Distortio(1)
王都北側程近く。ルーカス領の旧邸は、すでに半ば廃墟のようだった。
迎えの者もなく、門も閉じられていない。
「……逃げる気もなしか」
ヘリオスが低く呟く。
広間の奥、窓辺の椅子に、前男爵は座っていた。いや──置かれていたと言った方が正しいかもしれない。
背は縮み、衣はだぶつき、かつての威厳は影もない。老いた姿が、やけに小さく、頼りなく見えた。
「ルーカス前男爵。王命により身柄を預かる」
名を呼ばれても、前男爵はすぐには反応しなかった。ただ、虚ろな目で宙を見つめ、しばらくしてから、かすれた声を漏らす。
「……アリスや……」
その名を呼ぶ声音だけが、妙に柔らかい。
近衛の一人が眉をひそめ、ヘリオスは思わず顔を歪めた。
「……気持ち悪ぃ」
隠しもしない本音だった。
「精神を病んでいるのか、単に耄碌しているのか……」
問いかけにも、前男爵は答えない。
代わりに、指先が膝の上を彷徨い、何かを探すように空を掻いた。
「アリス……お前は、どこに……」
愛しい者を求める仕草。それが親情なのか、それとも別の何かなのか。
ヘリオスは視線を逸らし、短く息を吐いた。
「……吐きそうだ」
断定はしない。だが、あまりにも“濁った”執着が、そこにあった。前男爵からは、結局何一つ有益な情報を得られなかった。だが、マリアの語った“医師の家”を手がかりに、ヘリオスたちは領内の捜索を進めた。
一年前の騒動で、当時の領主であったルーカスの娘婿は断罪され、領民の大半は土地を去り、今では隣接領の保護下に置かれている。
辿り着いた医師の家は、村外れにひっそりと佇んでいた。窓は板で塞がれ、扉は半ば朽ちている。
「……空き家、というより……」
誰かが言いかける。
「片付けられた、だな」
裏手に回ると、土に埋めるようにして隠された倉が見つかった。中には、薬草、鉱物、乾燥させた動物の臓物、蒸留器具。そして──明らかに、最近まで使われていた痕跡。
「……まだ、やってたな」
ヘリオスが顔をしかめる。
棚の奥から、数冊の帳面が見つかった。
簡素な装丁とは裏腹に、中身は詳細な調合法──毒と薬の境界線をなぞるようなレシピが並んでいる。
踊るような癖のある文字が、妙に癪に触った。
「奴隷を売って、その対価で材料と器具を揃えた……ってわけか」
低い声が、吐き捨てるように落ちる。
ここはもう、医師の家ではない。
人を売り、命を削り、欲を満たすための工房だった。
*
ヘリオス達数人の近衛によってルーカス前男爵が白き塔に収容された、その数日後のこと──。
セリウスは荷を簡単にまとめ、北方視察のために家を出る。その前に、と一度坪庭に立ち寄った。
徐々に強まってゆく日の光を受けて、草花は静かに揺れていた。
ひとつ息を吐くと土に触れ、指先に集中した。ぽうっと青白い光が淡く放たれ、草花はわずかに震えると、セリウスの胸の不快感も不思議と薄れるような気がした。
あの日のアルヴェルのあの言葉が、もうずいぶん昔のようだった。
胸の奥に溜まっていた息をそっと吐き、振り向いた、そのときだった。
「セリィ、どこかに行くのですか?」
声に、微かな弾みがあった。
医局に続く回廊に立っていたのは、イシュマエルだった。簡素な外套に、小さな荷。眼鏡の奥の瞳が、こちらをまっすぐに捉えている。
「ええ。これから北方の視察に」
セリウスはいつも通り、穏やかに答えた。
「とはいえ、家の者もこちらにおりますから。何日かおきに、王都へ戻るつもりですが」
家の者──その言葉が口にされた瞬間、イシュマエルの瞳が、ほんのわずかに細まる。
けれど、次の瞬間には、何事もなかったように微笑んだ。
「そうなのですね」
その変化を、セリウスは気にも留めなかった。
「イシュマエルも……その荷物。どこかへ?」
「はい。少し、里に用がありまして」
「この前も帰っていなかったかな」
医局で交わされた、何気ない噂話を思い出す。
「ええ。父がもう若くありませんので。心配で」
にこやかな声音だった。
(……年齢を考えると、そこまで高齢でもないはずだが)
一瞬、そんな考えがよぎる。
だが、セリウスはそれ以上、踏み込まなかった。
「あ、そうだ!」
イシュマエルが、思い出したように声を上げる。
「セリィ。以前、“時間をください”って言ったでしょう?まだ、一度もお茶をご一緒できていません」
「ああ……そうだったね」
セリウスは少し困ったように微笑んだ。
「このところ、立て込んでいて。すみません、また──」
「でしたら」
イシュマエルは一歩、距離を詰める。
「今日、これから少しだけでもいかがです?また、しばらくお会いできなくなるのでしょう?」
その言葉は、願いの形をしていた。けれど、どこか──逃げ道を塞ぐような響きもある。
セリウスは一瞬だけ考える素振りを見せ、結局、頷いた。
「……ええ。分かりました」
その返事を聞いた瞬間、イシュマエルの唇に浮かんだ笑みは、安堵とも満足ともつかない形をしていた。
王宮の正門前、広いコンコースに馬のいななきが響いていた。
昼休みの時間を縫って、ローワンとエミリアは駆け足で外へ出る。すでにセリウスは馬上にあり、目深に被った淡い外套が風に揺れている。
「セリウス様!」
ローワンの声に、彼はすぐ気づいて視線を落とす。ヴェールに包まれたその笑顔は柔らかい。でもやはり少し薄かった。
「二人とも。来てくれたんだね」
「もちろん……挨拶くらいは」
そう言ってローワンは一礼する。
その視線が、自然ともう一人の人物へ流れた。セリウスの馬のすぐ隣。同じように馬に乗り、わずかに身を寄せるような位置にいる青年。
──イシュマエル……?
「僕もちょうど外へ出る用事がありまして」
にこやかな声で、彼は言った。
「行き先も途中まで同じなので、ご一緒してもいいかと」
ローワンの胸に、ひやりとしたものが落ちる。
以前向けられた、あの視線。理由の分からない──けれど確かに向けられた、敵意に近いもの。
エミリアも、それに気づいたらしかった。セリウスを見上げ、それからイシュマエルへちらりと視線をやる。
「……お兄さま」
小さく呼びかける。
「その方、ずいぶん……距離が近くありません?」
言葉は柔らかいが、核心を突いていた。
セリウスは一瞬だけ瞬きをした。それから、困ったように微笑む。
「……そうかな」
以前なら。
この手の“近さ”には、必ず一歩引いていた。無意識のうちに線を引き、曖昧なまま受け流していた。
けれど今は。
「途中までだし、問題ないよ」
その答えは、あまりにもあっさりしていた。考える素振りも見せずに。
気にしすぎ、と言えばそれまでなのだろうが。
イシュマエルは、視線を外さない。その喜びを隠しもしない様が、妙にローワンの胸をざわつかせた。
「では、ご一緒に」
馬が動き出す。
エミリアは、去っていく二人の背を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……前に言ったこと、覚えてる?」
「どれ?」
「あの人、綺麗だって話」
ローワンは黙って頷く。
「でもね」
エミリアは、拗ねているのとは違う、どこか落ち着かない声音で続けた。
「なんだか作り物みたい。そう思わない?」
その言葉に、ローワンは返事ができなかった。
遠ざかる背中。
本来なら、誰よりも距離を測るのが上手かった人が──今は、測ることそのものを放棄している。
それが、ただ不安だった。




