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女神の国 1  作者: 大福駒子


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37/80


 ソフィアの容態がようやく落ち着きを見せたのは、それから十日ほど後のことだった。


 マリア・ソレイヴァンは、白い塔に収容されている。

 彼女は「騙されたのよ。本当にあの子が心配だっただけなの」と繰り返すばかりで、その一点からまるで動かない。


 供述書を読み終えたアルヴェルは、眉間の皺をさらに深く刻み、短く息を吐いた。

 その変化に気づいたのか、窓外に向けていた視線を戻しながら、ヘリオスが静かに口を開く。


「どう?」

「ああ。“また”ルーカスだな」


 短く返すと、ヘリオスも黙って頷いた。


「そういえばさ……あの男爵、事件の時に相当儲けてたろ。調度品に化けた分は押収したけど……あれで全部って感じじゃなかったんだよね」


「まだ金を隠しているか、別の形に変えている可能性があるな」


「今回の件とこじつけるなら、“毒薬を買った”って線も考えたけど……残念ながら、それはなかった」


 ヘリオスは肩をすくめる。

 事件当時、輸入品を含めた取引履歴をすべて洗い、不自然な流れはひとつも見つからなかった──表向きは。


「物証がないなら……錬金の投資に充てたとか……」


 言いかけて、アルヴェルは自らの声にわずかな震えを感じた。


(錬金?いや……あり得る。むしろ“それ”が本命だったのではないか?)


 他国から流れ込んだ原料は、知識がなければ単なる“珍しい荷”で終わる。

 だが、それが錬金術で加工され、珍品から下手物まで扱う競り場を経由していたとしたら──。


 “積荷”

 あれは事件の核心のひとつだ。


 膨大な量で押収された荷は保管庫へ移され、一つひとつ鑑識されている。

 だが物量があまりに多く、宮廷官の人手も足りていない。

 結果、“最後に捕まったルーカス男爵の分”は、他の押収品に埋もれたまま、まだ封も切られていなかった。


 その事実が、アルヴェルの脳裏で薄らぼんやりとした影を作る。


「……ヘリオス」

「うん、考えてること同じみたいだね」


 ヘリオスが小さく笑って肩をすくめる。


「ああ。奴隷と一緒に流すには、あまりに“妙な積荷”だった。……もう一度、全部確認するぞ。特にあの酒だ」


 アルヴェルの声はいつになく低かった。

 彼の外套が翻り、部屋の空気がわずかに張り詰めた。


「了解。記録庫に下りるなら、ノエルドにも声をかけておく。アルヴェル、これは──」

「まだ終わっていなかったんだよ。最初から」


 王弟の瞳に、ひそやかな怒気が宿った。



 記録庫は王城の北翼、そのさらに奥まった階層にある。

 半地下に沈むように築かれた石造りの保管庫は、湿度と温度を一定に保つため常にひんやりとしており、外界から切り離されたような静寂に満ちていた。


 分厚い扉が軋む音が、やけに大きく響く。


 アルヴェルが手にしたランプの火が、僅かな風で揺れた。

 光の揺らぎが、積み上げられた木箱の影を長く伸ばし、倉庫全体に沈鬱な気配を落とす。


 ヘリオスは封印記録簿を捲りながら、低く呟いた。


「──ここだ。奴隷輸出事件の押収品。……封印は一年半前のまま、解かれていないな」


 記録庫の奥、棚のいちばん下。

 粗末な木箱の側面には、当時の担当官の署名入りの封蝋が残っていた。

 薄く埃は積もっているが、誰の手も入っていない。それは明白だった。


 アルヴェルはしゃがみ込み、手袋越しに封蝋へ触れる。

 ひび割れた赤い蝋を、静かに指先でなぞった。


 ぱきり。


 記録庫の空気が揺れるほどの小さな音を立てて、封蝋が割れる。


 木箱の蓋を外すと、中には布に包まれた瓶が十数本、隙間なく並んでいた。

 布は黄ばんでいるが、瓶そのものは割れも曇りもない。


「果実酒にしては、ずいぶん本数が少ないね」

「しかもラベルなし。……趣味が悪い」


 ヘリオスの呟きに、アルヴェルは一本を取り上げ逆光にかざした。

 淡い赤。熟成酒の色には違いない。


「当時は“ただの果実酒”と判定されたんだよな」

「うん、匂いも普通の酒だったしね」


 そこでアルヴェルの手が止まった。


 ──胸奥で、何かが引っかかった。


 理由はまだ言えない。

 ただ、無視してはならない直感だった。


「……ヘリオス。換気窓を開けてくれ」


 ヘリオスは無言で立ち上がり、窓の留め具を外した。

 冷たい外気が流れ込み、記録庫の空気が一段引き締まる。


 アルヴェルは瓶口の封を慎重に外し、そっと鼻先へ寄せた。


 ──その瞬間、喉奥がざらりと拒んだ。


 甘い果実香の奥底。

 紙一枚の薄さで隠された、鉄を腐らせるような異臭。


「おい、王弟。また自分で嗅ぎに行ったな」

「……悪い。つい癖で」


 ヘリオスが瓶を奪い、慎重に揺らす。

 液面に、白濁したものがかすかに走る。


「酒の澱にしては色が悪い。けど……判別はできないな」


「決めつけるには早い。……エルネストだ」


 アルヴェルは立ち上がり、瓶を布で丁寧に包んだ。

 封は仮で押し直し、ヘリオスに目で合図を送る。


「ここはそのままだ。封蝋も、当時と同じ色を使って付け直しておいてくれ」


「はいはい」


 二人は記録庫を出ると、王宮奥にある研究棟へ向かった。

 薬品と古紙の匂いが漂うその一角には、王宮付き医師であり、錬金学にも通じる老人、エルネスト・レーヴェが常駐している。


 扉を叩けば、渋く落ち着いた声が返る。


「……開いておる。入れ」


 アルヴェルが部屋に足を踏み入れると、エルネストはルーペを片手に何やら粉末を観察していた。

 ゆっくりと顔を上げ、細い目が王弟を捉える。


「おや、殿下。王妃殿下の件で寝る暇もないでしょうに……また厄介ごとを抱えてきた顔をしておるな」


「おじ……エルネスト先生、少し調べてほしい。内密にだ」


 アルヴェルが布包みを差し出すと、老医師はルーペを置き、慎重に手を伸ばした。


「この包み、中身は?」


「酒──だったもの、かもしれん」


「……ふむ」


 短く鼻を鳴らしたエルネストは、包みを解くと瓶を光にかざし、底から縁までじっくりと観察した。指先で顎をゆるく撫でながら、低く唸る。


「……まさか殿下。鼻を近づけたりは、しておらんだろうな?」


 アルヴェルがごくわずかに視線をそらした。


「……まあ、そのつもりではあった」


「はぁ……。王妃殿下の身に何が起きたかも定かでないというのに。まったく、殿下は昔からせっかちで困る」


 呆れた声音の奥に、息の長い信頼がちらりと覗く。


 エルネストは瓶を器具のそばへ丁寧に置き、眉根を寄せた。


「……うむ。匂いを嗅がずとも分かる。これは“ただの酒の顔”ではないな」


「判断できるのか?」


「わしを誰だと思っておるのだ。五十年も薬と毒をいじっておる老人ぞ。伊達に皺だけ増えたわけではない」


 思わずヘリオスが小さく吹き出し、エルネストは肩を揺らしただけで受け流す。


「調べるには……数日欲しい。なるべく早くお見せしよう」


「頼む」


 短く返したアルヴェルに、エルネストは静かに頷く。


「……殿下。気を引き締めておくのだぞ。これは、軽い話ではない」


 アルヴェルの瞳が細められる。


 霧はまだ晴れない。

 だが、その向こう側にひとつの“形”だけが、確実に固まりつつあった。


 ——まだ、終わりではない。


「ああ。もちろん」


 アルヴェルが片口だけ上げると、エルネストはわざとらしく肩を竦める。


「まったく……王弟殿下が本気を出すと、年寄りの心臓には毒だな」


 その声音には、かすかな愉快さが滲んでいた。



 一方その頃。


 麗らかな春の光が、薄絹のカーテンを淡く透かしながら室内へ流れ込んでいた。


 ソフィアはベッドの背凭れに身を預け、ゆっくりと息を整えながら庭を眺めていた。

 冬の名残を解かすように咲き始めた花々。

 風が枝葉を揺らすたび、影がそよぐ。

 その穏やかさが、ようやく戻りかけた彼女の血色とどこか呼応している。


 その傍らで、アーサーは椅子に腰掛けていた。

 王としての緊張をようやく解き、今はただ“夫”として、少しだけ疲れを滲ませながらも柔らかな眼差しを向けている。


「……良い陽気ね」


 ソフィアがぽつりとつぶやいた。

 声はまだ弱いが、気持ちの芯が戻ってきている。

 それだけでアーサーには十分だった。


「うん。君がこうして光を見ているだけで、やっと春が来た気がするよ」


 どこか照れた響きなのに、深い安堵が滲む。

 ソフィアは伏し目がちに微笑んだ。


「心配を……かけてしまいました」


「それは、お互い様だよ。君が倒れたと聞いた時、心臓が止まりかけたんだから」


 軽く言っているようで、隠しようのない本音。

 ソフィアはそっと目を伏せ、かすかに首を振った。


「……大袈裟ですわ」


「僕にとっては、まったく大袈裟じゃない」


 アーサーの手が、そっとソフィアの指先を包む。

 触れ方は驚くほど慎重で、温かい。


「無理はしなくていい。外を見るだけでも疲れるだろう? 少しでも辛かったらすぐ言って」


「ええ……でも、こうして光を見ると……やっと息が吸えるような気がして」


 言いながら、ソフィアの胸の奥にひやりと痛みが灯る。

 ——優しい。

 ——でも、その優しさが今はつらい。


 あれほどの恐怖と苦痛の直後、本当なら縋りつきたかった。

 ただこの温もりを求め、泣き疲れるまで寄りかかっていたかった。


 ……なのに、それができない。


 あの軽率な行動がどれだけの騒ぎを招いたか。

 アーサーにも、そしておそらくアルヴェルにも“覚悟”を強いた。


 その現実を思うほどに、ソフィアはそっと胸の奥へ手を伸ばし──

 外しかけていた“王妃の仮面”を、音もなくかけ直した。


「……大丈夫ですわ。少し、外を見ていたいだけですもの」


 微笑みは、王妃としてのもの。

 それを見たアーサーの眉がわずかに曇る。

 しかし彼は気づかないふりをして、握った手をほんの少し強くした。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「陛下、王妃殿下。失礼いたします」


 柔らかな声とともに、侍女が姿を見せる。

 その手には、小さな手がちょこんと収まっていた。


「……おかあさま!」


 第二王女フローラが、ぱっと花が開くように笑って駆け寄り──そうしようとして、姉である第一王女ロサリアにそっと手首を押さえられる。


「フローラ、ゆっくりです。母上はまだご静養中ですよ」


「……はあい」


 フローラは気まずそうに立ち止まり、そろりとソフィアの方へ歩いた。

 母とようやく対面出来た幼い娘の瞳がほっと緩む。


「おかあさま、よかったあ……」


 小さく震える声。

 幼い子どもなりに“何かあった”ことを感じ取っていたのだろう。


 ソフィアは表情をくずさぬまま、そっと手を広げる。

 フローラが胸元に飛び込むと、細い腕でしっかりと抱きしめた。ロサリアも不安だったはずなのに涙を堪えて妹の背中を撫でている。


「二人とも心配かけてしまいましたね。でも、もう大丈夫よ」


 その声音は穏やかで、美しく整っていた。

 ——それが余計に、アーサーの胸を締めつける。


 そこへ、侍女の後ろから医官ラシードが入室してきた。

 亜麻色の外套をひるがえし、いつもの控えめな所作で一礼する。


「王妃殿下。本日は無理のない範囲で、軽い検診をさせていただきます。……姫様たちが側にいらしても問題ございませんよ」


 二人の王女はラシードを見ると、少し安心したように父の両隣へきちんと座る。

 アーサーは娘の頭をそっと撫で、ソフィアの方へ視線を戻した。


「ソフィア。体力が戻るまでは、ラシードの判断を最優先に。……いいね?」


「ええ。陛下がそうおっしゃるなら」


 微笑みは優雅で、まぶしいほど整っていた。

 けれどその裏にある“無理の影”を、アーサーは気づかぬふりをするしかなかった。


 ラシードが脈を取りながら表情を曇らせる。


「……まだお疲れが強く残っています。精神的なご負担も大きいはず。決して焦られぬよう」


「分かっています」


 ソフィアは静かに答えた。


 だが、その手は王女の手を握る力がほんの少し強くなっていた。

 まるで自分が“まだ王妃でいられる”ことを確かめるように。


 アーサーはその仕草を見て、胸の奥で静かに息を押し殺した。


(……こんなときにまで、君は自分を責めるのか)


 その想いは喉まで出かかったが、言葉にはしない。

 かえって彼女を追い詰めると分かっていたからだ。


 柔らかな陽光が差し込む部屋で──

 王と王妃と小さな姫は、ひとつの温かな時間を取り戻しつつあった。


 だがその足元には、まだ影がひそんでいる。

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