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女神の国 1  作者: 大福駒子


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 はっと、浅く息を吸い込む。


 胸が、うまく膨らまない。

 空気が肺まで届かず、喉の奥でつかえているような感覚に、思わず小さく、ひゅ、と音が漏れた。


 ガタリ、と音がして視界の端から影が現れた。


「……気がついたか?」


 低い声。

 聞き慣れたはずなのに、夢の底から引き上げられるみたいに、少し遠い。


 ぼんやりした視界の中で、アルヴェルがベッド脇に腰掛け、こちらを覗き込んでいた。

 逆光で表情は滲んでいるのに、視線だけがやけに近い。


「……で……ん、か……?」


 息を吸うとヒュッと音がする。

 喉が、口元が、思うように動かない。

 

 その呼びかけに、アルヴェルは隠しもしないほど大きく息を吐いた。

 張りつめていた何かが、音を立ててほどける気配。


 茜の瞳が滲み、目の下に濃い影が落ちている。


「……よかった」


 掠れた声でそう言って、アルヴェルは一瞬、視線を伏せた。

 何かを飲み込むような間。


 次の瞬間——彼は耐えきれなかったように身を屈め、ぽすん、と音を立ててセリウスの腹の上に顔を伏せた。


 重みはあるのに、どこか遠慮がちで。

 掛布越しに伝わる体温と呼吸が、ゆっくりと上下する。


 気付けば、すでに片方の手はアルヴェルの手で包まれていた。

 セリウスの指がその中で、かすかに震える。


(……いなくなってしまうかと思った)


 それが誰の思考なのか、もう判然としない。

 ただ、その感情だけが、確かにこの狭い空間に沈殿していた。


 二人はしばらく、言葉を交わさなかった。

 聞こえるのは、互いの呼吸の音だけ。


 セリウスの喉が、小さく鳴る。

 それを合図にしたかのように、とじこめられていた手を解き、迷うように空を彷徨って——

 おずおずと、アルヴェルの髪に触れた。


 力の入らない指先が、黒髪を梳き、耳の縁をなぞり、頬へと滑る。

 確かめるように、鼻先、まつ毛、唇へ。


 そこに「いる」ことを疑うみたいに、冷たい指が縋りつく。


 アルヴェルの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。

 だが彼は、セリウスの手を乱暴に止めることはしない。代わりに、包み込むように指を絡め、ゆっくりとほどいていく。

 静かに顔を上げると、セリウスの胸元に取り残された右手が見えた。

 分厚く巻かれた包帯。

 欠けた指。


 アルヴェルの眉間に、また深い皺が刻まれる。

 視線が、そこから離れない。


 守れなかった。


 その感情が、喉の奥に刺さる。


「……なか、…い……で……?」


 焦点の合わない瞳のまま、セリウスがぽつりと呟いた。

 言葉は柔らかく、頼りなく、熱を帯びている。

 

 アルヴェルは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


 胸の奥で、何かが大きく脈を打つ。それを悟らせまいとするように、喉の奥で息を殺す。


「……泣いてない」


 返した声は、低く、わずかに掠れていた。

 それ以上近づけば、簡単に崩れてしまうと自覚している音だった。


「……ごめ……さ、い……」


 謝る理由など、どこにもない。

 それでもセリウスは、そう言わずにはいられないように、息を漏らす。

 持ち上げようとした手が途中で力尽き宙を掴みかけた。その指先を、すぐに温かいものが包む。

 逃がさないようでいて、縛らない。

 引き寄せるのではなく、ただ“そこにある”だけの手。


 アルヴェルの手だった。


 影が落ちる。

 視線が合う。


 燃えるような茜色の瞳が、ひどく静かに、深く揺れていた。

 それを見た途端、セリウスの胸がきゅっと縮む。

 息が、詰まる。


 ——行かないで。


 言葉にならない願いが、吐息となって零れ落ちる。

 呼吸が浅くなり、胸が小刻みに上下する。


「……はっ……」


 苦しい。

 それを悟られるのが怖くて、セリウスは唇を噛み、息を整えようとする。


 アルヴェルが、一歩だけ距離を詰めた。

 息が触れるほど近く。

 視線を外すことすらできない距離。


 ——来ないで。

 ——来て。


 相反する思いが、胸の内で絡まり、ほどけない。


 アルヴェルの指が、セリウスの手を包んだまま、微かに力を込めた。

 ゆっくりと、抑え込むように息を吐き、瞼を閉じる。


 セリウスの瞼に、そっと、唇が触れる。

 奪わない、求めない、ただ確かめるだけの口づけ。

 唇が離れると、わずかな温度だけが名残のように残った。


 驚いてセリウスは目を見開く。

 しばらく瞬きを忘れたままアルヴェルを見つめていた。瞼に残る感触を確かめるように、ただじっと浅い呼吸を繰り返している。


「……」


 言葉は、もう形にならなかった。

 代わりに、喉の奥で小さく息が擦れる音がする。


 アルヴェルは、セリウスの様子を逃さず見ていた。

 焦点の定まりきらない視線。

 触れられることを拒まない、むしろ探すような指先。


 ——無自覚だ。

 それが、何より危うい。


 セリウスの指が、再びアルヴェルの衣を捉える。

 力は弱い。

 引き寄せるというより、ただ縋るだけの仕草。


「……あ……」


 短い吐息が零れた。

 それだけで、胸の奥がざわつく。

 アルヴェルはそのまま身を屈め、抱きしめるには近すぎて、離れるには近すぎる距離で、セリウスの肩口に静かに額を寄せた。


 それ以上は、何もしない。


 その選択だけが、この場に流れかけた“いけない何か”を、ぎりぎりで留めていた。


 そのときだった。


 触れ合っている場所から、じんわりとした熱が灯る。

 胸の奥に溜まっていた重さが、ほんの少しだけほどけた。


(……息が)


 呼吸が、引っかからずに下まで落ちていく。

 心臓の鼓動が、さっきよりも遅くなっているのに気づく。

 理由は分からない。

 ただ、彼がここにいるという事実だけで、身体が応えているみたいだった。


 アルヴェルの方も、僅かに眉を寄せる。

 温度が、混ざる。

 境界が、曖昧になる。


(……今のは……?)


 ほんの一瞬の違和感。

 けれど、考えるより早く、アルヴェルはその不思議な感覚を押し殺した。


 セリウスの、欠けた指が動く。

 震えながら、けれど確かに、アルヴェルの髪を撫でた。

 指先が黒髪をすべり、絡まる。


「見、て…」


 掠れた声。

 理性の綻びから零れ落ちた、あまりにも素直な言葉。

 アルヴェルの喉が、小さく鳴った。


(……これ以上は)


 理性が、はっきりと警鐘を鳴らす。

 今のセリウスは、危険だ。

 欲しい言葉を、欲しい形で、無防備に差し出してしまう。

 その弱さに、応えてはいけない。


「……休め」


そう言って、水色の瞳を手で覆う。掌を彼の睫毛が撫でる。素直に目を瞑ったようだった。


「……それでいい」


 アルヴェルは、そのまま静かに身を起こした。

 熱が、名残惜しそうに引いていく。

 ベッドの上で、セリウスの呼吸がゆっくりと整っていうのを確認して、アルヴェルはその額に、もう一度だけ、軽い口づけをした。

 今度は、祈りのように。


 眠りに落ちる直前、かすかな声が零れたが言葉にもならなかった。


 アルヴェルは、立ち尽くしたまま、その寝顔を見下ろす。

 胸の奥に残る熱を、無言で押し殺しながら。


 そして——

 何事もなかったかのように、踵を返した。


 扉を閉める、その直前。

 一瞬だけ、ただのアルヴェルの瞳が、揺れた。

 けれど一歩廊下へ出れば、先ほどまでの温度が、嘘のように遠くなる。

 アルヴェルは胸の奥に残る微かな熱を、そっと意識の底へ押し込めた。


「……もう、よろしいのですか?」


 控えていた侍従ノエルドが、低く問いかける。


「目が覚めた」


 それだけだった。

 余計な感情は、声に乗せない。

 ノエルドは短く頷く。


「では、私からエルネスト殿へお伝えいたします。

 殿下は——近衛師団長がお待ちです」


「分かった」


 外套を整える。

 指先に、かすかな震えが残っていることに気づき、アルヴェルは一度だけ強く拳を握った。


 振り返らない。

 扉の向こうにいる誰かの気配にも、縋らない。


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