【Side-story】王弟
それはまだ、父王フェルナードが健在だった頃のことだ。
王宮は華やかだった。
次期国王アーサーの成人を控え、国中から妃候補たちが集められていた。
回廊には絹の衣擦れと香が満ちていた。
祝福と期待に彩られたその空気の中、当時──アルヴェルはまだ十二歳。
そして、セリウスは十一歳だった。
セリウスは、いつもアルヴェルの少し後ろを歩いていた。
目立たぬようにしていても、確かに目を引く存在。
白銀に輝く髪と、透けるような肌。
人の視線を集めながらも、どこか「物」のように扱われるその気配を、アルヴェルはうまく言葉にできずにいた。
ただ──嫌だったのだ。
大人たちが、彼を見る目が。
好奇と、値踏みが混じった視線。
それらが彼に向けられるたび、胸の奥がざらりとする。
だからアルヴェルは王族教育が始まる頃になってからも、セリウスを自分のそばに置き続けた。
継母に慣れないからとか、年の離れた兄が自分を置いて大人になってしまうからとか、理由など、後からいくらでもつけられた。
父王も兄も、それを咎めなかった。
──あの頃の自分は、何も知らなかったのだと、今なら分かる。
王宮という場所が、どれほど静かに、危ういものを抱え込むのか。
権力と血筋と信仰が絡み合う場所で「守られている」という状態が、どれほど脆いものなのか。
その日も、いつものようにセリウスを探していた。
兄の教育に付き合わされる合間、彼にとって息ができる場所は、あの少年のそばだけだった。
──けれど。
「……セリウス?」
返事がない。
控えの間にも、中庭にもいない。
(すぐ終わると言ったのに………)
妙な胸騒ぎがして、足が勝手に早まった。
回廊の向こう、セリウスの父君が駐在する医局の手前側、薬草庫に続く半地下の小部屋。彼は時折そこで書物を読んでいた。陽を避けるように造られたその部屋は静かで、もしかしたら彼はそこにいるのかも、とアルヴェルは急いだ。
階段を下りる途中で、彼は低く押し殺した声を耳にする。
声の主は、セリウスではない。
「……怖がることはない。君は特別なんだから」
アルヴェルは、その声を知っていた。父王の弟──叔父にあたる男のものだった。
(なぜ、王弟殿下がこんなところに……?)
胸の奥が、冷たく沈む。
扉の影から覗いた室内で、セリウスは壁際に立っていた。背を引くようにして、逃げ場を探す目をしている。
「……お下がりください」
蚊の鳴くような声で少年は言った。
なのに叔父は、彼に向かって一歩近づく。
「へぇ…警戒心が強いな。誰に仕込まれた?…さあ、ほら見せてごらん」
その視線は、王族が臣下を見るそれではない。そればかりか、どこか愉しむように話しかけるのだ。
──だめだ。
頭が真っ白になる。
「何をしている……!」
自分の声が、ひどく低く響いた。
二人が同時に振り返る。
叔父は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに笑みを作った。
「おや、アルヴェルか。……少し話をしていただけだよ」
「嘘だ!」
言葉が、考えるより先に出た。
セリウスは、何も言わない。けれどその顔は助けを求めるよりも先に、伏せられた。
まるで自分の失態を謝罪するかのように。
その仕草がかえってアルヴェルの胸を刺す。
「下がってください」
幼い声だった。けれど、はっきりと言った。
「セリウスは、父上の許可なく一人で呼び出される立場ではない」
空気が、張り詰める。
叔父はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「……ずいぶん過保護だな」
その言葉に、アルヴェルは確信した。
──この男は、自分が何をしようとしていたかを、悪いと思っていない。
──この男は、自分の行いをまるで悪いと思っていない。
「行こう」
アルヴェルは二人の間に割って入ると、セリウスの手を取った。強く、逃がさないように。
セリウスの指先は、ひどく冷えていた。怖かっただろう。
悔しくてたまらなかった。
部屋を出るとき、背後から投げかけられた声があった。
「……危うい」
それでも振り返らなかった。
その日を境に、すべてが変わった。父王は激怒し、叔父は表向き「不適切な振る舞い」を理由に王宮から遠ざけられた。継承権について語られることはなくなり、誰もその名を口にしなくなった。
──だが、アルヴェルは知っている。あれは「素行不良」などという生易しいものではなかった。
そして、セリウスは。
相変わらず隣で、静かに微笑んでいる。けれど出会ってからやっと見せてくれるようになったあの、花が綻ぶ様な笑顔は消えてしまった。困ったように控えめに笑って、「ごめんなさい」と言う回数が増えた。
自分が誰かにとって危険な存在なのだと、きっと彼は学んでしまったのだ。
だからアルヴェルは、決めた。この手を離さない、と。王宮がどれほど歪んだ場所でも。王族がどれほど醜い選択を重ねてきたとしても。
少なくとも、自分の目の届くところで──彼が再び「価値を測られる」ことはさせない。
それが、まだ王弟でもなかった少年の、最初の覚悟だった。
*
『命じればよろしいではありませんか。──跪け、と。』
回廊を離れてからも、セリウスの声が耳に残っていた。
あの言葉は、刃だった。
だが、自分に向けられたものではなかった。セリウスはあの瞬間、自分自身を切り捨てることでしか、怒りを言葉にできなかった。それが、分かってしまったからこそ──もう何も言えなかった。
(……違う)
違うのだ。そんなことを望んだことなど、一度もない。
命じたいわけでも、従わせたいわけでもない。ましてや、膝を折らせるなど。
それなのに。
彼は、自分を「命じられる存在」として差し出した。自分の意思を、感情を、価値を──まるで最初から、取るに足らぬものだったかのように。
その事実が、侮辱よりも、拒絶よりも、深く胸を抉った。
(……俺は)
セリウスの人生に、どれほど踏み込んできたのだろう。守ると言いながら、ただ「選ばせない」ことで、自分が楽になっていただけではなかったか。
すずらんを渡したのは、本当に深い意味などなかった。
だが──軽率だった。
欲が出たのだ。彼を手放したとしても、それでも彼には、”アルヴェル”として見つめ続けて欲しい。そう願ってしまう自分は、あの男とどこが違うというのか。
たとえそれが慕情だとして、王になる者が個人に抱いていい情ではなかったというのに。
(……すまない)
謝る言葉は、喉の奥に残ったままだ。
セリウスは、きっと何も言わない。昔からそうだ。
あの日、幼い自分が誓った「守る」という言葉は、いったい誰のためのものだったのか。
──彼のためか。それとも、自分の恐怖を鎮めるためか。
ただ、あの言葉をセリウスに言わせてしまったという事実だけは、決して、なかったことにはできない。
だから──もう、欲張ってはいけない。
もっと早くやめるべきだったのだ。彼を守るためだと言って隣に縛り付けるのも、彼自身に選ばせるために、距離を取るのも。
王族として、いずれ王になる者として、自分が背負うべき役割を、ようやく正面から引き受ける時が来た。
セリウスが「跪け」と言われずに済む世界を作るために。
それが、あの言葉を聞いた自分に課された、たった一つの責任だと──アルヴェルは、ようやく理解していた。
更新遅れてごめんなさい〜




