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女神の国 1  作者: 大福駒子


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42/80

イデア


 翌朝になっても、セリウスは起きてこなかった。


 ローワンが学校へ向かう支度を終えても、二階は静まり返ったままだ。

 ただ体調を崩しているだけなら、それでいい。

 けれど──昨夜の様子を思い出すと、胸の奥がざわつく。


 何も言わずに、ふっといなくなってしまってもおかしくない。

 そんな気配が、確かにあった。


(……考えすぎ、か)


 自分に言い聞かせるようにして、ローワンは屋敷を出た。


 学校の昼休み。

 いつもの場所で石の縁台に腰を下ろしていると、足音が近づく。


「ローワン」


 顔を上げると、やはりエミリアだった。


「やあ」


 エミリアは歩み寄るなり、少し大袈裟にため息を吐いた。


「ねえ。私たちがこんな顔してるの、やめない?」


 そう言って、ローワンの隣をぱしっと軽く払うと、勢いよく腰を落とす。


「……辛気臭いってこと?」


「そう。それ」


 ローワンは思わず苦笑する。

 思い違いかもしれないが、エミリアの令嬢らしくない雑な座り方に「気にするな」と言われているようで、少しだけ胸が軽くなった。


「お兄さまのこと、心配なのは分かるけれど。

 だからって、私たちまで一緒に沈む必要ないでしょ?」


「……うん」


 否定はできなかった。


「どうせ、聞いても今は何も言ってくれないんだし」


 エミリアはそう言って、空気を切り替えるみたいに、ぱちんと手を叩いた。


「あ、ねえ!」


 唐突な声に、ローワンは肩をすくめる。


「今日、ハーブ学の授業でね。実験があったから、若い医官助手が補助で来てたの」


「医官助手?」


「そう。それがね、すっっごく童顔なの!

 背も低いし、ほとんど私たちと変わらないくらいで。実際何歳くらいなんだろう…」


 その説明に、ローワンの頭に一人だけ顔が浮かぶ。


「……名前、聞いた?」


「聞いた聞いた。ええと――イシュマエル、だったかな」


「やっぱり」


 ローワンは頷いた。


「会ったことがあるよ。セリウス様の後輩の人だ」


 そう言うと、エミリアは目を丸くした。


「あら、知っているのね。じゃあ話が早いわ。

 ローワン、あの人どっちだと思う?」


(どっち……?)


 その一言に、ローワンははっとする。


 そもそも選択することもなく、自分は最初から「男性」だと決めつけていた。

 一人称が“僕”だったこと。

 医官助手という立場。


 ──きっと、無意識に。

 そのことに気づいて、少し恥ずかしくなる。


「……エミリアは、どっちだと思ったの?」


 問い返すと、エミリアは首を傾げた。


「いえ。だからどっちかなぁ〜って。」


 さらりと言われて、ローワンは内心で唸った。


 見た目だけで判断しているようでいて、彼女は、最初から可能性を閉じていない。

 あのチャームの時も。

 セリウスを兄としてでも御子でもなく、一人の人間として捉えようとした時も。

 エミリアの目は、いつも一段深いところを見ている。


 エミリアは、少し声を落として続ける。


「手が、とても綺麗だったの。

 薬草を扱う手なのに、指先がすごく繊細で……ちょっと、羨ましかった」


 言いながらエミリアは手のひらを胸の前でひらひらとさせる。


「そう?エミリアだって、十分きれいだよ」


 思ったままを口にすると、エミリアは一瞬きょとんとしてから、じっとローワンを見る。


「……お世辞が上手いのね」


 ローワンは答えず、ただにこっと笑った。

 予想外の態度に、エミリアは視線を逸らし頬をわずかに赤らめる。


「……もう」


 小さく呟いてから、彼女は咳払いをした。

 何気ないやり取り。

 けれどローワンの胸の奥には、静かな余韻が残っていた。


(……見ているものが、違うんだな)


 決めつける前に、立ち止まれること。

 名前のない可能性を、そのまま残しておけること。


 それはきっと、簡単なようで、難しい。

 ──気づかないふりをしていること。

 ──気づいてしまったこと。


 ローワンは、それをはっきりとは言葉にできないまま感じていた。



 強まる日差しとは裏腹に、王宮の回廊にはくっきりと影が落ちていた。

 石畳に刻まれる柱の影は鋭く、昼であるはずの空間に、夜の名残のような冷たさを残している。


 その最も深い影を切り取る回廊の角から、白い影が現れた。


 セリウスだった。


 日差しに弱い彼は、薄手のヴェールで花のような顔立ちをほとんど覆っている。

 それでも、白い睫毛に縁取られた淡い水色の瞳だけは隠しきれず、かえってその存在を際立たせていた。


「……ごきげんよう、セリウス殿」


 宰相は、数十歩手前で声をかけた。

 こうして個人的に話しかけるのは、これが初めてだった。


「政策が順調に運んでいると聞いている。北方視察も、そろそろなのだろう?」


 セリウスはすでにこちらに気づいており、静かに足を止めていた。

 一瞬、言葉を選ぶような間のあと、丁寧に一礼する。


「ありがとうございます。……とはいえ、私はほんのわずかな提案をしたに過ぎません。

 これから取り組まれる諸侯の方々にとっては、宰相様のお言葉こそが何よりの支えになるでしょう」


 抜けるような青空を思わせる声だった。

 曇りのない物言い。己を前に出さぬ慎ましさ。


 そのあまりの“清さ”が、宰相の胸に、かすかな違和感──あるいは嫌悪に近い感情を呼び起こす。


 だから、あえて踏み込んだ。


「……そういえば。セリウス殿、殿下の件は聞いているかね」


 淡々とした声音の裏で、視線は探るように彼を捉えている。

 セリウスは胸に手を当て、静かに首を垂れた。


「妃をお迎えになる件でしたら──はい。伺っております」


「そうか。ようやくだ。陛下も、さぞご安心なさるだろう」


 宰相は一息置き、言葉を選ぶように続けた。


「……君を守ろうとする動きが、これまでまったくなかったわけではあるまい」


 ヴェールの下の表情は読み取れない。

 だが、セリウスは迷いなく首を横に振った。


「いいえ。アーサー陛下も、アルヴェル殿下も……ただ、ティアベアラーという存在を哀れんだまでのことです」


 声は穏やかだった。

 そこには反発も、恨みもない。

 長い時間をかけて刷り込まれた理解だけがあった。


「私は、命をつなぐための一つの器に過ぎません。それにこの(なり)にも関わらず、弟のように扱って下さった──それは、光栄なことでした」


 宰相は、一瞬、言葉を失った。

 それは忠誠でも、自己卑下でもない。ただ、そういうものとして世界を受け取ってきた者の声音だった。

 セリウスは続ける。


「あの事件で王宮にご迷惑をおかけしたこともあり……お役に立てるならと戻って参りましたが、妃となられる方にとって、私の存在は、きっと心に留まるものでしょう」


 その瞳には、揺らぎがなかった。それは──自分を常に“余分な影”として扱ってきた者の静かな諦念。


「王国の政策を支えるためにも、しばらく王宮を離れるのが得策かと。北方視察隊に加わるつもりでおりますし、それが軌道に乗れば私がいる必要も、次第に薄れるはずです」


 柔らかな口調。しかしその選択は明確だった。

 殿下の傍を離れるという他ならぬ、セリウス本人の意志。

 宰相の胸に、小さな刺が残る。これまで自分は、この青年を警戒すべき存在と見ていた。

 “特別”な力と、王弟殿下との近しさゆえに。

 だが今、目の前にいるのは、誰より国と他人の心を慮り、自分の立場を最初に低く置く──あまりにも誠実な青年だった。


「……君は、誤解されやすい」


 気づけば、宰相はそう口にしていた。

 セリウスはわずかに目を見開き、それから控えめに微笑む。


「身に余るお言葉です」


 その笑みは、あまりにも澄んでいた。

 宰相はふと、自分がこれまで何を見落としてきたのかを悟る。


 ──この青年は。

 国に利用されるより先に、すでに自分から国へ身を差し出していたのだ。


「北方は乾燥する。これから暑くもなる。くれぐれも自愛なされよ」


 もっと早く、彼と話すべきだった。

 宰相は自嘲混じりに首を振り、歩み去った。

 セリウスはもう一度、丁寧に礼をして見送る。

 そして、再び歩き出した。


 清らかな御子。

 王国が必要とする偶像。

 その仮面を被ることに、彼はもう、何の疑問も抱いていない。

 自分は、清いままでいるべき存在だ。

 たとえ、その内側にどれほど濁った欲と、やり直すことのできない罪を抱えていようとも。


 回廊の影が、再び彼の足元を呑み込んでいく。

 白い悪魔は、もう微笑まなかった。



 ローワンが家に戻ると、セリウスはすでに書斎にいた。

 机の上には地図と帳面が広げられている。


「おかえり」


 顔を上げたセリウスは、いつもと変わらない微笑みだった。

 けれど──どこか、張りがない。


「話があるんだ。少し、座ってくれるかい?」


 促されて向かいに腰を下ろすと、セリウスは地図を指で押さえた。


「北方の領地を、視察しに行こうと思っている」


「北方……?」


「そう、ランドフォードの様な小さな領地が向こうは多くてね。私も北方は初めてだから、ランドフォードとの違いも知りたくて」


 それ自体は、セリウスらしい話だった。

 自分で考え、準備し、前に進む仕事。


 だからこそ、ローワンは首を傾げた。


「……行きたくないんですか?」

「え?」


 思いがけない言葉だったのか、セリウスは瞬きをする。


「どうして、そう思った?」

「セリウス様、仕事で評価されるの、嫌いじゃないでしょう」


 むしろ、好きだ。

 認められることそのものより、“自分が役に立つ”という実感を。


 一瞬の沈黙。


 セリウスは視線を地図に落としたまま、ふっと息を吐いた。


「……そう、見える?」

「はい」


 即答だった。

 セリウスは苦笑にも似た表情を浮かべる。


(ああ……)


 胸の奥で、何かが静かに音を立てた。

 行きたくないわけではない。仕事を放り出したいわけでもない。


(時々、この聡い子の視線から目を背けたくなるな……)


「……初めて行く土地だからね」


 理由としては、無難だった。


「緊張、しているんですか?」

「そうかもしれない」


 ローワンはそれ以上、踏み込まなかった。それが、セリウスの望む距離だと知っているから。それでも、最後にひとつだけ言う。


「もし……、もし全部嫌になったら」

「うん?」

「みんなで逃げましょう」


 彼の真意は分からない。

 けれどセリウスは、少しだけ目を細めて笑った。


「なんだい?それ」


 軽い調子で、セリウスは笑った。

 胸の奥がツキリと音を立てる。

 けれど、気付かないふりをした。


 ──逃げる、か。


 それは──御子がいちばん口にしてはいけない言葉だったから。


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