Majalis(1)
時は少し遡る。
セリウスとローワンが王都に辿り着いて、まだ幾日も経たない頃のこと。
王城の謁見室に、白銀の杖がひたりと石床を叩いた。
乾いたはずの音なのに、空気の温度がわずかに変わるほどの威厳を帯びていた。
教皇ラドクリフ・エドモンド。
本来は教会本部の奥深くに鎮座する存在で、めったに外に出ない“影の権威”だ。その大理石を思わせる冷徹な横顔が室内へ歩み入れた瞬間、周囲に漂う空気が静かに緊張を孕んだ。
「国王陛下。……お時間をいただき、感謝いたします」
深く落ちる声は澄み切っていて、温度がない。だがその奥には、人の心模様をどこか愉しむような、微細な笑みの気配が潜んでいた。
アーサーは柔らかい調子で迎える。
「こちらこそ、聖下。お越しいただき光栄です。今日は──祭事の件で?」
「ええ。今年のすずらん祭りについて。」
ラドクリフは椅子に腰を下ろすと、鋭さを帯びた静寂でアーサーを射抜くように見据えた。
「今年こそ──“あの御子”に、表へ立っていただきたい」
その一言が床に落ちた瞬間、アーサーの横に侍していたアルヴェルの眉尻がかすかに跳ねた。
(……やっぱり来たか)
アーサーは短く視線を伏せ、次の瞬間には軽やかな笑みで返した。
「聖下。今年は“あの件”の余波で国中がまだ落ち着いておりません。戻ったばかりの彼に務めさせるのは、少し酷では?」
「“まだ”落ち着いていない、と?」
ラドクリフは目を細め、まるで心の内側を直接覗き込むような眼差しでアーサーを見つめた。
「むしろ──いまだからこそ、必要では?人心を鎮めるには“象徴”が必要でしょう。ティアベアラーの祝福ほど、わかりやすい象徴は他にございません」
まるで道具扱いだな……。アルヴェルは内心で毒を投げつけつつ、表情だけは完璧な王族の仮面を崩さない。
「聖下の期待は理解しております」
アーサーは静かに応じた。
「ですが彼の身体は…陽射しに弱いのですよ。猊下もご存じでしょう。式典中に爛れでもして観衆が悪魔だと騒ぎでもしたらそれこそ教会にとっては痛手になるのでは?」
ラドクリフはわずかに目を細めた。
「なあに、それでしたら問題ないでしょう。式典は朝ですから、そう陽射しも強くない。ほんの数時間です。もちろん対策も致しますし」
アーサーの揺さぶりにも全く揺らぎを見せずにそう切り返す。杖の先が軽く床を叩くと、教皇はわずかに声の調子を変え、更に続けた。
「それにね、陛下。二年前、あの痛ましい事件に巻き込まれて……あの子は無実だというのに、国民の中には未だに正しい目で見ない者も多いのです」
アルヴェルのこめかみがぴくりと動く。
あの白い塔から解放される時、ソレイヴァン公の打診で教会が引き取る向きもあったが、結局はモルフォンド公らの反対でランドフォード領での保護となったが、教皇は気に食わなかったのだろう。だが今の物言いは……。
(幼い頃のあいつを……最も異端として扱っていたお前らが、それを言える立場か)
アルヴェルは毒吐く。もちろん、口には出ないが。
教皇はさらに静かに続けた。
「昨年の、奴隷輸出についての騒動も。あれは王家にとっても大きな痛手でしたね。教会としても、あの買い戻しに際しては“出来る限り”協力しました」
確かに、腐り果てた支部を潔く罷免し、関係者を一掃してくれはした。
だが実際、その殆どは国庫と断罪した貴族の不正金で賄っている。恩着せがましく言われる筋合いはない。
アルヴェルは堪らず隣のアーサーをちらと見る。
彼はというと──その怒りをまるごと吸収するように柔らかな笑みで言った。
「聖下のご協力には、我々も心から感謝しておりますよ」
アルヴェルはもはや溜め息しか出なかった。ラドクリフはその穏やかな返答に満足したのか、今度はゆっくりと口調を和らげた。
「わたくしが求めるのはただ一つ。──ティアベアラーを、国と教会が共に守るという“姿勢”です」
「そのために、彼を……表舞台に?」
「ええ。今年こそ、ぜひ。……あの白い御子は“象徴”としてあまりに相応しい」
さらっと侮蔑的な言葉を使っておいてまた“象徴”などと…。そう思ったのはアルヴェルだけではなかっただろう。
アーサーは長い沈黙ののち、静かに頷いた。
「……承知しました。セリウスには、私から伝えましょう」
ラドクリフはゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます、陛下。──女神の加護があなたとこの国にありますように」
荘厳な祈りの言葉。だがその足が去る直前、ラドクリフはほんの僅かだけ口角を上げた。
それは“計算された笑み”だったのか、それともただの老人の茶目っ気だったのか──誰にも判別できない。
扉が閉まった瞬間。
「あっっのクソ……」
アルヴェルの声が喉の奥で爆ぜた。もちろんアーサーにしか聞こえない音量で。
アーサーは苦笑し、弟の肩を軽く叩いた。
「まあまあ。……たまには教皇に貸しを作っておくのも悪くないだろう?」
兄弟だけになった謁見室に、ようやく本音が滲む笑いが落ちた。
*
五月の光は王都にだけ特別に優しく降り注ぐのだと、人々は毎年のことながら信じている。
聖堂前の大通りには、白と緑の飾り布が揺蕩い、どこからともなくすずらんの甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
今日は、年に一度の「すずらん祭り」。女神エルメリアの加護を讃え、ティアベアラーが大地へ祝福をもたらす、教会最大の祭礼である。
鐘が鳴る。その余韻の中、参道の先から白い光がゆっくりと近づいてきた。
──先頭に立つのは、セリウス。
白い祭服は淡い陽光を吸い、金糸が織り込まれた紋様がかすかに瞬く。手にした聖なる泉の水瓶はほとんど重さを感じさせず、歩みは静かで澄み切っている。その姿だけで人々は手を合わせ、さざ波のようにざわめきが生まれた。
王賓席に控えるアルヴェルは、無意識に息を詰めていた。
(……どう見ても、神話から抜け出してきたのはあいつの方だな)
国のため。王族の義務。それは分かっている。
いっそ義務さえ果たせば──あとは独占欲のままに彼を手元へ置ける。王族の特権で押し通せば、誰も真正面から非難などできまい。
だが、迎える妃もセリウスも自分の我儘の道連れにするなど、あまりにも惨い。自分は妃に心を与えられないくせに、彼の心だけは手放したくないなどと腹の底では思っている。
そんな浅ましさが、じりじりと自己嫌悪を焼いていた。
国王アーサーは一つ高い段に腰掛け穏やかな微笑を湛えていた。王妃は回復の兆しを見せているが、その心中は穏やかでないだろうに。王でありながら、妻の痛みに確かに心を寄せている。その自然さが、羨望に似た棘となってアルヴェルの胸に刺さった。
セリウスは祝福の水を撒きながら、人々の祈りを穏やかに受け止めている。
その微笑は、祭りの光景のどんな華よりも澄んでいた。
*
一方その頃の参道では、モルフォンド侯爵の従者を脇につけたエミリアと彼女に誘われたローワンが御子達の行列を待っていた。参道脇には露店が立ちならび、また春の訪れを祝福するように色とりどりの花が家々のバルコニーを飾っている。
「ねえ、お兄さん。おひとついかが?」
花売りの女性が、籠いっぱいの白い花を揺らしながらローワンへウインクする。
「えっ、あ、ありがとうございます。じゃあ…」
思わず受け取ってしまったローワンの隣で、エミリアが眉をひそめる。
ローワンはすずらんを眺め、素直に感嘆の息をこぼした。
「きれいだね。……はい、エミリア」
「えっ」
手のひらにそっと乗せられた花。エミリアは一瞬で真っ赤になる。
「ロ、ローワン……っ、それ意味を分かって言っているの……?」
声が裏返る。周囲の女性客たちは「まあ可愛い」と微笑み、老夫婦は「若いねえ」と頷き合う。
この祭りでのすずらんは、“プロポーズの花”。都市伝説めいているが、知らぬ者はいない。
「え?……あ、そういう意味があるんだ?」
ローワンはぽかんとして、次の瞬間、耳まで真っ赤になった。
「ち、ちがっ……! そういうつもりじゃなくて、ただ綺麗だから……!」
「わ、わかってるわよ!それに、わたしは別に……信じてないし、そういうの」
つられるように吃ってしどろもどろになる二人に、従者たちも笑みをそっと噛み締める。
参道の喧噪の中で、その一角だけ春風みたいに柔らかい空気が流れていた。
行列は進み、セリウスの白衣は朝光を受けてやわらかく輝いていた。季節外れに澄んだ青空のおかげで、陽射しは刻々と強くなる。御子の両脇を歩く若い神官たちは飾り傘を低く差そうとしたが、沿道から「見えない!」と声が飛び、結局、傘を持ち上げざるを得なかった。
祭りの終盤、セリウスの肌は徐々に薄紅に染まり、その火照りが近くの神官にははっきり分かるほどになっていた。本人は変わらぬ穏やかさで聖水をまいていたが、陽に透けた腕だけは、かすかに赤く熱を帯びている。
王賓席からその様子を見たアルヴェルは、ため息にも似た息をゆっくり吐いた。
(……本当に、どこまでも心配させる奴)
セリウスから視線を戻し、最後の一団が祭壇へ向かうのを見守る。白い花弁が聖歌に乗って空へ舞い、陽光の中できらめいた。
*
祭礼の喧噪が遠のいた聖堂裏は、陽射しを遮る石壁のせいかひんやりとしていた。
セリウスは控えの神官達に軽く礼を告げ、胸元にかいた汗も火照る腕も悟らせないままに祭壇の裏手へ下がる。
「御子よ。……よくぞ、この日を務めてくれました」
突然声をかけられて振り返ったセリウスは、声の主を認めるやいなや、恭しく跪くように頭を垂れた。
「教皇聖下。式典にて、このような機会を賜り……恐縮です」
「いいや。よく務めてくれた。見事だったよ」
穏やかな声なのに、言葉の奥に“測る”影がある。ラドクリフは杖を軽く床に触れさせ、ゆるりと続けた。
「まずは……わたくしの代で謝罪をしよう。幼い頃の君が、教会の名を冠する場で、耐え難い仕打ちを受けていたと聞いた」
セリウスは一瞬だけ目を伏せ、そして──微笑んだ。
相手の罪を責めぬ者の笑み。だがその奥には、どんな痛みも自分の内側へ閉じ込める静かな壁があった。
「聖下が知らぬところで起きたことです。どうかお気になさらず。……もう、昔のことですから」
「昔のことではありませんよ」
ラドクリフの声音が少しだけ深まる。静かだが、逃れようのない重さがある。
「あなたの身に起きたことは、この国と教会、双方の“怠慢”が招いた悲劇です。モルフォンド家が立派に守ってきた。しかし……」
杖の先が床をくぐもった音で叩く。
「彼らは政治の中心にいる一族。これから先、ソレイヴァン家の台頭もあり、あなたは“力ある存在”として必ず利用されるでしょう。人の世の波は、善意だけでは防げません」
セリウスの呼吸が少し揺れた。だが声は変わらない。
「私は……モルフォンドの父と母が大切です。守っていただきました」
「だからこそ、です」
ラドクリフの瞳に、底知れない静けさが宿る。
「あなたは王家や人々に守られるばかりで、ティアベアラーとして本来知るべき歴史や力の扱い方を何ひとつ学んでいない。そのままではいつかきっと破綻が訪れる。
国と人の厚意は尊い。しかし──厚意は永遠ではないのです」
淡々と言うのに、ひどく優しい。
「望むなら、あなたを正しく導きましょう。誰にも踏みにじられぬよう、あなた自身の力を護るために。
……御子よ。選びなさい。どこに身を置くべきかを」
ほんの刹那、光を映すセリウスの瞳がすっと細められる。
「……お気遣い、感謝いたします。ですが私には……今は守るべき家族もおります。これ以上は何も望んではおりませんので」
柔らかいのに、一歩も退かない声音。──自分の足で立ちたいと願う子か。
そう悟ったのか、教皇は追及も誘導もせず、ただ静かに頷いた。
*
祭殿裏手の控え区画。アルヴェルとアーサーは少し離れた王族用の待機台から、そのやり取りを遠巻きに見ていた。
ラドクリフは柔らかな笑みで言葉をかけ、何事かを諭すようにセリウスに語りかけている。
(……また、口説いてやがるな)
セリウスはいつもの穏やかな微笑のまま。けれどその笑みの奥に、アルヴェルにだけ分かる“薄い拒絶”が宿っている。ラドクリフは一瞬だけ目を細めた後、愉しげに肩をすくめ、その場を離れた。
アーサーは腕を組みながら小さく笑った。
「……振られたな、教皇猊下」
「……ですね」
アルヴェルが短く返すと、アーサーはちら、と弟の横顔を見た。
「……ただ御子として考えるなら、教会に身を置く方が、安全なんだろうな」
アルヴェルの眉が僅かに動く──が、何も言えなかった。
自分は一度、セリウスに“国を背負う覚悟”だけを押し付けた。責任も果たさねばならない。かといってお前もそばいにに置いておきたい。身勝手だと分かっているから口にできなかった。だがその結果、確かにあったはずの感情さえなかったことにされ、彼自身の本当の望みも聞くことさえ叶わなかった。
──あいつは、どこに立ちたいんだろう。
──誰として、生きたいんだろう。
そんな問いが胸の奥に沈んでいく。アーサーは小さく息を吐き、それからわざと軽い声音で言った。
「……ここまで振り回してるんだ。妃も迎えて、セリウスも横に置けばいいじゃないか」
「っ……」
「王族なら、それくらい珍しくもないだろう。世継ぎは世継ぎ、情は情。……そうやってきた王も、正直いくらでもいる」
「……兄上。俺に、それをやれって?」
低く、笑うのか怒るのか分からない声。
アーサーは眉根を寄せた。弟が“それだけは絶対にできない人間だ”と知りながら、あえて突くように告げる。
「“やれ”とは言わないさ。ただ──選択肢としては、昔からそこにある、ってだけだ」
アルヴェルの眉間の皺が一層深くなる。
「……だから、お前は王に向かないんだよ。優しすぎるし、欲深すぎる。どちらも中途半端に抱え込むから苦しくなる」
アルヴェルは返さない。ただ、拳をゆっくり握りしめる。視線の先では、セリウスが一人、控え室へ向かって歩いていく。あの背中は、守られる場所にも、祭祀の頂点にも興味を示さない。けれど“したくない方”には確かな拒否を示した。
(……じゃあ、お前は……何を望むんだ?)
その答えを、誰より知りたいのに。アルヴェルは胸の奥で情けなく笑った。




