「ええ」
「問題は、その後です」
教皇は視線を細めた。
「枯渇したはずの器が、回復している。
しかも、ただ癒えているのではない。“力が戻っている”」
その言葉に、あえて重みを置いた。
「癒しの器は、枯れれば終わり。それが神の定めた理。それを覆すなど……王弟殿下は、ずいぶんと御子に“情をかけておられる”」
空気が、ひやりと冷えた。
だがアルヴェルは、眉一つ動かさない。
「——情、ですか」
淡々とした声で単語を繰り返したあと、ひとつ間を空けて答えた。
「御子は王国の民です。命を守ることに、理由が要りますか」
「ほぉ、守る、とな」
教皇の口元が、わずかに歪む。
「利用されている、の間違いでは?
御子は殿下の庇護を当然のように受け入れている。それが彼自身の意思なのか……あるいは、殿下の“情”を巧みに使っているのか。
——教会は、後者を疑っております」
一瞬、アルヴェルの瞳が細くなる。
だが、その声は静かだった。
「なるほど」
一歩も引かない。
「御子を裁く前に、まず私をお呼びになった理由が、それですか」
教皇は答えない。沈黙が、肯定の代わりだった。
「使節訪問の理由は、御子の保護でしたね」
アルヴェルは背筋を正したまま続ける。
「それが、いつの間にか“裁き”に変わっている。国王も私も、その点を不可解に思っております」
視線が、まっすぐに教皇を射抜いた。
「聖下、なぜですか?」
教皇はもう一度、繰り返した。
「……枯渇したはずの器が、回復している。ただ癒えたのではない。“力が戻っている”のだぞ」
「……それが、問題ですか」
「問題に決まっている。
癒しの御子は、力を使い果たせば終わりだ。その摂理を覆してはならぬ」
「摂理、ですか」
「王弟殿下——あなたが、『御子に触れたこと』。それが問題なのです」
ラドクリフの眼光が一層強められた。だが、王弟は躊躇なく答える。
「ええ、触れました。隠す理由がありません」
「ならば理解しているはずだ。力の還元は、無作為には起こらぬ。加護を与えた相手にしか、戻せない」
「つまり?」
じわりと、主導権が王弟に移っていた。
控えていた神官が固唾を飲む。
「王弟殿下。あなたは御子から加護を受け、その力を返した。それは“情”なくしては成り立たぬ行為だ」
「ベアラーに対しては、情と祈りは別物でなければならないのですか」
「当然だ。
御子は神具だ。そこに個人的な情を差し挟むこと自体が、神への冒涜だ」
「……なぜです?」
「なぜ、だと?」
前提を、真っ直ぐな眼差しが覆そうとしていた。
「なぜ、情を持ってはならないのです?なぜ、触れてはならない。なぜ、それが“罪”になる」
「王弟殿下」
「わかりません。答えてください、聖下」
愚かしいほどに、真っ直ぐ。
丸め込むことの出来ない問いに、教皇の背筋が粟立った。
「御子に情を向ければ、王族はそれに縋る。縋れば、依存する。
依存すれば、政は歪むであろう」
「“政”——でしたら、それは聖下が気にするところではない。今は神の話をしているのだから」
「……」
「聖下」と王弟は真っ直ぐに教皇を見据えた。
もう彼は気付いている。
教会が、教皇が、隠し続けていたことを。
「御子が枯れれば終わる、という前提が崩れた。それを恐れているのですよね?」
「違う。王弟殿下、あなたは気づいていないのだ」
「何に?教えて下さい、聖下」
「御子は使い捨てである。それが、世界の均衡だ」
「……なるほど?」
「王族が危機に瀕し、御子が命を削って癒し、やがて朽ち、それで終わり。
だがあの子は、父王とその妃、今回は殿下と、繰り返し利用されておる。いつまでも囲い続け、挙句にあれだけの力を放ったにも関わらず、復活したなど……。そなたたち王族は、あれをますます手放せなくなる。それが危険だとなぜ分からぬ。
現にあなたは今、あれをを手放せないでいる」
「私は、祈っただけです」
「情の間違いだろう」
王弟は一つ息を吐いた。それからもう一度、顔を上げる。茜色の瞳に威圧感はない。
「では、問います。御子が生きていては、いけないのですか」
「……王弟殿下」
愚かな王弟、と。
侮っていた。
「回復する可能性があると、困るのは誰です?」
だが今、その喉に刃を向けられているのは——
「御子が再生可能だと知られれば、王族は御子を“使い続けられる”。だから、教会は困る」
「……」
「論点を“情”にすり替えましたね。
聖具に触れたこと、神の持ち物に情を向けたこと、神への冒涜だと、そう言い張れば」
「黙りなさい」
「御子を裁けば、真実は閉じ込められる」
「王弟アルヴェル」
「違いますか?」
「……」
「聖下。あなた──が裁こうとしているのは、罪ではない。
“知られてはならない事実”でしょう」
こんな事、あって良いはずがなかった。
静かに息を吐く教皇に、王弟は静かに続けた。
「御子が、これまでどう扱われてきたか。
力を搾り、枯れれば切り捨てる。それを“当然”としてきたのが、王族であり、そして教会であったこと。私は、それを知った上でここに立っています」
それは、共犯者としての葛藤と覚悟の滲む言葉だった。
教皇の視線が、わずかに揺れた。
アルヴェルは、その沈黙を否定も肯定もしない。ただわずかに口元を緩めて言う。
「御子を使い捨てる時代を、そしてそれを神の名で正当化することを——そろそろ、終わらせる必要があるのではありませんか」
やがて——教皇は小さく、息を吐く。
力の抜けた笑みが、深い皺に沈んだ。
「……それは、理想論というものだな。
この国は、女神神話によって形作られてきた。民は拠り所を得、御子は管理されることで生き延びて来られた。……それが、教会の歴史であり責務でもある」
杖に手を添え、ゆっくりと言葉を続ける。
「殿下は教会が真実を隠匿していると仰いましたがね。ではなぜ隠すのかには、興味がないようだ」
教皇は肘掛けに預けていた杖を持つのとは反対の手で、頬杖をつく。
鋭かった眼光をほんのりと和らげて王弟を見下ろした。
「聖具の正しい扱い方を知らぬそなた等が、瀕死の御子を蘇らせてまで、己の繁栄のために尚も使役させる。その残酷さも知らずに理想を語るでない。
命拾いはしてもセリウスの器の軋みは戻らぬ。……一思いに死なせてやればよかったものを」
その言葉に、王弟は少なからず動揺した。
あのまま死なす事はしたくなかった。自分のために命を投げ出すなどさせるものかと。
別角度から殴られた、そんな気分だった。
教皇は王弟の瞳の揺らぎに気付いたが、彼が思考をまとめるのを待たずに更に続ける。
「だが教会は違う。
枯れる前に手を引く。壊れるまで酷使はせん。——だから“保ててきた”のだ、この均衡を。
王族は己の為に、あるだけ欲するが、我らは信仰の為に必要分だけを利用し、器が軋めばこれを保護する。
その違いが分からぬなら、口を挟む資格はない」
老獪な視線が、再びアルヴェルを射抜く。
「殿下。そなたは優しい。だからこそ厄介だ。
善意で壊す者ほど、止めようがない」
それは、静かな断定だった。
王弟はわずかに息を吐く。
「ですが、それを理由に手放すことは出来ない」
ゆっくりと顔を上げると、済ましていた王弟の仮面は剥がれ、彼の茜の瞳が一層燃えるように揺らめいた。
「王族は、自らの命で責を負うべきだと私は考えています。——あれの軋みも、その先も、私は引き受ける覚悟です」
揺らがない声だった。
「利用するつもりも、委ねるつもりもありません。
教会にも、王族にも……あれを、どこにも渡さない」
沈黙が落ちた。
やがて、教皇がくくっと笑った。
「……やはり、情ではないか」
呟きは、確信を帯びていた。
「アルヴェル殿下。そなたは御子を手放せぬ。——だが、王族でありながら、欲さぬか。……面白い」
その目が、わずかに細められ、低く、独り言のように漏らしてから、ゆっくりと椅子に背を預けた。
「——その執着が、王族の在り方を壊すならば……、王弟殿下の言が虚言でないのなら。
御子が、情に縋って王政を歪めているのでなければ……今回だけは様子を見ましょう」
杖の先が、床を軽く打った。
「だがもし、王政が揺らぎ、この国そのものが危うくなる兆しがあれば——その時は、容赦せん」
アルヴェルは、静かに一礼した。
「無論です、聖下」
顔を上げる。
その眼差しには、勝ち誇りも安堵もない。
「王政を危うくするつもりなど、ありません。
……ただ、生き延びる道を、増やしたいだけです」
教皇はその言葉を測るように、しばし黙考したのち
「いずれ、答えは出るだろう。御子が壊れるか、あるいは——」
そこまで言って、かぶりを振る。
結局、教皇は口角を上げ
「……やはり、厄介なお方だ」
とだけ濁した。
*
白い石の回廊を足音が反響する。
アルヴェルは、ふと歩みを止めた。
壁際に立つ一人の騎士が、視線を逸らそうともしなかったからだ。
切れ長の瞳。教会仕込みの、感情を削いだはずの眼差し——それでも、奥に澱が溜まっている。
「……なぜ、あの白いのを庇うのです」
吐き捨てるような声だった。
アルヴェルは振り返らない。
「御子は、教会の庇護下にあるべき存在でしょう。
ティアベアラーであるなら、なおさらだ。例外など、あってはならない」
続く言葉は、どこか焦げついたように硬い。
「役目を終えたのなら……あのまま死ねばよかった。
それが、御子の務めだ」
そこで初めて、ゆっくりと彼女の方を見た。
「……残酷だな」
低く、淡々と。
「生き延びたことを、罪だと言うか」
騎士は、わずかに唇を噛んだ。
「ティアベアラーは、死ぬまでその力を捧げる存在です。生きながらえたということは……その使命を、これからも背負い続けるということだ。
それを——王弟殿下は、勝手に……!」
声が、震えた。
「あなたは、選べたでしょう。王族として生きる道も、力を持つ道も。
私は……最初から、これしかなかった」
女であること。剣を取る理由。
居場所を得るために引き換えにしたもの。
すべてを飲み込んで、なお残った鬱屈が、白い影に向かって滲み出る。
「白い悪魔などと呼ばれても……あれは、庇われている。教会にも、王宮にも。
それなのに、まだ——」
言葉が、途切れた。
アルヴェルの視線が、正面から彼女を捉えたからだ。
微笑ですらない。
ただ、逃げ場を断つほどに静かな目。
「……そうか」
一歩、近づく。
「弱い立場にある者が、さらに弱い者を踏みにじれば、少しは楽になる。実に、人間らしい」
彼女の肩が、びくりと揺れた。
「だがな」
声は柔らかい。
その分、刃のようだった。
「そなたが剣を持てたのは、力があったからだ。生きづらさを、役割に変えられた。それを、誇りではなく呪いとして抱え続けているのは——」
アルヴェルは、わずかに首を傾げる。
「そなた自身の選択だ」
息を呑む音。
「セリウスは、何一つ奪っていない。そなたの居場所も、役目も、尊厳も」
視線が、深く射抜く。
「それでも憎いのなら、それは、“白い悪魔”ではなく——生き残ってしまった自分自身だろう」
騎士は、言葉を失ったまま俯いた。
話はそれまで。彼女は王弟が立ち去るのを、俯いたまま待っていた。
だが。
「気を悪くしたのなら、謝ろう。わたしもあの爺とやり合って、気が立っていたのだ」
王弟はクスッと笑った。
「それと一つ、疑問なのだが……ああ、答えにくければ答えなくてもよい」
先ほどまでの緊張した空気がふっと和らぎ、騎士は少し面食らった。
王弟は回廊の先、白昼の庭園を眺めている。
「そなた方は御子の力を見れると言ったが、御子同士で力を分け与えることはできるのか?」
単純な、ただの疑問なのだろう。
王弟の顔をじっと見ても、それ以上の意図は感じられない。騎士は少し躊躇いながら答えた。
「見えるだけです……。あれの放った力は、それを受けた者にしか戻せません。だから私は、分かったのです」
「なるほど……」
王弟は顎に手をやり、天を仰ぐ。自身の立てた仮説を答え合わせしている様だった。
「ちなみに、戻された形跡……とは、何か違いがあるのか?」
(なんだ、この人……?)
彼女は思わず心の中で呟く。
「うまくは……言えませんが、色のようなものが違うのです。本来は澄んだ色をしているのが……混ざり合って——勝手なイメージですが」
騎士の返答に、アルヴェルは微かに頷いただけで、表情には何の変化もない。
それでも、彼女には分かった。
——目の前の御仁は、今、確かに安堵している。
胸をよぎったのは、ほんの僅かな羨望だった。
それでも、何も感じていないふりをして。彼女もまた、何度もそうしてきたように、白昼の庭園へと視線を逃がした。
*
セリウスの部屋の扉を開けると、すぐに規則正しい寝息が耳に届く。
ただそれだけのことが、アルヴェルの心臓を優しく撫でる。
張り詰めていた糸が——ぷつりと切れた。
寝台の上。
長い睫毛を伏せ、穏やかな呼吸を繰り返すその顔を、しばし見下ろす。
「……まったく」
誰に聞かせるでもなく、息が零れた。
これのために。
この寝顔ひとつのために。
国も、教会も、神の理さえも相手取って立ったのだと思うと——
(……ああ、胃が痛い)
苦笑を含んだまま、静かに腰を下ろす。
起こさぬよう気をつけて、掛布を肩口まで引き上げてやった。
すると、その手に、そっと頬が寄せられる。
「……お前は、本当に……」
言葉は、そこで途切れた。
代わりに落ちる、深い溜息と、かすかな笑み。
ただ、生きて、眠っている。
それだけで、すべてが報われるような気がした。




