イデア
翌朝になっても、セリウスは起きてこなかった。
ローワンが学校へ向かう支度を終えても、二階は静まり返ったままだ。
ただ体調を崩しているだけなら、それでいい。
けれど──昨夜の様子を思い出すと、胸の奥がざわつく。
何も言わずに、ふっといなくなってしまってもおかしくない。
そんな気配が、確かにあった。
(……考えすぎ、か)
自分に言い聞かせるようにして、ローワンは屋敷を出た。
学校の昼休み。
いつもの場所で石の縁台に腰を下ろしていると、足音が近づく。
「ローワン」
顔を上げると、やはりエミリアだった。
「やあ」
エミリアは歩み寄るなり、少し大袈裟にため息を吐いた。
「ねえ。私たちがこんな顔してるの、やめない?」
そう言って、ローワンの隣をぱしっと軽く払うと、勢いよく腰を落とす。
「……辛気臭いってこと?」
「そう。それ」
ローワンは思わず苦笑する。
思い違いかもしれないが、エミリアの令嬢らしくない雑な座り方に「気にするな」と言われているようで、少しだけ胸が軽くなった。
「お兄さまのこと、心配なのは分かるけれど。
だからって、私たちまで一緒に沈む必要ないでしょ?」
「……うん」
否定はできなかった。
「どうせ、聞いても今は何も言ってくれないんだし」
エミリアはそう言って、空気を切り替えるみたいに、ぱちんと手を叩いた。
「あ、ねえ!」
唐突な声に、ローワンは肩をすくめる。
「今日、ハーブ学の授業でね。実験があったから、若い医官助手が補助で来てたの」
「医官助手?」
「そう。それがね、すっっごく童顔なの!
背も低いし、ほとんど私たちと変わらないくらいで。実際何歳くらいなんだろう…」
その説明に、ローワンの頭に一人だけ顔が浮かぶ。
「……名前、聞いた?」
「聞いた聞いた。ええと――イシュマエル、だったかな」
「やっぱり」
ローワンは頷いた。
「会ったことがあるよ。セリウス様の後輩の人だ」
そう言うと、エミリアは目を丸くした。
「あら、知っているのね。じゃあ話が早いわ。
ローワン、あの人どっちだと思う?」
(どっち……?)
その一言に、ローワンははっとする。
そもそも選択することもなく、自分は最初から「男性」だと決めつけていた。
一人称が“僕”だったこと。
医官助手という立場。
──きっと、無意識に。
そのことに気づいて、少し恥ずかしくなる。
「……エミリアは、どっちだと思ったの?」
問い返すと、エミリアは首を傾げた。
「いえ。だからどっちかなぁ〜って。」
さらりと言われて、ローワンは内心で唸った。
見た目だけで判断しているようでいて、彼女は、最初から可能性を閉じていない。
あのチャームの時も。
セリウスを兄としてでも御子でもなく、一人の人間として捉えようとした時も。
エミリアの目は、いつも一段深いところを見ている。
エミリアは、少し声を落として続ける。
「手が、とても綺麗だったの。
薬草を扱う手なのに、指先がすごく繊細で……ちょっと、羨ましかった」
言いながらエミリアは手のひらを胸の前でひらひらとさせる。
「そう?エミリアだって、十分きれいだよ」
思ったままを口にすると、エミリアは一瞬きょとんとしてから、じっとローワンを見る。
「……お世辞が上手いのね」
ローワンは答えず、ただにこっと笑った。
予想外の態度に、エミリアは視線を逸らし頬をわずかに赤らめる。
「……もう」
小さく呟いてから、彼女は咳払いをした。
何気ないやり取り。
けれどローワンの胸の奥には、静かな余韻が残っていた。
(……見ているものが、違うんだな)
決めつける前に、立ち止まれること。
名前のない可能性を、そのまま残しておけること。
それはきっと、簡単なようで、難しい。
──気づかないふりをしていること。
──気づいてしまったこと。
ローワンは、それをはっきりとは言葉にできないまま感じていた。
*
強まる日差しとは裏腹に、王宮の回廊にはくっきりと影が落ちていた。
石畳に刻まれる柱の影は鋭く、昼であるはずの空間に、夜の名残のような冷たさを残している。
その最も深い影を切り取る回廊の角から、白い影が現れた。
セリウスだった。
日差しに弱い彼は、薄手のヴェールで花のような顔立ちをほとんど覆っている。
それでも、白い睫毛に縁取られた淡い水色の瞳だけは隠しきれず、かえってその存在を際立たせていた。
「……ごきげんよう、セリウス殿」
宰相は、数十歩手前で声をかけた。
こうして個人的に話しかけるのは、これが初めてだった。
「政策が順調に運んでいると聞いている。北方視察も、そろそろなのだろう?」
セリウスはすでにこちらに気づいており、静かに足を止めていた。
一瞬、言葉を選ぶような間のあと、丁寧に一礼する。
「ありがとうございます。……とはいえ、私はほんのわずかな提案をしたに過ぎません。
これから取り組まれる諸侯の方々にとっては、宰相様のお言葉こそが何よりの支えになるでしょう」
抜けるような青空を思わせる声だった。
曇りのない物言い。己を前に出さぬ慎ましさ。
そのあまりの“清さ”が、宰相の胸に、かすかな違和感──あるいは嫌悪に近い感情を呼び起こす。
だから、あえて踏み込んだ。
「……そういえば。セリウス殿、殿下の件は聞いているかね」
淡々とした声音の裏で、視線は探るように彼を捉えている。
セリウスは胸に手を当て、静かに首を垂れた。
「妃をお迎えになる件でしたら──はい。伺っております」
「そうか。ようやくだ。陛下も、さぞご安心なさるだろう」
宰相は一息置き、言葉を選ぶように続けた。
「……君を守ろうとする動きが、これまでまったくなかったわけではあるまい」
ヴェールの下の表情は読み取れない。
だが、セリウスは迷いなく首を横に振った。
「いいえ。アーサー陛下も、アルヴェル殿下も……ただ、ティアベアラーという存在を哀れんだまでのことです」
声は穏やかだった。
そこには反発も、恨みもない。
長い時間をかけて刷り込まれた理解だけがあった。
「私は、命をつなぐための一つの器に過ぎません。それにこの形にも関わらず、弟のように扱って下さった──それは、光栄なことでした」
宰相は、一瞬、言葉を失った。
それは忠誠でも、自己卑下でもない。ただ、そういうものとして世界を受け取ってきた者の声音だった。
セリウスは続ける。
「あの事件で王宮にご迷惑をおかけしたこともあり……お役に立てるならと戻って参りましたが、妃となられる方にとって、私の存在は、きっと心に留まるものでしょう」
その瞳には、揺らぎがなかった。それは──自分を常に“余分な影”として扱ってきた者の静かな諦念。
「王国の政策を支えるためにも、しばらく王宮を離れるのが得策かと。北方視察隊に加わるつもりでおりますし、それが軌道に乗れば私がいる必要も、次第に薄れるはずです」
柔らかな口調。しかしその選択は明確だった。
殿下の傍を離れるという他ならぬ、セリウス本人の意志。
宰相の胸に、小さな刺が残る。これまで自分は、この青年を警戒すべき存在と見ていた。
“特別”な力と、王弟殿下との近しさゆえに。
だが今、目の前にいるのは、誰より国と他人の心を慮り、自分の立場を最初に低く置く──あまりにも誠実な青年だった。
「……君は、誤解されやすい」
気づけば、宰相はそう口にしていた。
セリウスはわずかに目を見開き、それから控えめに微笑む。
「身に余るお言葉です」
その笑みは、あまりにも澄んでいた。
宰相はふと、自分がこれまで何を見落としてきたのかを悟る。
──この青年は。
国に利用されるより先に、すでに自分から国へ身を差し出していたのだ。
「北方は乾燥する。これから暑くもなる。くれぐれも自愛なされよ」
もっと早く、彼と話すべきだった。
宰相は自嘲混じりに首を振り、歩み去った。
セリウスはもう一度、丁寧に礼をして見送る。
そして、再び歩き出した。
清らかな御子。
王国が必要とする偶像。
その仮面を被ることに、彼はもう、何の疑問も抱いていない。
自分は、清いままでいるべき存在だ。
たとえ、その内側にどれほど濁った欲と、やり直すことのできない罪を抱えていようとも。
回廊の影が、再び彼の足元を呑み込んでいく。
白い悪魔は、もう微笑まなかった。
*
ローワンが家に戻ると、セリウスはすでに書斎にいた。
机の上には地図と帳面が広げられている。
「おかえり」
顔を上げたセリウスは、いつもと変わらない微笑みだった。
けれど──どこか、張りがない。
「話があるんだ。少し、座ってくれるかい?」
促されて向かいに腰を下ろすと、セリウスは地図を指で押さえた。
「北方の領地を、視察しに行こうと思っている」
「北方……?」
「そう、ランドフォードの様な小さな領地が向こうは多くてね。私も北方は初めてだから、ランドフォードとの違いも知りたくて」
それ自体は、セリウスらしい話だった。
自分で考え、準備し、前に進む仕事。
だからこそ、ローワンは首を傾げた。
「……行きたくないんですか?」
「え?」
思いがけない言葉だったのか、セリウスは瞬きをする。
「どうして、そう思った?」
「セリウス様、仕事で評価されるの、嫌いじゃないでしょう」
むしろ、好きだ。
認められることそのものより、“自分が役に立つ”という実感を。
一瞬の沈黙。
セリウスは視線を地図に落としたまま、ふっと息を吐いた。
「……そう、見える?」
「はい」
即答だった。
セリウスは苦笑にも似た表情を浮かべる。
(ああ……)
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
行きたくないわけではない。仕事を放り出したいわけでもない。
(時々、この聡い子の視線から目を背けたくなるな……)
「……初めて行く土地だからね」
理由としては、無難だった。
「緊張、しているんですか?」
「そうかもしれない」
ローワンはそれ以上、踏み込まなかった。それが、セリウスの望む距離だと知っているから。それでも、最後にひとつだけ言う。
「もし……、もし全部嫌になったら」
「うん?」
「みんなで逃げましょう」
彼の真意は分からない。
けれどセリウスは、少しだけ目を細めて笑った。
「なんだい?それ」
軽い調子で、セリウスは笑った。
胸の奥がツキリと音を立てる。
けれど、気付かないふりをした。
──逃げる、か。
それは──御子がいちばん口にしてはいけない言葉だったから。




