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女神の国 1  作者: 大福駒子


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Somnium(2)

 温度のない目に見下ろされ、低い声で告げられる。


『──さあ、見せてごらん』


 その声音は淡々としているのに、逃げ場を許さなかった。指先は震えているのに、そうしなくてはいけない気がして、無意識のまま服の裾に手を掛けていた。


 次の瞬間。


 底知れぬ恐怖を引き裂くように、眩い光が差し込むと、誰かの手が、強くけれど確かに自分の手を掴んだ。


「行こう……!」


 引き寄せられ、走り出す。

 前を行く背中。

 柔らかな黒髪。

 強すぎる日差し。


 暗く怖い場所から逃げてきたはずなのに、光に満ちたこの場所もまた、肌を刺すように痛かった。


 その背中が振り返る。

 繋いだ手が震えていた。


「……なんで、あなたが泣いているの?」


 その問いに、彼は嗚咽混じりに答えた。


「ごめん。守ってあげるって言ったのに……」


 ああ、そうか。──あなたも、怖かったのか。



 (……あたたかい)


 長い、長い夢を見ていた。

 それが夢だったのか、遠い昔の出来事だったのか、もう判別はつかない。

 セリウスは、瞼の向こうに滲む光に、そっと意識を浮かび上がらせた。


「ん……重、……?」


 わずかに身じろぎをすると、夜明けの森に抱かれているような、懐かしい匂いがした。

 首元に、柔らかな感触。

 誰かの髪が触れて、くすぐったい。


「……で……殿下……?」


 驚いて、思わず上体を起こしかける。

 その拍子に、黒い頭がずるりと落ちそうになった。


 反射的に腕を回し、抱え込む。

 確かな重み。

 確かな体温。


 胸の奥に澱んでいた重さが、いつの間にか消えていることに気づいて、セリウスはしばらく呆然と天井を見つめた。

 腕の中に、規則正しい寝息がある。

 触れ合っている場所から、まだ微かに残る熱が伝わってきた。


 ──まるで、夢の続きのように。


 無意識のまま、そっとその髪に指を沈める。

 アルヴェルの匂いがした。


(……ここに、いる)


 確かめるように、撫でる。

 今この瞬間だけを、繋ぎ止めるように。


 それだけで、胸の奥が静かに満たされていくのを感じて──セリウスは、ふと我に返った。


 寝衣の身頃を整えようと手繰り寄せ、留め具に触れる。閉じようとして──右手の感触に、違和感を覚えた。


 指が、足りない。


 一瞬、思考が空白になる。遅れて、理解が追いついた。


 息が、詰まる。


 ──ああ。やってしまったのだ、と。


 アルヴェルを、危険に晒した。

 自分の未熟さで。


 視線を落とす。包帯の下、失われた指先は、もう戻らない。


 あのとき、もし──。

 想像は、あっけなく結論に辿り着く。


(……耐えられない)


 自分のせいで、彼が欠ける世界など。


 無意識のまま、腕に力がこもる。逃がさないように、確かめるように。


 ──それが、ひどく身勝手に思えた。


(……まだ、触れている)


 この温度を感じている。自分が。その事実が、ひどく不釣り合いに思えた。


 息をするたびに、胸が痛み、現実の重さが、遅れて身体に満ちていく。本来ならば、ここで終わっていてもよかった。ふと、そんな考えが浮かぶ。


 衝動ではない。冷静で、静かな判断だった。

 守るべき者は守れた。役目は果たした。ならば──それ以上、生きる意味が自分にあるのか。


 これ以上、取り返しのつかない思いを抱いてしまう前に──ここで終わっていれば。

 それは、きっと正しい結末だった。


 なのに。自分はまだ、息をしている。


(……どうして生きている)


 その問いに、答えはない。

 ただ。腕の中の重みだけが、現実としてそこにあった。


 セリウスは目を閉じる。


 このまま、もう一度意識が途切れてしまえば、それは──救いなのかもしれない。


 少なくとも。こうしてのうのうと、生き延びてしまった醜い自分を抱え続けるよりは……ずっと、ましだ。


「……ん」


 すぐそばで、かすかな声がした。

 アルヴェルが小さく身じろぎをする。

 黒髪が頬をかすめ、首元を撫で、セリウスの手の甲に触れた。


「……セリィ……?」


 眠りの底から引き上げられたような、掠れた声。

 黒い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。


 ──それだけで。

 さっきまで張り詰めていたものが、音もなくほどけていく。

 茜色の瞳が焦点を探し、やがて、こちらを捉えた。


 一瞬。


 それから、ほっと息を吐くように、表情が緩む。


「……よかった」


 たった、それだけの言葉で。

 胸が、大きく跳ねた。


(……ああ)


 ここにいる。

 生きている。

 触れられる距離にいる。


 安堵と──どうしようもない喜びが、胸の奥から溢れ出す。


 だがすぐに、冷たいものが絡みつく。


(違う)


 こんなふうに、感じていいはずがない。

 押し殺すように息を整えた。

 溢れかけた感情に、無理やり蓋をする。


 そうしているうちに、アルヴェルもゆっくりと身を起こした。額にかかった黒髪を払う、その何気ない仕草さえ、目を逸らしたくなるほど眩しい。


「……どこか辛いところは?」


「いえ」


 反射的に答えてから、言い切りすぎたと気づく。

 だが、アルヴェルは何も言わなかった。

 寝台から離れようとする気配に、セリウスも身体を起こす。

 胸元を整えようとして──指先が留め具に引っかかった。

 力が、うまく入らない。

 一度。二度。空を滑る指先。


 ──見られている。そう思った瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。


「……貸せ」


 静かな声だった。


 アルヴェルが、ためらいなく膝をつく。

 セリウスの手から留め具を取り上げ、慣れた手つきで留めていく。


 近い。


 息が触れるほどの距離。けれど──そこにあるのは、先ほどまでの安堵に綻ぶ表情ではない。


 整えられた呼吸。

 無駄のない動き。

 揺れを閉ざした視線。


 それはもう、完全に“王弟の顔”だった。


 指先はあたたかい。布越しに伝わる温度は、確かに優しい。だがそこにあるのは、労わりだけで、それ以上の何かは、一切含まれていない。


「……ありがとう、ございます」


 距離を測った声音になったと、自分でも分かった。

 唇を噛む。


 アルヴェルは、ほんの一瞬だけ視線を上げた。

 何かを言いかけて──やめるのが分かった。


「無理はするな。医師の許可が出るまで、動かないように」


 代わりにそれだけを告げて、立ち上がる。

 つい先ほどまで、胸の上にあった温度が、急速に冷えていくのが分かる。


「……殿下」


 呼び止めた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 何を言うつもりだったのか──分からない。だが無意識に、引き留めようとしていた。


(自分から線を引いたくせに、今更)


 胸の奥で、小さく笑う。

 アルヴェルは足を止めたが、結局振り返らなかった。


「……後で、また来る」


 事務的な声音でそれだけを残して、再び歩き出す。

 急いでいるようには見えないのに、逃げられたように感じてしまうのは、きっと自分のせいだ。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 その余韻が、胸に刺さる。


(……寂しい、だなんて)


 そんな感情が浮かんだこと自体が、許せなかった。

 距離を惜しむ立場ではない。最初から、そんな関係ではなかったはずだ。思い上がりも、甚だしい。


 ほどなくして、扉が再び開いた。


「……失礼します」


 ノエルドだった。


「セ、リウス……!」


 セリウスを見て、ほんの一瞬だけ安堵したように息をつく。


「気が付いたんだな。…良かった」


そう言って、ノエルドは室内を見渡し、「殿下……来なかったかい?」と問う。

 セリウスは小さく首を横に振る。


「先ほど、出られました」


 それだけ答えると、視線を落とす。

 胸元の留め具に触れかけて、また指が止まった。

 ノエルドは、その仕草を見逃さなかったらしい。一瞬だけ眉根を寄せ、それから小さく息を吐いた。


「……毎晩だ」


 独り言のように言って、額を指先で掻く。


「昼は政務。夜は、ここで寝ずの番をしていた。君が倒れてから、ずっと」


「……そうですか」


 曖昧な返事だった。自分でも、ひどく他人事のような声だと思った。

 怒られるだろうか。身構えたが、ノエルドの表情は変わらない。ただ、静かだった。


「すみません……」


 思わず零れた言葉に、ノエルドは即座に首を振る。


「殿下が決めたことだ。君のせいではない」


 きっぱりと言い切ってから、一拍置く。


「ただし」


 その一言で、空気が引き締まる。


「それがどういう意味なのかは──正しく、受け取ってほしい」


 視線が合う。

 ノエルドがこんな事を言うとは思わなかった。


「殿下は、“王弟として”そうなさった。同時に、“アルヴェルとして”もだ」


 セリウスの喉が、ひくりと鳴る。


「言っている意味、分かるだろう?」


「……」


「自分を罰することで、殿下を守っているつもりならそれは違う」


 ノエルドは、そこで言葉を切った。お前の考えている事などお見通しだと言わんばかりに彼は鼻で笑う。


「君は、生きろ、と言われたんだ。なら、せめて生きていろ」


そう言って、ノエルドは一歩引いた。


「身支度を。医官が来る」


 セリウスは、何も答えられなかった。

 ただ、胸元に残る、さっき整えられた布の感触を思い出していた。





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