過去と未来
入学から半月ほど経っていた。
王立大学校の生活にも、ようやく胸を張って「慣れてきた」と言えるようになった頃だった。
鮮やかな王都での暮らしは、まだ夢の続きのようだったが、だからこそ、ローワンは思ったのだ。
きちんと礼を言わなくては。
そして、向き合い兼ねてきた自分の過去にも……そろそろ向き合わねばならない、と。
ランドフォード男爵家の門前に立ったローワンの手は、緊張のせいで指先が少し冷えていた。
「……大丈夫ですか?」
隣から優しい声が落ちる。
セリウスが、ほんの僅かに首を傾けて覗き込むように見つめていた。
ローワンはぎゅっと唇を結び、一度深く息を吸ってから──それでもどこか幼さの残る迷いを抱えた目で見上げた。
「……はい。行かないと、いけませんから」
その言葉には、覚悟の色があった。けれど、その奥には、いつも守ってくれた彼を頼りたくなる子どもの揺らぎもある。
セリウスはローワンの声の震えに気づいたが、それを指摘することはしなかった。ただ、そっと視線を正面へ向け直す。
「男爵は、きっと……ローワンの力になってくれるはずだよ」
「……そうだと、いいんですけど」
ローワンの返事は弱く、しかし逃げてはいなかった。
王都の屋敷に住まわせてもらったこと。母と自分を支えてくれたこと。合格の報告。それから──
ランドフォード男爵だけが知っている「自分の過去」と、母が語らなかった空白の数年。
なぜ自分たちは追われるようにあの辺境の地へ逃げたのか。
そして、母が最後まで口を閉ざした理由。
──聞かなくては。聞かなければ、前に進めない。
男爵家の扉の前で、ローワンは一度だけ拳を握りしめた。
セリウスは、その横顔に宿ったかすかな決意を目に留め、静かに頷いた。
「ローワン。……一緒に、いるよ」
「……はい」
扉がノッカーの音を吸い込むように震え、家人が姿を現した。
その瞬間、ローワンの背筋がぴんと伸びる。逃げるためではなく、知るための一歩を、ようやく、踏み出した。
*
建前の挨拶も一通り終え、屋敷の応接間にはゆるやかな沈黙が落ちていた。
ローワンは手にした茶器をそっと置くと、深く息を吸い──そして意を決したように顔を上げた。
「……あの、男爵様。お伺いしたいことがあるんです」
いつもよりほんのわずかに強張った声音。
その奥にある覚悟を、目の前の老男爵はすぐに読み取った。彼はちら、と視線をセリウスへ送る。──ただ、確認するように。
セリウスは静かに目を伏せ、そして小さく頷いた。
(……今日は、この子が“自分で”聞きに来たのですよ)
その無言の合図は、男爵にとって十分すぎるほどの言葉だった。
ローワンへ視線を戻す男爵の表情は、初めて会った時と違っていた。憐れみはなく、軽い同情もない。
ひとりの若者と向き合おうとする、静かな敬意だけがそこにあった。
「……ああ。もちろんだよ、ローワン君」
わずかに息を整え、
「君の来歴について、だね」
ローワンの喉が小さく鳴る。しかし、迷いなく頷いた。
「はい。……教えてください。僕の……生まれた頃のことを」
開いた瞳には、痛ましさと、そして語る覚悟が同居していた。
「……わかった。全部話そう。ただし、君が聞きたくないと思ったら、そこで止める。いいね?」
「はい」
ローワンが返事をすると、隣でセリウスがそっと息を吐いた。
誇らしさと、どこか胸をしめつける痛みが同時に灯る。
男爵は語り出す前に、ローワンとセリウスの両方に視線を巡らせた。
「……その前に、ひとつだけ言わせてほしい」
穏やかな声音。しかし苦みをにじませた表情。
「セリウス殿は、初めから全てをご存じだったわけではない。
ただ……我々が事情を明かさぬまま、君より先に“辿り着かせてしまった”だけだ。もしそのせいで二人の間に誤解があったなら、謝らねばならん」
そう言って、男爵はセリウスにも深く頭を下げた。
「……済まなかった」
セリウスは瞬きし、すぐに静かに首を横に振る。
「いいえ。わたしは……成すべきことをしただけです」
その過不足ない答えに、ローワンの胸がじわりと熱くなる。やっぱり、この人は──自分の思っていたよりずっと遠くて、深い。
男爵は二人の空気を確認するように小さく息を吸い、ようやく語り始めた。
「──あの方……リディア様がここへ来られた時のことだ」
ローワンの喉がひくりと動き、膝の上で握る拳に力がこもる。
「リディア様は身重で、追われる身でもあった。安全な場所が必要でね。そこで、我が領の離れに匿ったのだ。……君を生むために」
ローワンの瞳が大きく揺れる。
「ご出産のあともしばらくはここでお過ごしだった。だが──」
男爵は苦いものを嚙みしめるように、一瞬だけ目を伏せた。
「その頃にはもう既に、リディア様のご両親は他界していてね。 だけど、彼女には"いつか父と共に領地を守りたい"という夢があった」
初めは他愛のない会話だった。もう若くはないから、あの辺境の地で暮らすのも切り盛りをするのも堪える、と。ほんの愚痴のつもりで。
「"でしたら!"ってね。目をキラキラさせて、"任せて貰えるなら、息子を守りながら働きたい”と、そう仰ってね」
男爵は昨日のことのように思い出して、頬を綻ばせた。
ローワンは胸が焼けるように熱くなり、呼吸が少し乱れる。隣でセリウスが気づいたように、無言で寄り添う気配を寄せた。
「これからは、一人で君を守らないといけない。あの人の分まで、と。そう言っていた」
男爵は覚悟を決めたようにローワンを真正面から見据えた。ローワンもまっすぐその視線を受け止める。
「君はね、ローワン。……陛下の
──陛下の血を引くお子なのだよ」
静かな言葉だったが、ローワンの世界には雷のように落ちた。
一瞬息が止まって、心臓の鼓動だけが、やけに鮮明に響いた。
横でセリウスが、何も言わずにただそこにいてくれる。
その沈黙が、触れもしないのに支えてくれているようだった。
「王家は“その事実”を知らない。……いや、正確に言えば、“知らされなかった”のだ。
君の父上、フェルナード陛下の強いご意向があったからね」
男爵はローワンを直視する。
その目は濁っていない。どう取り繕っても、同情でもなく、欺瞞でもなく──ひたすらに事実だけを伝えようとする、重い誠意だった。
「陛下は……最期まで、君のことを想っていたよ。
ただ無事に生まれ、ただ愛され、ただ純粋に“王宮という檻の外で”自分の思うままに生きてほしい──そう願われたのだ。」
言葉の一つひとつが胸に落ちるたび、ローワンは息を整えようとするが、うまくできなかった。
知らなくてよかった。
知るべきではなかった。
でも──知りたかった。
全く逆の感情が胸の奥でぶつかり合い、喉がひどく熱い。
男爵は続けた。
「……あの時、私は本当に悩んだ。
陛下の願いに従うべきか、王家に告げるべきか……どちらを選んでも罪を犯すような思いだった。
いつかきっと君が現れる──そんな予感だけが、私を動かしていたのだ」
ふっと、セリウスに視線を送る。
「そしてついに君が、自分の足でここに来て、聞こうとした。
──ならば、隠す理由はない」
ローワンは固唾を飲み、しばらく逡巡していたが、覚悟した様に一度ため息を吐いてから口を開いた。
「なぜ、母は逃げなければならなかったのです?」
ローワンの声は震えていたが、視線は逸らさなかった。
怯えや戸惑いよりも、その奥に宿る“知りたいという意志”が、静かに強かった。
男爵はゆっくりと息を吐いた。
覚悟を決めるように、一度だけ瞼を伏せ──そして静かに口を開く。
「……陛下がご病床に伏された時、君はまだお腹の中だった。リディア様は確かに正妃ではあったが──強い後ろ盾を持つ家の出ではなかったんだ」
男爵はそこで一度、セリウスへ視線をやった。
セリウスは黙って頷き、続きを促す。
「元々、リディア様は前妃セリーヌ様の侍女であった。あの方が王宮に残られたのも、決して野心からではない。父君はすでに亡く、母方の一族も遥か東方──トルキアから嫁いできた平民の家系だった」
老人はそう言って、一度、遠くを見るように目を細めた。
「だが……リディア様のお父上は、ただの男爵ではなかった。貿易商として幾度も海を越え、異国の土地を踏み、その先で得た知識や技術を、惜しみなく自分の領地に持ち帰った御仁だ。
水路の引き方、堤の組み方、土の扱い──当時としては新しすぎると笑われもしたが、あの方は聞く耳を持たぬ人でね」
思い出して、また笑う。が、すぐにその声は低くなった。
「そして……あの大水の折だ。国中が呑まれ、多くの土地が荒れ果てた中で、いくつかの領地だけが踏みとどまった。リディア様のお父上が手を入れていた場所だよ。人の知恵が、神の怒りに抗った──そう囁かれるほどにね」
その後、世は変わった。
“人の力を信じよう”と声高に叫ぶ者たちが現れ、技術革新の機運が一気に広がった。
「だが、それを見届ける前に……父君は逝かれた。無理を重ねすぎたのだろうな」
男爵は、静かに息を吐く。
「数年後、セリーヌ様が崩御され、後妃選びが始まった。その時になって、ようやく王宮は思い出したのだ。
あの大水の時、救われた土地があったことを。その礎を築いた者の娘が、今も宮中に仕えていることを」
「……こうして、リディア様は召し上げられた。
権力の娘としてではない。血筋の後ろ盾としてでもない。“人の力が国を救った”という、時代そのものの象徴として、な」
ローワンは目を瞬き、小さく息をのむ。
「…利用、されたということですか……?」
ローワンの問いに、男爵はすぐには答えなかった。しわの刻まれた指を組み、冷え切った茶器を見つめている。
「そう言い切るのは、簡単だ。確かに王宮は、リディア様を都合よく掲げた。大水の後、国は揺れておったからね。人の手による治水が国を救った──そういう“象徴”が、どうしても必要だったのだ」
だが、と彼は小さく首を振る。
「同時に、あの方も知っておられた。父君が亡くなった後、領地は宙に浮いていたことを。後見人もおらず、男爵家の直系は絶え、放っておけば王領に編入されるか、他家に切り取られる」
視線が、ローワンに向けられる。
「領主不在の土地は、弱い。守られる理由がなければ、簡単に奪われる」
老人は、少しだけ声を落とした。
「だからリディア様は、拒まなかった。王宮に召し上げられることを。利用されると分かっていて──その立場を、選んだ」
「では、その領地は……?」
問いを投げたのはセリウスだった。彼も当時はまだ幼く、まして直接関わりのなかった後妃の置かれた状況など知る由もなかった。
「失われはしなかった。だが、元の形のまま残ったわけでもない」
指が、肘置きを軽く叩く。
「大水を耐え抜いた土地は、王宮にとって“価値”になった。荒れさせるわけにはいかん。そこで取られたのが、暫定的な王領保護という名目だ」
名の上では王家直轄。
実際には、現地の役人と、父君が育てた技術者たちに管理を任せた。表向きは恩情、実態は──管理でしかなかったが。老人は、わずかに苦く笑う。
「そして、リディア様が後妃となられたことで、その処置は“正当なもの”として固められた。後妃の実家を荒廃させるわけにはいかんからな」
皮肉な話だ。リディアが王宮に上がったことで、土地は守られた。
だがその代わり──リディア自身は、帰る場所を失った。
老人は、最後に静かに言った。
「利用されたか、否か。それを決めるのは、外の者ではない。少なくとも……あの方の選択は、逃げではなかったと、私は思う」
老人はそう言って、ゆっくりと息をついた。
「リディア様は、とても聡明で、優しい方だった。そして──理由はどうあれ、前王陛下は本当に、心から彼女を慈しんでおられたよ」
そこで、男爵の声がわずかに沈む。
「……だが、それがいけなかった」
暖炉の、火の爆ぜる音が、沈黙を裂いた。
「第一王子アーサー殿下の立太子式と、時を同じくして、国王陛下は急病に倒れられた。単なる偶然だ。それでも誰かの企てだと疑ってしまえるほど──あまりにも都合の良い“偶然”が、重なり過ぎていた」
ローワンの指先が、膝の上でぎゅっと握られる。
「危険に晒される可能性は、十分にあった。アーサー殿下に罪はなくとも、王位継承を巡る思惑は、ときに血すら厭わぬ」
老人は、視線を伏せたまま続けた。
「ましてリディア様は、身寄りも薄い。派閥も、盾も、持たぬ后妃だ。……狙うとすれば、最も都合のいい標的だった」
「じゃあ……母は、僕を守るために……?」
ローワンの口元が戦慄いた。
「そうだ。君を抱いて……ただ、それだけを胸に、逃げたのだよ」
少年の目に、静かに涙がにじむ。
「……もっと……早く気づければよかった。本当はずっと、“あれ?”って思うことが……あったのに」
もし知っていたならば。自分は母に、何か言えたのだろうか。支えてあげられたのだろうか。
ローワンは目を伏せ、しばらく肩を震わせていた。悔しさでも怒りでもない。届かない場所でひっそり積もっていた愛の気配に、ようやく触れてしまった──そんな痛みだった。
「でも……ありがとうございます」
彼はゆっくりと顔を上げる。
「僕……もう逃げたくありません。母が願ってくれたみたいに、ちゃんと前に進みたい」
セリウスはローワンの言葉を受け止めるように小さくうなずき、そっと言葉を添えた。
「ローワン。……君が誰であっても、今のあなたの価値も、歩いてきた道も、変わらない」
男爵も深く頷き、言葉を締めくくった。
「そうだ。君の出自は、君を縛るものじゃない。だがもし、いつか陛下に……ご自身を知らしめたいと思う日が来たなら。その時は、私も必ず力になろう」
ローワンは唇をかすかに噛み、込み上げるものをそっと押しとどめた。
*
男爵邸を辞したあと、馬車へと続く石畳を、ローワンは無言のまま歩いていた。
沈黙は重くない。ただ深く静かに、胸の奥で波紋のように広がっていく──そんな沈黙だった。
セリウスは彼の数歩後ろを、同じく言葉を発することなく歩いていた。
無理に慰めることも、気持ちを探るような視線すら向けない。ただ、いつでも手を伸ばせば届く距離に寄り添っている。その佇まいは、まるで長いあいだこの瞬間を覚悟していた者のようだった。
ローワンは歩きながら、胸の奥に浮かぶものを静かに手のひらですくい上げるように見つめた。
──悲しいわけじゃない。
──怒っているわけでもない。
涙がこぼれるだろうと想像していた。あるいは、どうしようもない憤りが胸を焦がすのではないかとも思っていた。けれど、どちらも訪れなかった。
ただひとつ。ぽたり、と落ちるように浮かんだ問いだけがあった。
(……母は、どんな気持ちで、生きてきたんだろう)
追われるように隠れ住み、ただ我が子を守るためだけに生きた母の姿。その中にどれほどの恐怖があり、どれほどの孤独があったのか。
想像すればするほど、胸の奥がじんと締め付けられた。
そして、もうひとつ。
(……セリウス様も、どうすればよかったのか分からなかったよな)
彼がこの真実に触れたときの葛藤。それを告げるべきか、黙っているべきか、ひとりで抱え込んだであろう日々。自分が同じ立場なら、きっと同じように迷っただろう──そう思うと、胸の奥に静かな理解が灯った。
ふと、ローワンは歩みを止めずに言葉を落とした。
「……セリウス様」
名を呼ばれたセリウスは、少しだけ歩調を速めローワンの横に並ぶ。
ローワンは前を見たまま、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます。今日、一緒に来てくれて」
セリウスは僅かに瞬きをした後、柔らかく微笑んだ。
「君が、ひとりで背負わなくていいと思ったから」
その声は、静かに寄り添う春の風みたいだった。ローワンの胸に、ようやく少しだけ息が通った。




