Somnium(3)
「セリィィ!なんと、なんと言うことだ……!」
エルネストの張りのある声が部屋を満たす。
「明日もわからぬと思っておったが……ああ、お前は本当に……本当に、あのセリウスだな!」
厚い腕に抱きしめられ、セリウスは息を詰めながらも苦笑した。
「……ええ、あのセリウスです、先生。幻ではありませんから……どうか、少しお座りください。これ以上興奮なさると、今度は先生が倒れます」
「うむ、そうだな……!」
エルネストは渋々腰を下ろし、すぐさまセリウスの手首を取った。
脈を確かめ、瞳孔を覗き込み、包帯の具合を確かめる。
「……信じ難いが、脈も呼吸もだいぶ安定しておる」
その声音が、ふいに震えた。
「まったく……無茶をしおって。だが、よく生きて戻ってきた」
セリウスは視線を伏せた。
「……生きていて、よかったなどと。
──ですがこれで、まだもう少し、本来の役目を果たせます」
「セリィ!」
エルネストは即座に遮った。
「お前は王弟殿下の命を救った。それはよくやった。だが、陛下も王弟殿下もお前を蔑ろにしたいわけではない。分かるだろう……!」
震える肩に、そっと手が置かれる。
アーサーが一歩前に出た。
「よく戻ってきてくれた。……弟を救ってくれたこと、礼を言う」
顔を上げた瞬間、アルヴェルと目が合った。
夜の花街で見たのと同じ、感情を排した表情。
一瞬──どくり、と心臓が鳴る。
「ただ……一つ、伝えておかねばならぬことがある」
声の調子が、わずかに変わる。
「教会が、今回の件を“力の暴発”と見なし、ティアベアラーの保護管理について打診してきている」
「保護、管理……?」
室内の空気が、ひやりと冷えた。
「御子が力を制御できていないのであれば、こちらで保護しよう、と。……表向きは、そういう話だ」
どう思う、と問われる前に、答えはもう胸の中にあった。
理性は告げている。
従うべきだ、と。
それが最も波風の立たない選択だと。
だが、
「……お断り、します」
言葉は、驚くほど静かだった。
エルネストが目を見開き、アーサーの眉がわずかに動く。
「あれは、暴発ではありません」
声は揺れていない。
だが、アルヴェルの視線だけは、どうしても正面から受け止められなかった。
「私が……必要だと思ったから、使ったのです。
確かに、状況が状況だけに……必死で、自分でもあれだけの力が一度に出るとは思いませんでしたが……。でも、教会には」
それは、正しい言葉だった。だが──
本当の理由は、そんな綺麗なものではない。
役目でも、使命でもない。
ましてや、王宮のためでもない。
ただ──失いたく、なかった。
それだけだ。
もし、これまでも同じように力を使えていたのなら、父王も、前妃も、救えたのかもしれない。
それでもあの時自分を突き動かしたのは──醜いほどに個人的で、身勝手で、選びようのない衝動。
(あんなのは……)
思考は、そこで途切れる。
口に出すことは、決してできない。
出した瞬間に、すべてが崩れる。
セリウスは一拍置き、いつもの控えめな笑みを作った。
「……生きてしまった以上は、家で待っている家族を蔑ろにしたくないのです」
──ローワンを、見守ると決めた。
どれだけ胸の奥が焼け爛れていようと、
それだけは、果たさなければならない。
「……そうか」
短く、そう言った。
「なぁに、そう怖い顔するな。一応感想を聞いただけだ。これはあくまで教会から王宮への打診だよ。勝手に教会にでも連れて行きでもしたら、私がベルトラン侯に叱られてしまう」
アーサーは肩を竦めて冗談混じりにそう言った。
王弟も短く言って、薄く笑う。
「あとは任せろ」
「……ありがとうございます」
「巻き込んですまないが、体調が改善してもお前はまだ寝込んでいることにしておいてくれ。教会側がどこで何を見聞きしているか分からぬからな」
なんでもないことのようにさらっとアーサーは付け足すと、王弟と共に出ていった。
*
回廊に出ると、さすがに足音は二人分だけになった。しばらく無言で歩いたあと、アーサーが先に口を開く。
「……なあ、アル」
呼び方は、王としてではなく、兄としてのものだった。
「私はな、もう見たくないんだ。“王族の血を繋ぐための力”だの、“均衡のための必要経費”だのと称して、あれが削られていくのを」
アルヴェルは足を止めなかった。
だが、その横顔はわずかに強張る。
「……すみません」
「はは。謝らせたいわけじゃない」
肩を竦めながら、アーサーは小さく笑った。
「お前まで、そんな顔をするな」
救った方も、救われた方も。
揃いも揃って辛気臭い顔をしている。
性格はまるで違うくせに、こういうときだけ妙に息が合うのが可笑しくて、アーサーは思わず笑みを零した。
「私も……同じ気持ちです」
アルヴェルは静かに言う。
「幼い頃から見てきました。“役に立つ限り生かされる”存在として扱われる現実を」
わずかに視線を上げる。
遠い過去をなぞるように。
アーサーは、少しだけ目を細める。
「ならば、いい」
短く言って、歩調を緩めた。
「もう繰り返さない。ベアラーの力を、王家のために消費する前提を──終わらせる」
アルヴェルは、そこで初めて立ち止まった。
「……兄上」
一瞬、言葉を探し、それから静かに告げる。
「もし、御子を解き放つことが王権の弱体だと言われるなら……その非難は、私も引き受けます」
アーサーは、思わず小さく笑った。
「まったく……」
肩を竦めて、けれどどこか誇らしげに。
「やはり、お前は私の弟だな」
二人は、再び歩き出す。
その背中は、同じ方向を向いていた。
*
エルネストは椅子に深く腰掛けたまま、静かにセリウスを見ていた。
「しかし本当に……奇跡でも起きねば、回復などあり得なかったはずだ」
穏やかな声音だったが、その言葉には、長年医の道に身を置いてきた者の確信があった。
彼はやがて、かつての教え子の話を語り出した。
癒しの力を酷使し、自らの身体を削り、回復の術もないまま静かに命を落とした青年のことを。
セリウスは、ただ黙ってそれを聞いていた。
「……わかりません」
ぽつりと零れたのは、飾りのない言葉だった。
理屈では、何ひとつ説明がつかない。
自分の身体に何が起きたのかも、なぜ今こうして生きているのかも。
ただ──
眠りの底で感じていたものだけは、はっきりと残っている。
何度も、何度も。
誰かに名を呼ばれていたこと。
消えかけていた胸の奥に、繰り返し、光のようなものが注がれていた感覚。
切なくて、苦しくて。
抗うことすらできずに、ただ引き留められていた。
──昼は政務。夜は、ここで寝ずの番をしていた。君が倒れてから、ずっと。
ノエルドの言葉が、静かに蘇る。
(……なぜ)
本来、“力を入れる器”である自分にとって、その力の正体など、知る必要はなかったはずだ。
癒しとは何か。
枯れるとはどういうことか。
そして──枯れたはずのものが、なぜ再び満たされているのか。
今朝。
胸の中にいたあの人を、疑いようもなく──離したくない、と思ってしまった。
それは、幸福などではない。
錯覚だ。縋っただけだ。
自分が差し出した力に。その残滓に。
自惚れるな。
感情に任せて言葉を投げつけ、傷つけて。
選ぶことも、拒むこともせず、ただ逃げて。
──その結果は、どうなった。
王弟が倒れ、危うく命を落としかけた。
自分が関わらなければ、巻き込まれなければ、こんなことにはならなかった。
突き詰めれば──すべて、自分の未熟さだ。
(……最低だ)
生き残ってしまったことも。
それなのに、なお。
あの温もりを、恋しいと思ってしまうことも。
どれも、許されるはずがないのに。
「セリィ、どうした!? どこか痛むのか!」
エルネストの声に、はっとする。
「……いえ」
短く答え、首を振った。
「……今すぐどうこうというほどでは……」
「まったく」
エルネストは呆れたように息を吐く。
「昔からそうだ。そなたは、自分のことを後回しにし過ぎる」
ごつごつした手が、額に触れる。
「何かあれば、このおじじを頼りなさい」
その言葉に、胸の奥がわずかに緩む。
——それでも、生きている。
欲している。
まだ、ここにいる。
そしてその事実のすぐ傍に、あの人がいたことだけは、否定しきれなかった。




