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女神の国 1  作者: 大福駒子


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Somnium(1)

 セリウスに何らかの危険が及んでいると知れてから、すでに六日が経っていた。


 当然と言えば当然だが、まだ子どもであるローワンのもとには、何の正式な連絡も届いていない。

 それでも——北方視察に合流できなかったこと、近衛師団のみならず王弟までもが動いた事件であることは、瞬く間に王宮中に知れ渡っていた。

 噂は尾ひれをつけ、真偽の定かでない話ばかりが行き交う。ローワンはそれらを否定する術も、確かめる術も持たず、ただ胸の奥に不安を溜め込むばかりだった。


「ローワン、行きましょう」


 声をかけられ、はっと顔を上げる。

 促されるまま、モルフォンド侯爵とエミリアが待つ馬車に乗り込んだ。


 いつものコンコースを抜けると、王宮の白が視界いっぱいに広がる。回廊の壁は相変わらず眩しく、あまりにも整いすぎていて——まるで、見たくないものをすべて覆い隠すための白のようだった。

 通された部屋には、すでにシャルルたちが集まっていた。だが、肝心のセリウスは、まだ眠りから醒めていない。


「お父様……お母様……!」


 エミリアが堪えきれず、両親のもとへ駆け寄る。

 その背を一瞬見送ってから、ローワンは静かに立ち位置を選び、王弟アルヴェルが腰掛けている寝台の反対側に立った。


 室内は、ひどく静かだった。聞こえるのは、規則的とは言い難い、浅い呼吸の音だけ。


「……っ……」


 セリウスが、苦しそうに息を吐く。喉の奥で引っかかるような、短い呼気。

 ローワンの胸が、きゅっと縮んだ。


「セリウス様……」


 呼びかけは、ほとんど音にならなかった。

 それでも、その名を口にした瞬間、ローワンは初めて——ここに来たのだと、実感した。

 眠ったままの彼は、あまりにも静かで、その静けさが、ひどく怖かった。

 王弟の表情は、苦悶をひた隠すように伏せられている。

 ローワンは、すでにノエルドから事情を聞かされていた。王弟が身を挺して、セリウスを庇ったこと。その結果、瀕死に陥った王弟を救うため、セリウスが——限界を超えて力を使ったこと。

 理屈としては、理解している。

 誰かが倒れ、誰かが癒し、その代償を払った。

 話として聞けば、それだけのことだ。


 けれど心が、どうしても追いつかなかった。


 ローワンは、あの光に一度だけ触れたことがある。セリウスの掌から溢れた、やわらかく、あたたかな光。触れた瞬間、痛みよりも先に心がほどけて、怖さよりも安心の方が勝った、あの光を。


 ——まさか、それが。こんなふうに、命を削るものだなんて。


「……泉。溜め込めば溢れて荒れ、使い果たせば器が軋む……」


 思わず零れた言葉に、自分でぞっとする。

 あの日、教皇が口にした理論。

 では、軋んだ器はどうなる?答えは、どこにもない。


「ローワン、その言葉……どこで?」


 シャルルの声だった。


「君は、ティアベアラーのことを知っているのか?」


 穏やかだが、探るような響き。

 顔を上げると、王弟もこちらを見ていた。その視線は静かで、けれど逸らしようのない重さを帯びている。


「あ、いえ……この間のお祭りで。教皇が……」


「教皇と?話したのか?」


 問い返したアルヴェルの声には、単なる驚きとは違う色があった。


「た、たまたまです……本当に」


 だが結局、それ以上を追及されることはなかった。


「……どうして……こんなことに……」


 ヘレーネが、堪えきれずに呟いた。

 責める響きではなかった。ただ、行き場のない嘆きだった。


「どうして、この子が……」


 その声に、アルヴェルは眉間の皺を深める。

 そして伏せていた顔を上げ、眠るセリウスを見た。


 ——守ると、決めたはずだった。それなのに。

 あの日から何百何千と繰り返してきた言葉だった。


「母君……」


 アルヴェルが堪らず謝罪の言葉を口にしかけた、その瞬間。


「殿下」


 シャルルが、静かに制した。


「そのような真似は、他所では決してなさらぬように。王族が容易く頭を下げるなど、ましてご自身を盾にするなど——条理に反します」


 モルフォンド侯爵も、重ねる。


「セリウスも本望でしょう。モルフォンドの末裔として、そして御子として忠誠をまっとうできたのですから」


 正しさだけを並べた言葉。それが、この場を保つ唯一の理屈だった。


 だが、エミリアだけは違った。

 母にしがみついたまま、アルヴェルを真っ直ぐに睨んでいる。

 何も言わない。けれど、その目は、はっきりと責めていた。


 やがてアルヴェルは一礼し、静かに部屋を後にした。


 項垂れているわけではない。背筋は王族らしく真っ直ぐで、その歩みに乱れもない。

——その内側で、心が焼け落ち、砕け散っているなど、誰にも分からなかったが、瞳の奥に宿る疲労だけが、それをかすかに物語っていた。


 残されたローワンたちは、順にセリウスの手を取った。

 祈るしか、できなかった。

 ローワンには、彼を救える力などない。それでも、手を握り、声をかけることだけは、やめられなかった。


「……そろそろ、行きましょう」


 ヘレーネが、エミリアとローワンの肩にそっと手を置く。

 エミリアはまだ離れ難そうに泣いていたが、ローワンに促され、差し出された手を取った。


「セリウス様、必ず……もどってきてくださいね」


 ローワンは、もう一度だけそう言った。


 そのとき──セリウスが、うっすらと瞼を開いた。

虚ろな瞳が、何かを探すように揺れる。


「セリウス様……?」


「……ァ……」


 縋るように動いた指先が、宙で止まる。

 王弟殿下が座っていた場所。

 見えているのかどうかも分からない。けれどローワンには、はっきりと分かった。


 あの日も、あの時も。

 今と同じ、寂しさを堪えた、泣きそうな青い瞳をしていた。


 ──セリウスは、確かに彼を呼んでいた。


 回廊に出ると、随分前に退室したはずのアルヴェルが立ち尽くしていた。

 

「殿下も、少しお休みください。倒れてしまいます」


 モルフォンド侯爵が労わり、それぞれが頭を下げる。エミリアとローワンは手を繋ぎ、大人たちの後ろを歩いていた。


 ──そのまま、通り過ぎるはずだった。


 けれど、ローワンは足を止め、振り返る。


「あの、殿下」


 アルヴェルに向かって、はっきりと告げる。


「セリウス様が……殿下を探しています。お戻り下さい、早く」


 声をかけられ、弾かれたようにアルヴェルが顔を上げた。


 驚き。そして、それを「そうだ」と肯定される安堵。


「……承知した」


 ふっと息を吐き、小さく笑う。


 視界に映った、ローワンとエミリアが繋いだ手。

 その光景にほんの一瞬、目を奪われる。

 だがすぐに踵を返し、アルヴェルは、あの部屋へと戻っていった。



 回廊を引き返しながら、アルヴェルの視界には、先ほどの光景が何度も蘇っていた。


 小さな手と手。恐る恐る、けれど確かに結ばれていた指先。

 ローワンとエミリアは、どちらかが守る側で、どちらかが庇われる側という関係ではないのだろう。同じ不安を抱え、同じ怖さを知っているからこそ、互いを離さない。

 それは支配でも庇護でもなく、ただ「一緒に耐える」という選択だった。


(……あんなふうで、ありたかった)


 思ってしまった瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。


 かつての自分にも、あんな時代があった。

 幼い頃、恐怖から逃げるようにセリウスの手を引いたあの日。あの時の二人は、確かに同じだけ怯えていたはずだった。

 どちらが強いわけでも、守るべき存在でもなかった。


 なのに、いつからだろう。


 自分はセリウスを“導く者”になり、彼が縛られぬために"縛る者”になり、いつの間にか、彼の世界を狭める位置に立ってしまっていた。


(……絡め取っていたのは、俺の方だ)


 彼を守るという言葉で。

 王弟という立場で。

 責任と理性という鎖で。


 それでもなお、セリウスは微笑ってしまうのだ。

 弱って、苦しんで、それでも縋るように名を呼んでしまう。

 きっとあの日も……自分が妃を娶っても側に居ろと言ってしまえば、頷いたんだろう。だが実際は、不誠実な態度は取れないと言い訳をして、セリウスに言いたくもない言葉を言わせてしまった。


 部屋の扉を開ける前、アルヴェルはほんの一瞬、立ち止まった。

 どうせきっと。

 セリウスが助かろうと、助からなかろうと、自分は、いずれ離れるべきなのだ。


(だから、今だけは)


 役目を脱ぎ捨てて。

 たとえそれが、痛みから逃れるための依存でも、長く寄り添ったがゆえの錯覚でも構わなかった。

 欲でも、所有でも、恋ですらない。もっと原始的で、名を与えることすらできない衝動。


(生きてくれ)


 そばにいなくていい。手を繋がなくてもいい。

 もう二度と道が交わらなくてもいい。


 けれど生きていてもらわねば、困る。


 もらった命の分、贖わせて欲しい。

 聖なる奴隷の呪縛を解き、必ずやお前を自由にするから。


 誰にも奪わせやしない。

 誰にも傷つけられやしない。

 そんな未来を作ると、約束する。


 だからどうか生きて欲しい。


 アルヴェルは、静かに扉を開けた。

 寝台の上で、浅い息を繰り返す白銀の髪の青年を前にして、その願いだけを胸に抱いたまま、何も言わずに傍へと歩み寄った。


 寝台の脇に、静かに跪く。


 虚ろだった青の瞳が、ゆっくりとこちらを捉え──そこに、淡い安堵の色が宿るのを、アルヴェルは確かに見た。

 その表情に、胸の奥がほどける。

 微睡の中にいる彼が、今求めているのは自分ではないかも知れない。そこに若干の罪悪感は感じたが、時折薄目をこちらに向けて譫言のように「アル」と愛称で呼ばれると、どうでも良くなった。


 アルヴェルは慈しむように目を細め、差し出されかけた不器用な手指を、そっと迎え入れた。

 包み直すように、弱々しい指を柔らかく握り返すと、もう一方の手で額にかかる白銀の髪を払う。


 身を乗り出し、そっと額を重ねた。

 それは──祈るような仕草だった。


 祝福を捧げるかのように、額へ、閉じた瞼へ、鼻先へと、静かな口づけを落とす。

 頬を寄せると、アルヴェルの鼻先が、かすかに首筋をなぞった。


(……やはり、そうなのかもしれない)


 救われたい一心で、そう信じ込んでいるだけなのかもしれないが、それでも。


(溜め込めば溢れ……使い果たせば器が……軋む)


 あの少年の言葉が思い出される。


 彼を思って触れるたび、確かな応えがあった。

 触れた場所に、灯が点る。セリウスの肌であるはずなのに、まるで自分の内側に触れているかのような、境界のない感覚。

 そのたびに、セリウスはふう、と深く息を吐き、

苦しみを手放すような表情を見せる。


 アルヴェルは、彼の鼓動に最も近い場所へ頬を寄せ、そっと、その身体を抱いた。


(……力は、泉。)


 触れ合う箇所が、じんわりと溶け合い、その温もりが、セリウスの胸の奥深くへと届いていくのが分かる。

 それは──あの日、自分の中に流れ込んできた光を、もう一度、温め直し、彼へ還しているような感覚だった。


 ただ、穏やかで。

 ただ、愛おしくて。

 満ちていく。


 魂が、静かに触れ合うような温もり。


 ふと気づくと、セリウスの手が、アルヴェルの髪を撫でていた。

 その微かな重みと、確かな存在に、身を委ねるように。


「セリィ……。どうか……」


 アルヴェルは、静かに瞼を閉じた。










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