白き塔
医局長エルネストに預けていた毒入りらしき果実酒は、奴隷輸出事件の積荷と共に、隣国へ渡ろうとしていたものだ。
その解析が終わり、アルヴェルは医局の奥──エルネストの私室を訪れていた。
室内は薬草と金属の匂いが混じり合い、いつもよりも静かだった。卓上には、例の果実酒の瓶と、もう一本、小ぶりな硝子瓶が並べられている。
「多少、粗さがあるがね」
エルネストは淡々と告げ、果実酒の瓶口を指先で軽く叩いた。
「酒の席というのは大抵、薄暗い。色も香りも誤魔化しが利く。素人じゃあ、まず気付かんよ」
指が離れると、酒の表面に張った薄い油膜が、ゆらりと波紋を広げた。
「イチイの抽出物に、ビターアーモンド系の成分を重ねている。即効性は抑えめだが、量と体調次第では確実に命を持っていく」
まるで天候の話でもするような口調だった。アルヴェルは何も言わず、その揺れを見つめている。
エルネストは、もう一本の小瓶を並べた。ソフィアの部屋から回収された、“秘薬”。
「こちらは、もっと単純だ」
瓶を傾けると、中の液体がとろりと光を反射する。
「イチイのみ。香油に見えるだろう。毒としては古典的だが……混ぜ物が少ない分、かえって誤魔化しやすい」
アルヴェルの視線が、二つの瓶の間を行き来する。
──積荷の果実酒。
──王妃の“秘薬”。
二度、同じ家門で。
二度、同じ系統の毒。
偶然、と切り捨てるには出来すぎていた。
「……関連なしとするには、無理があるな」
低く呟くと、エルネストがわずかに眉を上げる。
「殿下。こういうのはね、真実が一つとは限らない」
諭すように、だが慰める気配はない。
「たまたま似た毒だった、という可能性もある。だが──」
彼は二つの瓶を、指先で軽く寄せた。
「抽出の癖が同じだ。イチイの処理も、アーモンド系の扱いも。素人じゃない。だが、薬師ほど洗練されてもいない」
静かな断定。
「……錬金学の基礎だけを、かじった者の仕事だ」
アルヴェルの目が、細くなる。
「つまり……目的は別。だが製造には、同じ人間が関わっている──先生は、そう見ているのですね」
エルネストは答えなかった。ただ、静かに目を伏せる。
それで十分だった。
アルヴェルは、ゆっくりと立ち上がった。
「助かった。あとは、こちらで処理する」
「まったく……君はいつも結論が早い」
エルネストは肩をすくめ、ぼやくように続ける。
「くれぐれも気を付けなさい、殿下。王妃殿下に、これ以上余計な心労をかけぬように」
その言葉に、アルヴェルは珍しく小さく笑った。
「ああ。善処する」
だが、言葉とは裏腹に、足取りはすでに鋭さを帯びている。
部屋を出ると、壁にもたれて待っていたヘリオスが視線を上げた。
「どうだった?」
「決まりだ。……塔へ行くぞ」
「はいはい。殿下のお供なら、どこへでも」
軽口はいつも通りだったが、空気は重い。
白い塔で待つのは、ソレイヴァン侯爵夫人──マリア。
娘であり、この国の国母、ソフィア王妃を害そうとしたのか。あるいは、あの事件に巻き込まれただけなのか。
奴隷輸出事件の積荷。王妃の“秘薬”。
その二つを繋ぐ線の先に、誰がいるのか。
今日こそ、それを引きずり出す。
外気に触れた瞬間、アルヴェルは短く息を吐き、視線を前へ据えた。
*
白い塔──罪を犯した貴族を収容するための、城内でも異質な隔絶の場所。
牢と呼ぶには整えられているが、慰めはない。
質の良い寝具と最低限の世話を担う従者はいるものの、窓格子も、食器も、暖炉も、寝台の天蓋さえも存在しない。すべては、自害を防ぐためだ。
その部屋に座るマリアは、かつての気品を失い、やつれた頬に疲労の色を滲ませていた。
対するアルヴェルは、久しい再会にもかかわらず、表情を動かさない。年齢以上に鋭くなったその顔立ちは、確かに父王の面影を残している。だが、そこにあるのは父の温厚さではなく――噛みしめた苦味を、そのまま形にしたような険しさだった。
「ご足労を……おかけしました」
マリアは深く頭を下げる。
否定の言葉を繰り返すうちに、心はすでにすり減りきっている。
「母君──ソフィア王妃は、快復されました」
アルヴェルは前置きもなく、真っ直ぐに告げた。
マリアの肩が震え、潤んだ瞳が細かく揺れる。
「……よかった……本当に……」
その反応を見る限り、彼女が直接の下手人とは思えない。
一瞬、アルヴェルはそう感じた。
だが、続いた言葉が、空気を一変させた。
「では……まだあの子は──王妃として務めを果たせるのですね」
その声音だけが、不自然なほど冷たかった。氷片のような違和感が、部屋に落ちる。
アルヴェルの目が細くなる。ローブの袖の内で、指先がひそやかに動いた。
「──本題に入ります」
低く抑えた声が、床に沈む。
「一年前の“積荷の事件”を覚えておられるはずだ。その残存品を再調査したところ、王妃に用いられた毒と同一の成分が検出された」
アルヴェルは、逃げ場を与えぬように言葉を重ねる。
「ビターアーモンドとイチイ。抽出も精製も、同じ手口だった」
マリアの顔色が、目に見えて変わった。
「さらに言えば、あの積荷はあなたの父君の所持品であったという記録も残っている」
静かな声だった。だが、その静けさが、かえって残酷だった。
「あなたの姉婿に罪を押しつける形で、事件は処理された。記録も証言も、すべて彼一人に収束するように、実に巧妙に」
(少し、探ってみるか………)
アルヴェルはそこで一拍置いた。
「だが……あの積荷は、素人の仕事ではない。痕跡を消し、視線を逸らし、疑いを一方向へ流すには──それなりの力が要る」
低く、淡々と続ける。
「大きな権限を持つ者なら、それも不可能ではないでしょうね。たとえば……当時から政務と交易の双方に通じていた者、となれば」
視線が、ゆっくりとマリアを射抜いた。
「あなたの夫──ソレイヴァン侯爵の立場なら、なおさらだ」
マリアの顔色が、目に見えて変わる。
「ち、違います!夫は関係ない、父が……っ」
言いかけて、彼女は愕然と息を呑む。顔色が、目に見えて変わった。
唇がわずかに震え、何かを言いかけて止まる。
「っ……」
部屋に、沈黙が落ちた。
アルヴェルは何も言わない。詰め寄りも、促しもせず、ただ彼女を見据えている。その視線は冷たいのではない。逃げ場を測り、逃げ道が存在しないことを、静かに示しているだけだった。
「……ち、違います……」
ようやく絞り出された声は、ひどく掠れていた。
「……ちが……」
言葉が続かない。
マリアは、はっとしたように口を噤む。──言ってはいけない名が、喉元までせり上がっていた。
アルヴェルは、ほんのわずかに視線を伏せた。
(……十分だな)
「そうでした。ソレイヴァン侯爵ではなく、お父君……でしたね」
低く、静かな声だった。
「ここでは、取り繕う必要はありません」
その一言が、最後の支えを折った。
マリアはゆっくりと肩を落とし、視線を床に落とす。長い沈黙の末、マリアは噛み締めていた唇を緩めた。
「……私が」
それは、告白というより──長く閉じ込めていた記憶が、静かに溢れ出す音だった。
「私がソレイヴァン侯爵家に嫁いで、数年後の……ことです。出産のために……私は故郷ルーカスへ……戻っていたのです」
そこまで語って、彼女は一度、息を整えた。
「けれど……久しぶりに見た故郷は、以前の面影を失っていました。
あの季節なら黄金の秋麦が波打っているはずの畑は、ところどころ禿げ、領民の活気も……どこか沈んでいたのです。」
屋敷に帰り着いたとき、マリアは父の傍らに寄り添う少女を見たという。妙に近い距離で。
「聞けば、亡くなった医師の娘だと。医師は、凍害を防ぐため作物の品種改良や土壌研究をしていたらしいのですが……実際は分かりません。おそらく怪しげな“実験”を繰り返していたのでしょう。」
ある日、医師が失敗作を土に埋めた結果、土地が枯れ、流れ出た毒で魚や家畜にまで被害が出た。
「ルーカス領は女神信仰の強い土地柄です。人々はそれを“謎の疫病”“女神の祟り”だと震えていました。……でも、ひとりだけ分かっていた者がいたのです。医師の娘です。」
娘は、父の罪を領主であるマリアの父に告げた。
父は領地を救った英雄として彼女を迎え入れ、やがて“娘の代わり”のように可愛がった。
「そのとき、父は気づいてしまったのでしょうね。医師の家から押収した毒物が、“処分に困る厄介なもの”から、“売れば金になる宝の山”に変わると。」
マリアはそこで言葉を切った。
唇がかすかに震え、喉が動く。
「……ッ」
まるで、続きを口にすれば取り返しがつかないと知っているかのように。
「私も姉も……あの父が気味悪く、目を背けました。あの娘が父に気に入られ、家の“娘役”を務めるなら、それでいいとすら思ってしまった……」
それがそもそもの間違いだった。
「……あの子に再会したのは、ソフィアのため、子宝祈願をしに故郷のエルメリア神殿を訪れた時です。」
娘が世継ぎを産めない。そんなこと、あってはならない。
立派な王妃にするため、天塩にかけて育てたつもりだった。
完璧でなければならない。誰よりも。
マリアは少女に言った。
──男子が生まれやすくなる薬なんて、あるのかしら。
*
「私は藁にもすがる思いでした。……毒かどうかなんて、あのときの私は、考えようともしなかった。少し考えれば分かったはずなのに……彼女がどれほどの毒を作り続けてきたかなんて」
胸の奥の後悔が言葉の端々に滲む。
指先が白くなるほど握りしめられる。
マリアは、しばらく俯いたまま動かなかった。
ようやく口を開いたその声は、ひどく乾いていた。
「私は、あの子がどれだけ残酷か、最初から知っていた。けれど──」
そこで、言葉が途切れる。
唇がわずかに震え、次の音を拒むように固く結ばれた。
沈黙が、白い塔の部屋に落ちる。
重く、冷たく、許しのない沈黙。
アルヴェルは急かさなかった。
椅子の背に預けたまま、ただ彼女を見つめる。
──話は、整っている。
領地の荒廃。毒を生み出した医師。
その娘。父の歪んだ庇護。
どれも具体的で、生々しく、作り話の匂いはない。
だが。
アルヴェルの胸の奥に、微かな違和感が残っていた。
まるで──「ここから先を語れば、取り返しがつかない」と知っている者の沈黙。
彼は静かに言葉を落とす。
「……マリア殿。あなたの話は筋が通っています。ですが──まだ、伏せておられることがありますね」
マリアの肩が、ほんのわずかに揺れた。
顔は上げない。否定もしない。ただ、指先がきつく絡み合う。
やがて、かすれた声が漏れた。
「……私は、どうなるのでしょう?」
問いへの答えではない。
真実の続きを差し出す代わりに、処遇だけを問う声音。
それは覚悟というより、すでに罰を受け終えた者の諦念に近かった。
アルヴェルは、短く息を吐いた。
「その人物と、あなたがどこまで関わっていたか。そこが判断の分かれ目です」
視線を外さず、淡々と続ける。
「もし、王妃を害する意図があったとすれば──罪は、あなた一人のものでは済まない」
その言葉が、白い壁に反響する。
マリアの喉が、小さく鳴った。
沈黙が続く。
アルヴェルは、それ以上踏み込まなかった。代わりに、方向を変える。
「……その娘は、今どこに?」
問いは静かだが、逃げ道はない。
マリアは俯いたまま、ゆっくりと息を吸った。
「……アリスです」
返答ではない。
ほとんど、うわ言の様にしてマリアは言葉にする。
「童顔で……昔から、年齢より幼く見える子でした。父の傍にいた頃から、ずっと……」
そこで、続きを拒む沈黙。
アルヴェルは、確信する。
──マリアは、まだ何かを抱えているのだろう。それも、誰かに強いられた秘密ではない。自分自身を縛るための。
彼はそれ以上、追及しなかった。
白い塔の冷たい光の中、マリアはただ、罪の重さだけを抱えたまま座っていた。




