Distortio(3)
「……それで、父が」
イシュマエルの話には、常に父の存在があった。
学ぶ機会を与えてくれたこと。できることが増えるたび、とびきり褒めてくれたこと。医局で助手として働く今もこの先も、立派になって喜ばせたいという夢があること。
セリウスは静かに茶を口に運びながら、それを聞いていた。
(父子にしては……近いな)
そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。同時に、それを「哀れ」だと感じてしまった自分を恥じた。
だからだろう。本来なら飲み込むべき言葉が、するりとこぼれ落ちた。
「女性がなるのは……大変でしたでしょう」
言った瞬間、時間が一拍、遅れた。
しまった、と思う。これは踏み込むべき言葉ではない。まして、二人きりで口にしていいものではなかった。
イシュマエルの手が、茶器の上で止まる。眼鏡の奥の瞳が、わずかに揺れた。
「……気づいて、いたんですか?」
静かな声だった。けれど、その静けさが、礼拝堂の空気を冷やす。
「……いえ。ごめんなさい」
セリウスは、すぐに首を横に振る。
「言うつもりはありませんでした。ただ……」
一瞬、言葉を探してから続ける。
「無理をしてきたのだろうと、思っただけです」
それは取り繕いでも、弁解でもない。純粋な思いやりだった。
——だからこそ、危うかった。
礼拝堂の外で、風が葉を揺らす音だけが響く。
イシュマエルはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと息を吐く。
「……セリィは、優しいですね」
いつもの、柔らかな笑顔。けれど、その奥で、何かが確かに外れた。
「誰にも言われたこと、なかったんです。“大変でしたでしょう”なんて」
袖をつまむ指先が、わずかに震える。
「父は……僕を誇りに思ってくれていましたから。それで、十分だったんです」
セリウスは、それ以上踏み込まなかった。
否定もしない。慰めもしない。距離を保つ——それが、彼のやり方だった。今更だったが。
(……本当は、ここで席を立つべきだ)
思考の奥で、冷静な声が告げていた。
イシュマエルが女性であることを、セリウスは知っている。
自分が男であることも、当然、分かっている。
二人きり。人目のない礼拝堂。
理由は、数え切れないほどあった。
それでも、立ち上がらなかった。
危険を察して距離を取ること。誤解を生まぬよう、先回りして場を離れること。
それが「できる人間」だという自覚は、確かにある。
——だからこそ。
(……もう、いいか)
胸の奥で、別の声がした。
避けて、譲って、黙って、距離を測って。それでも踏み込まれ、期待され、神聖視され——失望される。
何を選んでも、誰かの罪になるのなら。今さら、自分だけが正しくあろうとするのが、ひどく億劫だった。
セリウスは、視線を落としたまま、何も言わなかった。
けれど。イシュマエルは、その沈黙を「拒絶」とは受け取らなかった。
距離が、ほんの少しだけ近づく。
胸の奥で、警鐘が鳴った。それでもやはり身体は動かない。
それを彼女はおそらく従順さと捉えたのだろう。うっとりと静かに微笑んだ。
「セリィ。こうして話せて、嬉しいです。……父以外で、僕を“そのまま”見てくれた人、初めてなので」
その言葉に、セリウスの胸の奥が、かすかに軋んだ。
気付いた時には──もう遅かった。
「………な、に」
急激な眠気が、まるで意識を底から掬い取るように襲いかかり、セリウスは抵抗する間もなくそのまま崩れ落ちた。
「……ああ、少し時間かかっちゃった」
頭の上から降りてくる声は、つい先ほどまで笑顔で向かい合っていた後輩のものだ。
ぼんやりと遠のいていく意識の中で、静かに撫でられた頬の感触だけは、妙に鮮明だった。
「本当に……美しいなぁ、セリィ」
恍惚とした熱。その表情を見る者は、いま誰もいない。
*
やがて、意識がぼんやりと水面に浮かんでくる。
瞼の裏が微かに揺れ、セリウスは目を開けた──が、声が出ない。
(……身体が……)
床に横たわっている感触はあるのに、体重が地面に落ちていない。浮いているような、沈んでいるような、奇妙な浮遊感だけが支配していた。
「あ、起きちゃいました?なるべく怖い思いさせたくなかったんですけどね……仕方ないか」
淡々とした声。イシュマエルは淡い苦笑すら浮かべていた。
(……振り向けない……なにを……)
「怖かったら目、瞑っててくださいね。すぐ終わりますから」
ふっと笑い、彼はセリウスの両腕を万歳させるように掴み上げる。
関節が引き伸ばされる感覚だけが、生々しく残った。
足元で、鈍い光がぬらりと揺れる。
刃物だ。
金属が石床を擦る、湿ったような音が、ズ……ッと、確かに聞こえた。
「重たいな〜……よいしょ。うまくやらないと……おっと」
担いだ瞬間、イシュマエルの身体が少し後ろへ持っていかれた。
斧が、がつん、と床へ落ちて大きな音を立てる。
「静かに、静かに……もぉ……」
声の調子は、いつもと同じ。だが、そこにあるものは決定的に違っていた。
「……なに、を……」
掠れた声が、喉を焼く。
(……なんて、私は愚かなんだろう)
「ねえ、セリィ。僕、本当はこんなことするつもりなかったんだよ」
刃を抱えたまま、イシュマエルは静かに笑う。
「でも、セリィが悪いんだ。最近のあなた、おかしいよ。まるで“人間”だ」
その瞳が、歪む。
「孤高でいなきゃいけないのに。王弟と親しくして、あんな子まで横に置いて……」
憎悪が、熱を帯びる。
「全部、あの通り魔のせいだ。辺境で何ヶ月も……。帰ってきたら、僕の“御子”が、すっかりただの人みたいになってるんだもん」
囁きは、甘く、狂っていた。
「何のために、僕がここまで守ってきたと思ってるの?僕には君が必要なんだ」
狂熱が頬を上気させ、言葉の端々に執着が滲む。
「セリィ、知ってる? 女神エルメリアはね、穢れた大地を癒すとき、自分の身体を分け与えたんだ。
僕も、故郷の土を蘇らせたい。そのためには……君が必要なんだよ」
刃先が、わずかに揺れる。
「完全に“人”になってしまう前にさ──」
空気を裂く音。
「僕のものになってくれる?」
振り下ろされた刃。
衝撃。
感覚のないはずの身体から、冷たい汗が滲み出る。
「う……っ、あ……!」
刃の下、白いものが床を転がった。
咄嗟に左手で右手を握り込むが、そこにあるはずの指の感覚が──なかった。
「ああ、失敗しちゃった!ごめんね、今度はもっと綺麗に……」
無邪気な声。再び、刃が振り上げられる。
そのとき──外で、何かが走った。
だが、イシュマエルは気づかない。
「……だ……れか……!」
掠れた声がようやく喉を抜けた。
その瞬間、刃を握る手に力がこもる。
「ああ、急がないと痛みが出ちゃうね。今度こそ、行くよ」
ダメだ──。そう思い、セリウスが目を瞑った直後。
イシュマエルの身体が、後ろから押し倒されるように大きく崩れた。同時に、影がひとつ飛び込んでセリウスの身体を覆い隠す。
刃の音が跳ね、空気が震えた。
「取り押さえろ!」
鋭い声と複数の足音が雪崩れ込む。聞き覚えのある響きだ。
──ヘリオスか。
近衛が動いてくれているとは。いずれにせよ──助かったのか、とどこか他人事のように思った。
けれど。
胸の奥から湧き上がってくる恐怖は、どうしても止められない。
その時──セリウスの視界を塞ぐ重みから、ふっと、懐かしい匂いが鼻先をかすめた。
「……あ……」
声にならない声が、喉の奥でほどける。
「ふ……っく、」
覆いかぶさった人物が、身じろぎして小さく息を詰めた。その振動が、直接、胸に伝わる。
「……ァ、ル……?」
名を呼んだつもりだった。けれど音になったかどうかも分からない。
痺れは、思ったより早く引き始めていた。恐怖が、薬の効きを削っているのだと、どこか冷静な自分が判断する。
その匂いに、ほんの一瞬、心がほどけかけ──同時に、気づいてしまった。血の匂いが、混じっている。
「っ……!」
胸の奥が、きゅっと縮む。
再び震えが押し寄せ、セリウスは無理に身体を起こそうとした。
視界の端で、白い外套が赤く滲んでいるのが見える。
「無事、か……?」
アルヴェルの声だった。
「早く!救護班を呼べ!急げ!」
「抑えろ!布を持ってこい!」
周囲が、一斉に動き出す。命令が飛び、足音が重なり、空気が張り詰める。
その中心で──アルヴェルは、こちらを見ていた。
「あ、あ……アル、嘘……」
言葉が、ばらばらに零れる。
「大丈夫だ。落ち着け」
そう言って、彼は笑った。いつものように。セリウスを見据える、いつものあの穏やかな目で。
息が、ひゅっと詰まる。
「……っ、ぁ……」
空気を吸おうとして、失敗する。胸が苦しい。
心臓の音だけが、やけに大きい。
「や……待っ……」
止めたいのに、何を止めたいのかも、うまく言えない。
気づけば、手が伸びていた。震えている。指先の感覚が、曖昧だ。
「必要ない」
低い声がはっきりと制する。
距離を取れ。踏み込むな。命令を待て。自分が何者か、忘れるな──でも。
目の前で、アルヴェルの顔から血の気がゆっくりと失われていくのだ。
「……セリィ?大丈夫だ、このくらい」
近くで呼ばれ、まつ毛に指先がかすかに触れた。
「……はは……」
苦しそうに、でも変わらず穏やかに。
「なんて顔……して、んだ……」
茜色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
逃げ場なんて、どこにもない。
返事をしなければ、と思う。
けれど、喉は、ただ震えるだけだった。
──脳裏に、白い少年が立っている。感情のない顔で、こちらを見ていた。
──ねえ、僕は、何がしたいの?
──何を、望んだの?
答えを探すよりも早く。
セリウスの胸の奥で、何かが、決壊した。
理由も、役割も、使命もない。
ただひとつ。
「……っ!」
ヘリオスが反射的に腕で目元を覆う。
光が、溢れた。
青白く、静かで、しかし抗いようのない光。
礼拝堂いっぱいに満ち、影という影を消し去っていく。
誰も声を出せなかった。
癒しとも、浄化とも、祈りとも違う。
それはただ──呼び戻すための光。
やがて潮のように引いていく。
と、同時に──セリウスの身体から力が抜けた。
「セリィ!!」
アルヴェルの叫びが、遠くで揺れている。
それを最後に、セリウスの意識は、静かに闇へと沈んだ。




