Distortio(2)
ルーカス領へ向かう道すがら、イシュマエルがふと手綱を緩めた。
「この先に、小さな礼拝堂があるんです。昔から旅人が休む場所で……少しだけ、休みませんか?」
穏やかな提案だった。
断る理由も、今のセリウスには見当たらなかった。
「……そうですね」
短く応じると、イシュマエルはほっとしたように笑う。
森を背にするように建つ礼拝堂は、確かにひっそりとしていた。石造りの壁には苔が這い、鐘楼も今は沈黙している。
二人は馬を留め、扉を押し開けた。
中は簡素だった。長椅子と祭壇、色褪せた聖画。外の光が高窓から差し込み、埃を静かに浮かび上がらせている。
「解放されているので、自由に使えるんです」
イシュマエルはそう言って、楽しそうに辺りを見回した。
「僕、お茶を淹れてきますね。ゆっくりしていてください」
軽やかな足音が遠ざかる。
セリウスは一人、礼拝堂の奥へ視線を巡らせた。
建物を包む木々が、外界を遮っている。そう感じてしまうほど、この場所は閉じていた。
(……静かだな)
あまりに静かで、耳鳴りすら際立つ。
こういう沈黙はいつもなら避けていた。自分の中の軋みを認めざるを得なくなるからだ。
──アルヴェル。
──あの言葉。
思考がそこへ触れかけたとき。
「お待たせしました〜!」
明るい声と共に、イシュマエルが戻ってきた。両手に茶器を抱え、少し弾むような足取りだ。
胸の奥に蠢いていた何かがスッと引いていく。
セリウスは息をついた。
屈託のない笑顔。昔から変わらない、距離の近さ。
だが、セリウスはふと、思う。
この後輩と、宮官寮や私的な場で二人きりになった記憶が、ほとんどないことに。
(……あれも、)
王弟の庇護のおかげだったのかもしれない。
今になって、ようやく気付いた。
「どうぞ」
差し出された茶器を受け取る。湯気とともに、花の香りが立ちのぼった。
ひと口含むと、舌の上で柔らかく甘みが広がる。余計な思考を、そっと撫でて連れ去っていくような味だった。
イシュマエルは向かいに腰を下ろし、楽しそうに話し始める。
医局の近況。最近覚えた調合。どうでもいい、小さな話題。
屈託なく、あどけなく。
──けれど。
笑顔が、ほんの一拍遅れることがある。
気のせいだと言い聞かせられる程度に。
セリウスは、それに気付いていながら、知らないふりをした。
*
エルネストは差し出された帳面を受け取ると、まず中身よりも文字に目を落とした。
──踊るような、癖のある筆跡。
行間はわずかに詰まり、筆圧は終始一定。
角ばるはずの画が、どこか不自然に丸い。
几帳面さと、奇妙な甘さが同居している。
「……」
ページを一枚、また一枚と繰る。
薬草の配合、蒸留の工程、温度管理。記述は正確で、基礎は確かだ。
──だが。
(この字……)
胸の奥に、微かな引っかかりが残る。
知っている。だが、頻繁に見る相手ではない。王宮医局の医師たちの筆跡は、嫌でも頭に入っている。それに該当しないということは──自分と日常的に言葉を交わす相手ではない、ということだ。
「教え子全員の字を覚えているほど、器用でも暇でもないがね……」
こめかみに親指を当てた、そのとき。
扉を叩く音がして、王弟アルヴェルが姿を見せた。
「お待たせしました」
「ああ。ちょうど見ていたところだ」
エルネストは帳面を閉じ、指先で表紙を軽く叩く。それをヘリオスが受け取り、無言のままアルヴェルへ手渡した。
「今、その筆跡を──」
「見たことがある」
被せるように言った次の瞬間、アルヴェルは踵を返していた。
「え、ちょ、殿下?」
ヘリオスが慌てて追う。
扉の外で控えていたノエルドも、反射的に顔を上げた。
回廊を進み、医局へ続く通路の手前。アルヴェルは迷いなく右へ曲がる。
「ここは……?」
小さな坪庭が現れた。
「セリウスの手入れしている場所だ」
そう言いながら、アルヴェルは庭へ踏み入る。柔らかな光が石壁に反射し、彼の姿だけが白く浮かび上がった。
つい先日まで、並び立っていたはずなのに、ヘリオスの目にはその背がどこか遠くに行ってしまったように見えた。
「……それで?」
ヘリオスは、距離を保ったまま探るように言った。
「……まさか、セリウス殿が犯人だと?」
その言葉に、アルヴェルは一瞬だけ視線をこちらに向け、それから小さく鼻で笑った。
「あれを、童顔だと思うか?」
からかうようでもあり、同時に──きっぱりと否定する声音だった。
アルヴェルはそのまま歩み寄り、坪庭の縁に片膝をつく。
ここは、彼が何度も足を運んだ場所だ。
セリウスが不在だった一年のあいだも。そして、王都に戻ってきてからも。
セリウスが戻ってきてから、少しずつ増えていった植物がある。
どれも珍しいわけではない。だが、配置に迷いがなかった。生育条件、日照、根の張り方。すべてが“正解”だけで構成された、無駄のない並び。
──それが、アルヴェルには引っかかっていた。
セリウスの庭は、もっと呼吸をしていたはずだ。
効率よりも感覚を優先し、気まぐれに空白を残す。手入れの行き届いた庭でありながら、どこか未完成で、柔らかい。
だが、最近増えた植え込みには、それがない。
名札もそうだ。最初から立っているものは、少し右に流れるたおやかな筆致。
新しい札は違った。均一で、整然としていて──なのに妙に浮いている。主張している、と言い換えてもいい。
管理は、もうセリウス自身がしているはずだった。
それなのに、誰かが“入り込んでいる”。
それも、勝手にではない。
許可され、迎え入れられた侵入だ。
アルヴェルは、植え込みに屈み、一本の札を抜いた。
乾いた音が、やけに大きく響く。
「……この字だ」
追いついたエルネストが、札を覗き込む。
一拍遅れて、医官ラシードも身を乗り出した。
エルネストの目が、わずかに見開かれる。
(やはり……)
踊るような癖。几帳面で、どこか甘さの残る線。
帳面に残されていたものと、寸分違わない。
「……先生」
ラシードが息を呑むのが、はっきりと分かった。
アルヴェルは振り返らずに言った。
「……エルネスト先生。イシュマエルは、今どこにいる?」
名を出した瞬間、空気が一段冷えた。
ラシードは一拍置いてから答える。
「……王立学校です。いま、授業の補助に入っている頃かと」
アルヴェルの指が、札を握る。
力を込めたわけではない。
ただ、逃がさないように。
アルヴェルは立ち上がり、静かに言った。
「……急ごう」
その背中を見ながら、ヘリオスはようやく理解する。
これは衝動ではなく、積み重ねの末に至った確信なのだと。
*
「本来なら、今日は補助が入るはずだったんですが」
授業の冒頭、担当教諭がそう告げた。
ローワンは、ふと顔を上げる。
(補助……)
同じ時間帯、同じ校舎。
エミリアの学年の授業と同じなら、来るはずの人物は一人しかいない。
つい先ほど、王都の門で見送ったばかりだ。
セリウスのすぐ隣に立っていた、あの人。
だが。教室の扉が開いた瞬間、ローワンの背筋は一気に強張った。
立っていたのはヘリオスだった。
以前に感じた飄々とした空気はない。
視線は鋭く、周囲を一瞥するだけで、場の温度を下げる。
胸の奥で、何かがはっきりと音を立てる。
イシュマエルが、いない。
それはただの欠席ではなく、決定的な「ずれ」だった。
教室がざわめく。
「医官助手のイシュマエルは?」
ヘリオスの声は低く、短かった。
教員が戸惑いながら答える。
「イシュマエルなら……今朝、体調が悪いと。今日は来ていませんが……」
その言葉が終わる前に、ローワンの中で何かが噛み合った。
嫌な予感。
あの距離感。
馬上で並んでいた二人の姿。
「……っ!」
椅子が大きな音を立てる。
(ヘリオス・ターナー?)
以前に感じた飄々とした空気はない。近衛師団長らしい佇まい。視線は鋭く、周囲を一瞥するだけで、場の温度を下げていた。
胸の奥で、何かがはっきりと音を立てる。
イシュマエルが、いない。それはただの欠席ではなく、決定的な「ずれ」だった。
教室がざわめく。
「医官助手のイシュマエルは?」
ヘリオスの声は低く、短かった。
教員が戸惑いながら答える。
「イシュマエルなら……今朝、体調が悪いと。今日は来ていませんが……」
その言葉が終わる前に、ローワンの中で何かが噛み合った。
嫌な予感。あの距離感。馬上で並んでいた二人の姿。
「……っ!」
椅子が大きな音を立てる。
「ターナー卿!」
気づけば、ローワンは立ち上がっていた。
「僕、見ました!少し前に…っ。──イシュマエル殿…セリウス様と一緒にいました!王都を出るところで……北方に向かうって……!」
教室の空気が凍りつく。
窓の外。いつの間にか、回廊に立っていた人物がいた。
ローワンは、迷わずその目を見る。逃げない。逸らさない。責めるようでいて、どこか挑むような視線。
──あんた。セリウス様に、もし何かあったら。
同じ赤い目をした男は、ローワンの視線を静かに受け止めていた。挑むようなそれでもなく、諭すようでもない。ただ、すべてを引き受ける者の目だった。
ローワンの胸の奥で、何かがぎり、と音を立てて収まる。
窓の外──白い外套が翻り、王弟の背は迷いなく消えていった。




