【Side-story】母子
事件がようやく幕を下ろした夜。
長く灯されていた緊張の火がようやく消え、寝室には静けさだけが落ちていた。
ソフィアは、縫い込まれたような深い安堵を胸に抱いていた。
母マリアが修道院へ送られた。
——その事実に悲しみよりも救いを覚えてしまうほど、彼女の呪縛は長かった。
王妃である以上、男児を求められる立場は変わらない。だが今のソフィアには、それすら霞むほど、自由になった心があった。
これまで、母に期待をかけられるたびに、本来の自分が分からなくなった。
押し付けられたソレイヴァン侯爵家の令嬢の役を、王太子アーサーの婚約者という肩書きをこそ、母は愛し見つめ続けていた。
彼女の娘、ソフィアとしてではなく。
マリアの供述内容を知りたいと言ったのは、ソフィアのけじめでもあった。
どこか歪んだ母親の愛情に気付いていながら、押しのけることも慰めることもしなかった自分への戒めだった。
母はかつて、父王の妃候補の一人であったこと。だがしかし、しがない男爵の娘など選ばれることもなく、母はその後若き日の父、ソレイヴァン家の子息と結婚した。
転機が訪れたのはそれからすぐのこと。
大水により多くの被害が王都を襲った。
父は聡明で合理的、そして何より言葉が上手く、復興を後押しした。気付けば誰もが知るソレイヴァン侯爵家となっていた。
母は自らが権力を持ったと錯覚でもしたのだろうか。男であればその野心は別のところで発揮できたのかも知れない。
(夢を叶えられなかった欲望を、背負わされていたのね……)
ただ一つ残るのは、王女の未来への不安。
もし子が望めぬままなら、廃妃となる日も遠くはない。
そうなれば、あの小さな手と離れ離れになるかもしれない。
そして——自分を“王”ではなく“夫”として守り続けたアーサーへの想い。
いつの間にかそれは、確かな愛情として胸奥に根づいていた。
にもかかわらず、アーサーはまだ彼女に触れようとしない。
それが怖かった。
冷たくされたわけではない。むしろ優しすぎるほど優しい。
だからこそ、愛が離れたのではないかと周囲に噂されれば、王妃の立場は簡単に揺らぐ。
ソフィアは、生まれて初めて王妃ではない“ひとりの女”として、身勝手な欲を抱いている自分に気づき、胸が締めつけられた。
「君も疲れただろう。もう休むといい」
黙り込んで思案していたソフィアに、アーサーが優しく腕をさすり、その手を離そうとする。
——その温もりが離れてしまうのが、寂しい。
ソフィアは衝動に突き動かされるように、彼の手を掴んだ。
驚いたのはアーサーの方だった。
「……苦しいのか?」
焦りをあらわにした声音だった。体調を案じているのが分かる。
「違います」
顔を上げられず、ソフィアはほんのわずかに瞼を伏せた。
言葉が追いつかない。
気持ちに形がないのに、胸の中の何か温かくて切ないものが先にあふれてしまう。
「また強がって。辛そうに見えるのに」
アーサーは掴まれた手とは反対の手で、そっとソフィアの顎を上げた。
その指先は優しくて、逃げ道を作らない。
「……これ以上、惨めな気持ちにさせないで下さい」
震える声で吐き出すと、ソフィアはためらいを振り払うように一歩踏み出し、アーサーの胸へ身を預けた。
大胆な行動のくせに、視線は泳いでいる。
「もう……どこに触れても、問題ありません」
言い切ったのに、まるで子どものように恥じらう表情。
その矛盾が、アーサーの胸に強く迫った。
アーサーは、何も言わなかった。
ただ一度、深く息を吐いてから──その頬に浮かんだ笑みは、ソフィアがこれまで見たどの顔とも違っていた。
王としての威厳も、夫としての慎重さもすべて溶けて、ただ一人の男としての、どうしようもなく幸福そうな。
その顔を、ソフィアは胸の奥がじんと熱くなるような気持ちで見つめた。
──この人は、こんな顔をするのだ。
彼の指先がそっと彼女の頬をなぞる。
触れられるたび、心配と遠慮で覆われていた壁が静かに崩れていく。
やがて。
二人の夜はようやく、本当の夫婦として深まっていった。
窓辺にかかった薄絹がほのかに揺れ、月光が静かに二人を照らす。
ソフィアの髪を撫でるアーサーの指は優しく、何度も確かめるように触れて──彼女もまた、いつになく素直にその腕へ身を委ねた。
夜は静かに、長く、優しく更けていった。
*
翌朝。
王宮の回廊を進む足取りが、どこか軽かった。
それに自分でも気づいているのか、アーサーは一度だけ咳払いをして背筋を正した。
食堂に入ると、すでにアルヴェルが席についていた。目の下には、隠しようのない濃い影。夜を越えた疲労が、そのまま居座っている。
「……おはようございます、陛下」
「おはよう。……昨夜は、ありがとう。遅くまで」
浮かれきった声ではない。
だが、どこか柔らかく、満たされた響きが混じっているのは否定できなかった。
アルヴェルは短く頷くだけだった。
その背後、窓辺ではソフィアがロサリアの髪を梳かし、その横でフローラが自分もとせっつく。
その光景を、アーサーは一瞬だけ目を細めて見つめる。
──守れた。
少なくとも、今は。その安堵が、胸の奥に静かに広がっていた。
「……セリウスの容態は?」
ようやく、そう切り出す。
「まだ意識は浅いままです。ただ、峠は越えました」
「そうか……」
アーサーはそれ以上、言葉を続けなかった。
心配がないわけではない。
だが、今は何もできないという現実も理解している。
アルヴェルは心の中で、小さく息を吐いた。
(……朝から、幸せそうな顔をされるのは少し堪えるが)
それでも責める気にはなれなかった。
この王が、どれほどの夜を一人で耐えてきたかを、弟として知っている。
セリウスはまだ、夢と現の狭間にいた。
*
その頃、王宮の奥。
書庫に近い執務室で、一人の文官が帳簿をめくっていた。
過去の贈答品を整理し、廃棄記録と照合するための、ありふれた作業である。
「……これは……?」
指が、ふと止まった。
国王宛。
立太子の数日前に届けられた贈答品。
危険物として、即座に廃棄処分とされた記録。
その寄贈元に、見覚えのある名があった。
──ソレイヴァン侯爵家
品目:葡萄酒
「おかしいな……」
文官は首を傾げ、隣の席の同僚に帳簿を差し出す。
「これ、侯爵家からって書いてあるんだけど」
同僚はちらりと目を走らせ、すぐに肩をすくめた。
「ああ、名を騙った嫌がらせだろ。よくある話だ」
「でも、わざわざ……?」
「だからこそだよ。国王宛てに堂々と書くなんて、本人が関わってるわけない」
そう言って、興味を失ったように欠伸を噛み殺す。
「危険物として処理されてるんだろ?なら問題ない。焼却炉行きだ」
「……そうだよな」
文官は、納得して帳簿を閉じた。
「おーい、これも一緒に回しておいてくれ」
「はいよ」
記録は重ねられ、箱に入れられ、淡々と運ばれていく。
疑問は、言葉にならないまま消えた。
真実は、誰にも触れられることなく、灰になる。
王宮の一日は、今日も何事もなかったかのように進んでいった。




