【Bonus segment】アリス
彼女がまだ幼かったころ、故郷は“豊かな土”と呼ばれていた。
朝露を含んだ麦は風に揺れ、父が丹精込めて育てた薬草は村の誇りだった。
季節ごとに色を変える畑は、人々の暮らしを静かに支えていた。
──その日までは。
父は研究熱心な薬師だった。
土地をより実り豊かにするため、肥料の配合や薬草の品種改良に没頭していた。
ある日、その過程で生まれた液体を、彼は「失敗作だ」と言った。
少女は、父が珍しく硬い表情をしていたのを覚えている。
それは裏手の地中深くに埋められた。
だが、その日の午後、空は崩れた。
長雨だった。
土がそれを分解するより早く、雨水は地中を満たし、川へと流れ出た。
数日後、下流の村の畑が、静かに死んだ。
葉は黒ずみ、麦は実を結ばず、土はまるで息を止めたように固くなった。
川では魚が腹を上にして浮かび、酸えた臭いが漂っていた。
大人たちは「疫病だ」と囁き合った。
だが、少女だけは知っていた。
父の手が、震えていたことを。
母が夜通しすすり泣き、灯りを消さぬまま朝を迎えたことを。
そして──。
教会で祈る彼女の胸には、まだ幼さの残る、まっすぐすぎる信仰心が燃えていた。
(大地は、罪を許さない)
(穢した者は……裁かれなければならない)
信仰と正義は、彼女の中でいつも同じ形をしていた。
やがて父は領主に呼び出され、数日の後、“罪人”として処された。
村には「疫病として処理された」とだけ伝えられ、すべては表向き、収束した。
領主は、孤児となった少女を引き取った。
その手は優しく、言葉は穏やかで、疑う余地などなかった。
親を売った子どもを都合よく囲ったなどと、幼い彼女が思うはずもない。
「お前の父は、大地を穢した。だが、お前は違う」
「やり直せばいい」
そう告げて差し伸べられた手は、あまりにも温かかったのだから。
領主は、彼女をよく見ていた。
失敗しても、怪我をしても、その視線だけは逸れなかった。
「きみは素晴らしい子だ」
「私の、幸いだ」
底抜けに優しい瞳と甘い声に絡め取られ、彼女が彼を“父”と呼ぶまで、そう時間はかからなかった。
領主の娘として育てられる一方で、彼女の胸の奥には消えないものがあった。
──贖い。
父が穢した大地を、いつか自分が甦らせる。
その一心で、本を読んだ。
薬草学、化学、聖典、人体。
知識を得ることが、贖罪だと信じて。
やがて領主の後押しを受け、王立大学校へ進んだ。
だが、そこに立ちはだかったのは、「女」であるという壁だった。
机を奪われ、研究室から追い払われ、名誉ある講義の席は、当然のように与えられない。
(女だから、では終われない。目的は、ただひとつ──)
彼女は髪を切り、声を変え、名を偽った。
イシュマエルという“少年”になり、医官見習いの席を掴み取った。
それでも、目標に近づいている実感はなかった。
日々は灰色に積み重なっていくだけだった。
そんな折。
癒しの間に、ひとりの青年が現れた。
透き通るような銀髪。
澄んだ青の眼差し。
穏やかで、静かな気配。
聡明で、あのエルネストでさえ認める若き医師。
周囲が嫉妬することすら諦めるほどの存在感。
それでいて、鼻につくところのない、聖人のような人。
──セリウス。
彼が傷んだ花に触れ、その花弁が再び艶を取り戻す光景を、イシュマエルは見た。
その瞬間、胸の奥で、焼け付くような衝動が弾けた。
(……奇跡だ)
信仰の対象でしかなかった“恵み”が、
歩き、生き、微笑んでいる。
あの日、父の罪を暴いた自分を支えた炎が、再び灯る。
(この人の力こそが──大地を甦らせる、鍵になる)
それは信仰であり、執着であり、幼い正義が形を変えて残り続けた、埋火だった。
しかし、その聖人を知れば知るほど、イシュマエルはセリウスという存在の“綻び”に気づかされていった。
王弟殿下との、あまりにも近い距離。
あの事件で一度踏みつけられた彼の聖性は、王都へ戻った頃には、もはや祈りの象徴としては頼りないほどに摩耗していた。
ローワンという少年を見るその瞳に、かつてなかった柔らかな光が宿るのを見た時、イシュマエルの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
(違う)
その感情は、必要ない。
あってはならない。
(あなたは人間に堕ちてはいけない。)
その頃だった。
ソフィアの母、マリアが密かに接触してきたのは。
彼女の言葉は甘く、野心に満ち、そして──あまりにもイシュマエルに都合が良かった。
──セリウスの力を、王族の私情ではなく、“正しい場所”に戻せる。
イシュマエルは、迷わなかった。
彼女はマリアに協力し、「子宝の秘薬」を手渡した。
愚かな母親だ、と心のどこかで思っていた。
それを娘に与える前に、疑いもしなかったのだから。
ソフィアが死ねば、王弟は否応なくセリウスを手放す。
それでいい。
それが、正しい。
やがて、マリアが逃げ道を求めるようになっても問題はない。
かつて彼女が犯した“罪”を知っていると、そう告げるだけで十分だった。
*
「で?……結局あの女、喋っちゃったんだ?堪え性のない女」
まるで少年の容姿。
でも器に相応しくない言葉と禍々しい気配。
(声も…おそらくは容姿も、上手く細工していたのか)
王弟は扉のそばでヘリオスと少年が向かい合わせで座っている様子を静かに眺めている。
「そうかぁ、あともう少しだったのになぁ。残念。」
肩を落とすイシュマエルの表情は読めない。
気になって、王弟は言葉を投げた。
「マリアは何をあんなに怯えている?」
少しの間、沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、クツクツと込み上げるようにイシュマエルが笑い始める。
可笑しさを抑え込もうとするように、その肩が小さく震えていた。
やがて顔を上げる。
そこにあったのは、かつて少女だったアリスの──無垢さだけを丁寧に削り残したような、妖しく愛らしい笑みだった。
「あの女はね、父親からくすねた毒酒で自分が父王を殺したって、本気で思ってるの」
楽しげに、歌うように。
「王宮に、しかも国王に。
そんなもの、そう易々と口に入れられる訳ないでしょう?」
くすり、と喉を鳴らす。
「少し考えれば、わかりそうなものなのに」
──ああ、今ごろ。
あの女はどんな顔で怯えているのだろう。
ケラケラと、その笑い方だけ見れば子どもの様で。
「ほんっっとに莫迦な女」
あの日、父が断罪されたように。
正義のためならば、誰かが犠牲となることも“当然”なのだと。
幼い頃の「祈り」は、いつしか刃に変わっていた。
それに気づかぬまま──彼女は、楽しげに笑っていた。
*
後に、この取調べに同席していた者たちは口を揃えてこう語った。
あの少年──イシュマエルは、終始取り乱すことはなかった。
問いにはよどみなく答え、笑うべきところでは笑い、沈黙すべきところでは沈黙した。
自らの行為についても、後悔や弁解といったものは一切見せなかったという。
ただ、ひとつだけ例外があった。
ルーカス前男爵がすでに捕縛され、王都へ移送されていると告げられた、その瞬間。
それまで軽やかに言葉を弄んでいた彼の声が、ふいに途切れた。
視線が宙を彷徨い、唇がかすかに震えた。
「……嘘でしょう?」
それは、この場で初めて発せられた問いだった。
確認でも、挑発でもなく、ただ現実を拒むような声音だったと記録されている。
数歩、後ずさる。
椅子にぶつかり、体勢を崩し、それでもなお否定するように首を振った。
「……だって、あの人は……」
そこから先の言葉は、最後まで形にならなかった。
その後、彼は再び口を閉ざした。
取り乱したのは、その短い間だけだったという。
裁きは、粛々と下された。
動機は整理され、罪状は読み上げられ、情状酌量は認められなかった。
イシュマエル──本名アリスは、断罪された。
彼女が何を選び、何を失い、何を最後まで信じていたのか。
それについて語る者は、もういない。




