↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神の国 1  作者: 大福駒子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/80

【Side-story】母子


 事件がようやく幕を下ろした夜。

 長く灯されていた緊張の火がようやく消え、寝室には静けさだけが落ちていた。


 ソフィアは、縫い込まれたような深い安堵を胸に抱いていた。


 母マリアが修道院へ送られた。

 ——その事実に悲しみよりも救いを覚えてしまうほど、彼女の呪縛は長かった。


 王妃である以上、男児を求められる立場は変わらない。だが今のソフィアには、それすら霞むほど、自由になった心があった。


 これまで、母に期待をかけられるたびに、本来の自分が分からなくなった。

 押し付けられたソレイヴァン侯爵家の令嬢の役を、王太子アーサーの婚約者という肩書きをこそ、母は愛し見つめ続けていた。

 彼女の娘、ソフィアとしてではなく。


 マリアの供述内容を知りたいと言ったのは、ソフィアのけじめでもあった。

 どこか歪んだ母親の愛情に気付いていながら、押しのけることも慰めることもしなかった自分への戒めだった。


 母はかつて、父王の妃候補の一人であったこと。だがしかし、しがない男爵の娘など選ばれることもなく、母はその後若き日の父、ソレイヴァン家の子息と結婚した。

 転機が訪れたのはそれからすぐのこと。

 大水により多くの被害が王都を襲った。

 父は聡明で合理的、そして何より言葉が上手く、復興を後押しした。気付けば誰もが知るソレイヴァン侯爵家となっていた。

 母は自らが権力を持ったと錯覚でもしたのだろうか。男であればその野心は別のところで発揮できたのかも知れない。


(夢を叶えられなかった欲望を、背負わされていたのね……)


 ただ一つ残るのは、王女の未来への不安。

 もし子が望めぬままなら、廃妃となる日も遠くはない。

 そうなれば、あの小さな手と離れ離れになるかもしれない。


 そして——自分を“王”ではなく“夫”として守り続けたアーサーへの想い。

 いつの間にかそれは、確かな愛情として胸奥に根づいていた。

 にもかかわらず、アーサーはまだ彼女に触れようとしない。


 それが怖かった。


 冷たくされたわけではない。むしろ優しすぎるほど優しい。

 だからこそ、愛が離れたのではないかと周囲に噂されれば、王妃の立場は簡単に揺らぐ。

 ソフィアは、生まれて初めて王妃ではない“ひとりの女”として、身勝手な欲を抱いている自分に気づき、胸が締めつけられた。


「君も疲れただろう。もう休むといい」


 黙り込んで思案していたソフィアに、アーサーが優しく腕をさすり、その手を離そうとする。

 ——その温もりが離れてしまうのが、寂しい。

 ソフィアは衝動に突き動かされるように、彼の手を掴んだ。


 驚いたのはアーサーの方だった。


「……苦しいのか?」


 焦りをあらわにした声音だった。体調を案じているのが分かる。


「違います」


顔を上げられず、ソフィアはほんのわずかに瞼を伏せた。

 言葉が追いつかない。

 気持ちに形がないのに、胸の中の何か温かくて切ないものが先にあふれてしまう。


「また強がって。辛そうに見えるのに」


 アーサーは掴まれた手とは反対の手で、そっとソフィアの顎を上げた。

 その指先は優しくて、逃げ道を作らない。


「……これ以上、惨めな気持ちにさせないで下さい」


 震える声で吐き出すと、ソフィアはためらいを振り払うように一歩踏み出し、アーサーの胸へ身を預けた。

 大胆な行動のくせに、視線は泳いでいる。


「もう……どこに触れても、問題ありません」


 言い切ったのに、まるで子どものように恥じらう表情。

 その矛盾が、アーサーの胸に強く迫った。


 アーサーは、何も言わなかった。

 ただ一度、深く息を吐いてから──その頬に浮かんだ笑みは、ソフィアがこれまで見たどの顔とも違っていた。


 王としての威厳も、夫としての慎重さもすべて溶けて、ただ一人の男としての、どうしようもなく幸福そうな。


 その顔を、ソフィアは胸の奥がじんと熱くなるような気持ちで見つめた。


 ──この人は、こんな顔をするのだ。


 彼の指先がそっと彼女の頬をなぞる。

 触れられるたび、心配と遠慮で覆われていた壁が静かに崩れていく。


 やがて。

 二人の夜はようやく、本当の夫婦として深まっていった。


 窓辺にかかった薄絹がほのかに揺れ、月光が静かに二人を照らす。


 ソフィアの髪を撫でるアーサーの指は優しく、何度も確かめるように触れて──彼女もまた、いつになく素直にその腕へ身を委ねた。


 夜は静かに、長く、優しく更けていった。




 翌朝。


 王宮の回廊を進む足取りが、どこか軽かった。

 それに自分でも気づいているのか、アーサーは一度だけ咳払いをして背筋を正した。


 食堂に入ると、すでにアルヴェルが席についていた。目の下には、隠しようのない濃い影。夜を越えた疲労が、そのまま居座っている。


「……おはようございます、陛下」


「おはよう。……昨夜は、ありがとう。遅くまで」


 浮かれきった声ではない。

 だが、どこか柔らかく、満たされた響きが混じっているのは否定できなかった。


 アルヴェルは短く頷くだけだった。


 その背後、窓辺ではソフィアがロサリアの髪を梳かし、その横でフローラが自分もとせっつく。


 その光景を、アーサーは一瞬だけ目を細めて見つめる。


 ──守れた。

 少なくとも、今は。その安堵が、胸の奥に静かに広がっていた。


「……セリウスの容態は?」


 ようやく、そう切り出す。


「まだ意識は浅いままです。ただ、峠は越えました」


「そうか……」


 アーサーはそれ以上、言葉を続けなかった。

 心配がないわけではない。

 だが、今は何もできないという現実も理解している。


 アルヴェルは心の中で、小さく息を吐いた。


(……朝から、幸せそうな顔をされるのは少し堪えるが)


 それでも責める気にはなれなかった。

 この王が、どれほどの夜を一人で耐えてきたかを、弟として知っている。


 セリウスはまだ、夢と現の狭間にいた。



 その頃、王宮の奥。


 書庫に近い執務室で、一人の文官が帳簿をめくっていた。

 過去の贈答品を整理し、廃棄記録と照合するための、ありふれた作業である。


「……これは……?」


 指が、ふと止まった。


 国王宛。

 立太子の数日前に届けられた贈答品。

 危険物として、即座に廃棄処分とされた記録。


 その寄贈元に、見覚えのある名があった。


 ──ソレイヴァン侯爵家

 品目:葡萄酒


「おかしいな……」


 文官は首を傾げ、隣の席の同僚に帳簿を差し出す。


「これ、侯爵家からって書いてあるんだけど」


 同僚はちらりと目を走らせ、すぐに肩をすくめた。


「ああ、名を騙った嫌がらせだろ。よくある話だ」


「でも、わざわざ……?」


「だからこそだよ。国王宛てに堂々と書くなんて、本人が関わってるわけない」


 そう言って、興味を失ったように欠伸を噛み殺す。


「危険物として処理されてるんだろ?なら問題ない。焼却炉行きだ」


「……そうだよな」


 文官は、納得して帳簿を閉じた。


「おーい、これも一緒に回しておいてくれ」


「はいよ」


 記録は重ねられ、箱に入れられ、淡々と運ばれていく。


 疑問は、言葉にならないまま消えた。

 真実は、誰にも触れられることなく、灰になる。


 王宮の一日は、今日も何事もなかったかのように進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。