火種
近衛師団と王弟が大学校に踏み込んだ──イシュマエルの件は、瞬く間に貴族社会へ流れ込んだ。
だが最も人々の好奇心を刺激したのは、事件のさなか、辺境ランドフォード領の若君が近衛師団長と面識を持ち、直接言葉を交わしたという事実。
それだけで十分に刺激的だというのに、さらにその口から、ごく自然に“白い御子”の名が絡んだとなれば、それまで彼を「田舎貴族」と見下していた学生たちの視線は、露骨に変わった。
「……あいつ、何者なんだ?」
控えめで、目立つことを避けているように見えた少年が、いつの間にか“触れてはいけない場所”と繋がっている。
噂は尾ひれをつけて広がった。
あの田舎出身の新入生は王弟とも対等に話したらしい。
王弟の手を離れた白い御子が、現在はランドフォード領の若君を囲っているらしい。
噂は、信じたい形で広まっていった。
「おい、お前!」
本日何度目かの台詞が背中越しに投げられる。
さすがのローワンもため息をついて、ゆっくりと振り返った。
「何の用?」
今はそんな事より、セリウスの容態が気掛かりだった。
──噂話にされるような人じゃない。まして、彼の名を使って誰かが優位に立とうとするなど、論外だ。
目の前に、五人の学生。
肩章の色を見るに、上級生だろうことが分かった。
「あの噂、本当なのか?」
「どの噂?」
ローワンは僅かに眉間に皺を寄せた。
怒るのは苦手だ。
でも、不快だと示さねばこの手の人間は容易に線を越えてくる。
特に続く言葉を考えていなかった目の前の青年は口を引き結んだ。
(あとの四人は取り巻きか)
「僕、人を待たせているんだ。ごめんよ」
それだけ言って、ローワンはまた歩き出そうとした。
「モ……モルフォンド嬢とは、どういう関係なんだよ」
思いがけない方向からの問いに、ローワンは踏み出した足を宙で止めた。
「へっ?」
一拍遅れて、意味が追いついた。
モルフォンド──エミリア・モルフォンド。
その名を、ここで出すのか。
ローワンは、ゆっくりと視線を上げた。
五人の顔を、ひとりずつ見回す。
探るような目。
好奇心と、下卑た期待。それから──嫉妬心。
「……それ、君たちに関係ある?」
声は低くも高くもならなかった。
ただ、温度だけが消えていた。
「な、なんだよ。聞いてるだけだろ」
「御子の妹なんだろ?だったら──」
「だったら何」
言葉を、被せる。
声は決して荒げない。笑顔で静かに線を引く。
「彼女は、僕の大切な友人だ。それ以上でも以下でもない」
一瞬、場の空気が止まった。
取り巻きの一人が、気まずそうに視線を逸らす。
最初に声を上げた青年だけが、なおも食い下がろうとして──
「……ああ、もう一つ」
ローワンは踵を返しかけて、振り向いた。
「噂話をするなら、せめて当人のいない場所でやって欲しい。──その方が、まだ品がある」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
背後で、誰かが舌打ちする音がしたが、振り返らなかった。
(……面倒なことになった)
けれど、歩みは止めなかっま。
──セリウスが戻ってきたとき、こんなことで煩わせるわけにはいかない。
校舎の角を曲がれば、急に視界が開ける。
建物の裏側の石段の上。
エミリアがいつも通り、いつもの場所に座っている。
「あ、ローワン」
エミリアはローワンを視界に認めると、ほっとするように笑った。
「ごめん、遅くなった」
「うん、待ちくたびれてたとこ」
いつものわざとらしい拗ねた口調に、ローワンは自分の心が凪いでいくのが分かって、それと同時に、自分が思うよりも怒っていたのだと気付いた。
彼女の前では、理由もなく感情を抱え込めなくなる。でも今はそれが心地よかった。
「……何かあった?」
腰を下ろすなり、エミリアがそう聞く。
責めるでもなく、探るでもない。
当たり前のような気軽さ。
「え?」
「顔。ちょっと、疲れてる」
ローワンは一瞬きょとんとしてから、困ったように笑った。
「そんなに分かりやすいかな」
「うん。分かりやすい」
即答だった。
「……絡まれた?」
「まあ、ちょっとね」
言い淀むほどのことでもない、と言うように肩を竦める。
だが、エミリアは視線を逸らさなかった。
「噂?」
短い問いだった。
ローワンは、ほんの一拍だけ間を置いてから頷いた。
「うん。セリウスのことも、殿下のことも……色々」
名前を出した途端、エミリアの指先がわずかに強張る。
「……そう」
それ以上、詳しくは聞いてこなかった。
その沈黙が、かえってローワンの胸に引っかかる。
「大丈夫だよ」
無意識に、そう言っていた。
「別に、何もしてないし。変なことも言ってない」
「……それがね」
エミリアは、石段に置いた自分の膝を抱き寄せる。
「今は、“何もしてない”ってこと自体が、都合よく使われる時期」
ローワンは、思わず彼女を見る。
「気をつけて、って話」
視線は前を向いたまま、静かな声だった。
「ローワンは、たぶん無自覚だから」
「無自覚?」
「うん」
そこでようやく、エミリアはローワンを見た。
少し困ったようで、でも真剣な目。
「お兄さまの名前を、自然に出せる人。殿下と“知り合い”として扱われる人。それってね……もう、普通じゃないのよ」
ローワンは言葉を失った。
普通じゃない。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「……でも」
「うん、分かってる」
エミリアは小さく笑う。
「ローワンに、そのつもりがないのも」
だからこそ──その続きを、彼女は言葉にしなかった。
遠くで鐘が鳴る。
講義の始まりを告げる音。
「今はいい。今はね」
エミリアが立ち上がる。
「まだここは学校だから」
ローワンも続いて立ち上がりながら、胸の奥に残った言葉を反芻していた。
──まだ。
その一言が、なぜだか妙に重かった。
*
誰とも群れない高嶺の花──エミリア・モルフォンド。
その一族、モルフォンド家と縁を結びたい貴族は数多い。
王立大学校に通うヴィクトル・ヒューストンの父もその一人だった。
父の思惑は、エミリアに密かな想いを寄せていたヴィクトルにとって追い風だった。
必ず射止めてみせる。そう息巻いていたのは、ほんの数ヶ月前のこと。
だが、学年が二年に上がった頃から、風向きは変わった。
いつも一人でいたエミリアの隣に、決まって一人の学生がいる。
ローワン・ランドフォードだった。
突然現れたと思えば、距離は近く、あのエミリアが警戒していない。
それだけでも十分に焦りを覚えるというのに、追い打ちをかけるように、例の噂だ。
──ランドフォードの若君は、ただ者ではない。
ヴィクトルは、ついに堪えきれなくなった。
「父上。モルフォンド嬢に、変な虫がついています」
そう告げる声には、焦りと苛立ちが滲んでいた。
「ランドフォード男爵の子息です。最近やたらと彼女と親しい」
父は、ぴくりと眉を動かした。
「……ランドフォード?」
その名に、どこか引っかかるものを覚えたのだろう。
ヴィクトルの父は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、指を組んだ。
「調べてみよう。
ローワン・ランドフォードとは、一体何者なのかを」
その一言で、歯車は静かに、だが確実に回り始めた。




