Majalis(2)
「ここからは許可がなければ通せません」
一緒に帰ろうと教会の前で待ち合わせしていたのだが、セリウスが一向に現れない。
エミリア達を残して近くを探しに来たローワンだったが、中庭に続く回廊の入り口で神官に足止めを喰らわされている。
「ですが、セリウス様が……」
食い下がったその時だった。
「──そこの子ども」
ビリリとした存在感がありながらどこか胸の底をくすぐるような声。神官たちを従えて歩み出てきたのは、つい先ほどまで祭壇に立っていた教皇ラドクリフだった。
ローワンは圧倒され、息をのむ。
「きょ、教皇猊下……!」
膝が折れそうな緊張のまま頭を垂れるが、ラドクリフはどこか愉しげに少年を眺めるだけだった。
「顔を上げなさい。私と話せる機会など、そうそうないぞ。──用があるのだろう?言うてみい」
逃げ場を与えぬ微笑と、底知れぬ眼差し。ローワンは喉を鳴らしつつ、勇気を振り絞って口を開いた。
「さ、さっきの……一番前を歩いていた御子、セリウスの家族です。中庭にいると思うので、会わせていただければ……」
「家族か。……ふむ、ますます興味深い」
ラドクリフは満足げに頷く。その「ますます」の意味はつかめなかったが、探ろうとしたローワンより先に、すでに教皇は見透かしたように言葉を切り替えた。
「通しなさい。私がこの子を案内しよう」
神官たちは静かに左右へ道を開ける。
予期せぬ展開に戸惑いながらも、ローワンはラドクリフと並んで聖堂奥へ歩いた。
大理石の回廊に二人の足音が淡く響く。
「せっかくの機会だ。好きなことを訊くといい。御子と縁ある子よ、お前の問いなら答えてやろう」
横目で向けられる視線は、好奇心と警戒をぬるく混ぜ合わせたような、底の読めぬ鋭さを宿している。
ローワンは唾を飲み込み、問いを投げた。
「……ティアベアラーって、何なのですか。“癒す力がある”以上のことは、僕は知りません」
突然、ラドクリフの足が静かに止まった。
(ほう……この子ども、やはり聡い)
純粋な問いだけではない。小さな隙間から、大人の世界の構造を覗き込もうとしてくる。
あの父王の幼い頃にも見えた、鋭敏な勘に似ていた。
ラドクリフは喉奥でくくっと笑い、振り返った時には“教皇”の顔をしていた。
「よい質問だ。──ティアベアラーは女神の涙より生まれし子。そう祀られるが、それは表の顔にすぎぬ」
白銀の杖が床を軽く叩く。
「歴史の中で彼らは同時に“力ある道具”として扱われてきた。時に奴隷にされ、災いの原因として諍いの火種にもされた」
ローワンは息を呑む。
「王家は彼らを保護した。民が彼らを無闇に使わぬよう、秩序を守るためだ。だが、ティアベアラーも従順なだけではない。自らを守るため、国政に干渉し、揺るがす者もいた」
声は澄んだまま、しかし底流に冷ややかさを帯びる。
「だから教会は、彼らを守ると同時に“裁きの権”も持つ。国もまた、教会の采配に干渉せぬことで均衡を保ってきた。互いに触れてはならぬ領分を理解し合いながら。
……聖なる存在とは、常に政はの中心に立つものなのだよ」
ラドクリフの白杖が、静かに床を叩く。
「ティアベアラーの力は泉だ。溜め込めば溢れて荒れ、使い果たせば器が軋む。だからこそ、式典や災禍の祈祷で力の流れを“整える”必要がある。守られ続け、行き先さえ選べぬ御子の未来を……我々は案じておる」
その眼差しはただの冷徹でも慈悲でもない。“教皇の正義”を背負った、人を計る者の眼だった。
──そして彼の内には、別の懸念もあった。
やがて国を背負う王弟。その男の感情の揺らぎ。セリウスを巡る彼の気配は、あまりにも率直で、あまりにも危うい。国の均衡を乱す可能性など、どれほど小さくとも見逃せぬ。それに──。
「お前はどう思う?……家族として」
ローワンの瞳が揺れた。
祝福の御子でも、異形の悪魔でもない。ローワンにとってのセリウスは、ただ、大切な仲間であり、守りたい人間だ。これまで、誰かの都合で役割を押しつけられてきたのだろう。それを思うだけで、胸の奥にまたあの燻る苛立ちがせり上がる。
返答を探すローワンより先に、ラドクリフが歩を進めた。
「中庭はこの先だ。行きなさい」
ローワンはハッと顔を上げる。
教皇の瞳は、彼自身もまだ言語化できない感情の奥底までも見据えているようだった。畏れよりも、むしろ何かを見透かされた奇妙な安堵が胸に満ちた。
*
祭りの喧騒が遠くに揺れていた。
関係者だけが立ち入れる教会中庭は、静けさと湿った土の匂いに包まれ、さきほどまで人々の視線を集めていたセリウスの肩から、ようやく緊張が抜け落ちていく。
泉のほとりに腰を下ろし、濡らした手拭いで頬を冷やした。
(帰ったらシンディに叱られるな……これは)
などと思いを馳せていたとき、砂利を擦るような足音が近づいてくるのが分かり、セリウスは顔を上げる。振り返ると、アルヴェルが立っていた。
祭りのざわめきの中にいる時より、どこか影が深い。
「さっき、教皇と何を話していた?」
問いは淡々としているのに、その奥に小さな棘のような心配が隠れているのが、セリウスには分かる。
「……幼い頃のことを、謝罪されました」
セリウスは苦笑する。
「猊下は当時の支部の実情をご存じなかったでしょうに。あれだけの権威ある方に頭を下げられてしまって……私のほうが萎縮しました」
軽く肩をすくめると、アルヴェルはふっと喉の奥で笑った。
「それでは、アーサーが権威ではないみたいだな」
「いえ、そんなつもりは」
二人ともちいさく笑い合う。何事もなかったように。
だがその後、ふいに空気が止まった。
沈黙が落ちる。
遠くで鐘の音が響いていた。その音が、数週間前の出来事──アルヴェルが妃を迎える覚悟を告げた日のことを思い出させる。
忘れたのか?とでも聞くように、セリウスの胸に淡い痛みが広がった。
「……そろそろ戻ります。ローワンが私を探していると思うので……」
自分に言い聞かせるような声だった。
「……ああ、俺ももう行く」
「では、私はここで」
セリウスは礼をする。
その頭を下げた瞬間、肩口にふわりと何かが触れた。
「……え?」
顔を上げると、ゆるく結って垂らしていた髪に、小さなすずらんが挿し込まれていた。
白く、かすかに揺れている。
「殿下、これは──」
「……貰ったが、俺には似合わないから」
彼は一瞬だけ言葉を探すような顔をして――それから、ほんの気まぐれのように言った。
深い意味などない、と言わんばかりの軽さで。
その瞬間、セリウスの中で何かが、かちりと音を立てて外れた。
「──殿下は」
アルヴェルの指が止まる。
セリウスは自分でも驚くほど冷ややかな声で、続けていた。
「殿下は、私にどうしろというのですか」
喉の奥がひりつく。言葉が、考えるより先に流れ出た。
「この花の意味をご存知で、このようなことをなさるのでしたら……遠回しなことをせずとも、命じればよろしいではありませんか」
頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、口は止まらない。
「──跪け、と。殿下なら容易いことでしょう?」
だめだ。私は、何を言っている。
アルヴェルの瞳が、わずかに見開かれる。
吐いた言葉に、セリウス自身が身を強張らせた。自分だって、どうしたいのかも分からないくせに。あろうことか最も言ってはいけない言葉を選び取っていることを、どこかで分かっていながら。
祭りの喧騒が、遠い。
アルヴェルは、しばらく何も言わなかった。やがて、差し出したままだった手を、ゆっくりと引く。その指先が微かに震えているのに気付いて、セリウスの心臓に痛みが走る。
「……すまない」
その声は、怒りでも叱責でもなかった。むしろ、ひどく静かで──少しだけ、疲れていた。
「そういうつもりじゃなかった」
小さく、苦く笑う。彼の茜の瞳は光を無くしたように揺れていた。
「……悪かった」
それだけ言って、アルヴェルは背を向ける。
引き止める言葉は、とうとう出なかった。ただ、その後ろ姿が回廊の向こうへ消えるまで、セリウスは動けずにいた。
胸の奥が、じわじわと痛む。
苛立っていた。けれどそれは──花を渡されたからでも、軽んじられたからでもない。
(……私は)
答えにならない思考が胸の内で渦を巻く。追いかけるべきだったのか、引き留める資格があったのか。どれも、今の自分には選べなかった。
泉の水音だけが、しばらく耳に残っていた。
祭りのざわめきが、少しずつ現実を引き戻し始めると、その中に──駆けてくる足音が混じる。
「セリウス様!」
振り返ったセリウスのまつげが微かに震える。
ローワンが息を切らし、けれど戸惑いを隠せない表情で立っていた。
「どうしたんだ、ローワン」
穏やかに返した声は、いつもと同じ調子のはずだった。しかしローワンは一拍置き、慎重に言葉を探している。
「その……なんか、怒っています……?」
胸の奥がまたざらついた。けれどその正体に触れるのが怖くて、セリウスは静かに息を整えた。
ローワンの問いは、核心からずれているようで、むしろ最も近くを刺していた。
怒り──そんな分かりやすい形にまとまっていれば、どれほど楽だっただろう。
セリウスはかすかに首を振り、ほんの少し笑みを作った。
「……いいや、怒ってなど。ただ……少し、肌が腫れてきてしまって」
頬の筋肉が強張っているのが、自分でも分かる。
違う、と否定したはずの言葉が、行き場を失って内側に落ちていく。代わりに浮かんできたのは、回廊の向こうへ去っていく紺碧の背中だった。
あの人が、振り返らなかったこと。迷いを隠しもしなかったこと。
そして──何も言わずに、すずらんを差し出した、その仕草。そんなつもりではないと言いながら、冗談や揶揄いの類ではなかった。
(……どうして)
問いは、実のところ自分自身に突き刺さっていた。
指先に残る白を、セリウスは無意識に握りしめる。
妃を迎えると、言った。国のために必要なことだと、淡々と。
だから自分は、頷いたのだ。
臣下として。御子として。彼が選んだ道を、支える側に立つのだと。
──それで、よかったはずだ。いつかは来る未来だった。
だってそうだろう?
御子として守られるだけの場所に戻らないと、決めた。人として彼の隣に立つなら、同じ覚悟を持っていなければならないと。それが、彼を想うことだと、信じた。
なのに。あの花一輪で、胸の奥がざらついた。
(……私は、違う)
答えが形になる前に、別の感覚が浮かび上がる。
ただ一瞬、心が揺れた。それだけのことが、どうしようもなく怖かった。
あの人が向けてきた、未練めいた優しさに。
断ち切ったはずの距離が、また近づいてしまうかもしれないという予感に。
その感情に、セリウスははっきりと拒絶を覚えた。
依存に戻ること。一方的に「守られる自分」に戻ってしまうこと。それは、彼を支えると決めた自分自身を、裏切ることだ。それなのに──だから、苛立ったのだ。
(本当に?)
アルヴェルに、ではない。あの人の覚悟に、でもない。未練を向けられて、心が動いてしまった、自分自身に。
本当は知っている。あの人は、誰かを縛るために花を渡すような人ではない。それでも──「妃を迎える」と言いながら、自分にだけ向けられたままの視線が、怖かった。
もし、あの人が本気で手を伸ばしてきたら、自分は、それを拒めるのか。拒んだとして、それでも同じ高さで、彼を支えると言えるのか。
(違うだろう……そんな綺麗な理由じゃないはずだ)
心の中で、もう一人の自分が問いかけていた。
(……私は)
その先の言葉を、まだ、選べなかった。
だが、ただ一つだけ確かなことがある。あのざらつきは──彼を想わなければ、生まれない感情だった。
その事実に気づいてしまったこと自体が、今のセリウスには、ひどく息苦しかった。
*
祭りの片づけが進み、通りの喧騒も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
「……ですから言ったではありませんか」
屋敷に入るなり、シンディが言った。
「この時期の王都の日差しは強いのです。ヴェールをつけておく方が良いと、あれほど…」
「ごめんなさい」
セリウスは大人しく応じたが、その声はどこか上の空だ。頬はわずかに赤く、目元も少し腫れぼったい。
「“ごめんなさい”ではないですよ〜!ほら、もう。セリウス様の綺麗なお顔が……」
シンディは半ば呆れながら、セリウスの頬に冷やした布を押し当てた。
「少しは御自分の身体を大切にしてください。お医者様なのに…説得力がありませんよ?」
「……それはそうだね」
言われるがまま、セリウスはシンディから顔を押さえる手を交代する。白い布越しに、表情はさらに読み取りにくくなった。その様子を、ローワンとエミリアは並んで見ている。
──静かすぎる。
いつものセリウスなら、ここでひとつ苦笑でも返す。
「シンディを怒らせてしまった」とか、「力のお陰でどうせすぐ治るよ」とか。
なのに今日は、それがない。
(……なんか、あったな)
ローワンは唇を結ぶ。エミリアも同じだった。視線を前に向けたまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。
その違和感は夕餉の席になっても消えなかった。不機嫌とは違う。いつものように薄く微笑んでいる。けれど、ほとんど口を開かない。
食事そのものは、いつもと変わらない。味付けも、品数も、季節に合わせた軽めの献立で、胃に負担がかからないよう配慮されている。それでも箸の進みは遅く、ほんの数口で手が止まった。
「……今日は、少し疲れたな」
そう言って、セリウスは顔を上げた。
確かに、その瞳は疲労の色が強い。あれだけ日に当たっていたのだから無理もないだろうと皆思った。
だけど。
「先に休ませてもらうよ。明日には、きっと──」
「無理をしなくていいですよ」
シンディが即座に遮った。声音は柔らかいが、言い切る調子だ。
「今日はもう、十分です。お部屋で横になってください。夕薬は、あとで持っていきますから」
「……ありがとう、シンディ」
セリウスは軽く頭を下げ、そのまま席を立った。
足取りは乱れていない。けれど、そのままどこか遠くへ行ってしまいそうにも見えた。
扉が閉まる音が、思いのほか静かに響く。
ローワンは、ほっと息を吐いた。
「……また、変だ」
「うん」
ローワンの言葉にエミリアも頷く。
「具合が悪いのは……そうなんだろうけど」
ローワンは一瞬、言葉に詰まった。
昼間、王宮で見た光景が脳裏をよぎる。
人の流れの向こう。回廊を離れていく、王弟の後ろ姿。
(……言うべき、なのか)
けれど、確証がない。
何より、セリウス自身が何も話していない。
横を向くと、エミリアが真っ直ぐこちらを見ていた。
「っ……僕さ、」
迷う脳内とは裏腹にローワンの口は話を切り出していた。
「セリウス様を見つけた時、……王弟殿下を、見たんだ」
エミリアの目が少しだけ大きく開かれる。
「それは……」
「うん。偶然、だと思う。でも、あの時セリウス様と一緒にいたんだろうなっていうのは、確か」
エミリアは唇を引き結んだ。
何か言いかけて、やめる。
「……でも、あの方が何を言ったのかまでは、分からないわね」
「そうだね」
ローワンは苦く笑った。
「だから、これ以上は想像でしかない。セリウス様が話さない限り、俺たちが踏み込むところじゃない」
ひとつ、区切りをつけるように息を吐いてから、ローワンは思い出したように言う。
「あ、そうだ。そういえば……あのチャームのことなんだけど」
エミリアが首を傾げる。
「猫の?」
「うん。ランドフォード男爵のところで、ついでに聞いた話なんだけどさ」
ローワンは、できるだけ何でもない口調を装った。
「あれ、前妃セリーヌ様の愛猫がつけていたものらしいよ。その猫が子を産んだ時、侍女たちに譲られた子猫にも、同じ家紋の入ったチャームをつけていたんだって」
「へえ……」
「うちの母も、その侍女の一人だったらしくてさ。だから、巡り巡って、今あそこにいる猫についてる、ってだけみたい」
ローワンは顎でソファの上のルナを指す。
あくまで、昔話。特別な意味はない、と言外に示す言い方だった。
エミリアは一瞬、何かを考えるように視線を泳がせたが、深くは追及しなかった。
「……そうなんだ」
それ以上、言葉を重ねない。
ローワンは内心で、ほっとする。
これ以上、この話題で彼女を引き止める理由はない。
(……知らなくていいことも、ある)
少なくとも今は。
二人の間に、また静けさが戻る。
ただぼんやりと、二階の一室に灯る明かりを、ローワンは思い浮かべていた。
その部屋で、セリウスはきっと、何も言わずに横になっている。
問いかける言葉も。
説明する余裕も。
──すべて、胸の内にしまい込んだまま。
それを思うと、理由の分からない苛立ちが、またじわりと滲んだ。
「……明日、様子を見よう」
ローワンはそう言って、椅子から立ち上がった。
答えが返らなくてもいい。せめて、いつも通りの距離に戻れるかどうか──。
それだけは、確かめたかった。




