新しい風
ローワンが鏡の前で袖の具合を確かめていると、外から門扉の軋む音がした。
続いて、玄関の鍵が静かに回る。
その音にシンディがぱっと振り返った。
「セリウス様……?」
足音が近づき、食堂の扉がゆっくり開いた。
「……ただいま」
姿を見せたセリウスは、どこか影を落とした顔をしていた。
けれどローワンの姿を見つけた瞬間、その瞳にかすかな驚きが灯る。
「──あっ。すまない、ローワン。
今日は受け取りの日だったね……完全に抜け落ちていた。申し訳ない」
声は丁寧なのに、芯がひどく疲れている。
ローワンは静かに首を振る。
「いいんです。……帰って来られてよかった。無事でさえあれば」
シンディも心配げに歩み寄った。
「すぐに温かいものを用意しますね。少しでも召し上が──」
だがセリウスは、やわらかく手を上げて制した。
「ありがとう。でも疲れてしまって……今日は喉を通らないんだ」
拒むというより、そっと距離を置くような声音だった。
シンディが不安げにまぶたを伏せる。
その空気を気遣うように、セリウスはふっと微笑んだ。
「ローワン、とても似合っているよ。
……本当に、間に合ってよかった。明日からの務め、楽しみだね」
その言葉にローワンの胸はあたたかくなる。
しかし、その目だけは──淡い青に揺れ、どこか遠い。
(……また、この目。
自分を責めるような……どこにも居場所がないみたいな)
「明日は、必ず一緒に行くよ。
今日は……少し休ませてもらう」
優しい声のまま、深く会釈し、静かに踵を返す。
扉が閉じる音が落ちたあと、その場に残ったのは、わずかな気配だけだった。
ローワンとシンディは、しばらく言葉もなく立ち尽くす。
家の中の気配は確かに戻ってきたはずなのに、胸の奥にはまだ、ひやりとした風が吹き抜けるようだった。
シンディはローワンの腕にそっと触れ、押し隠しきれない心配を滲ませた。
「……王宮で、何かあったのね」
それ以上言葉を継がなかった。
というより、彼女にはそれ以上の語彙がなかった。
シンディはただの女中だ。
王宮の事情に詳しいはずもない。
それでも──
一年と少し前、白い塔から戻ったばかりの彼を見た時のあの顔だけは、鮮明に胸に焼きついている。
「……あの時と、同じ顔をしてたわ」
その静かなひと言が、ローワンの胸の奥に細い棘のように触れた。
自分もまた、さっき見たセリウスの瞳を思い返していた。
澄んでいるのに、どこか泣いているような青。
出会った頃、サンルームでシンディがぽつりと
「あの方」の話をした時に見せた、あの表情。
長く沈んでいた印象が、輪郭ごと浮かび上がる。
"殿下のお気に入り” ──エミリアのあの言葉の意味。
(王家にとって、セリウス様は一体……)
ただの医者だと思っていた。
優しくて、人の痛みに寄り添える、穏やかな男性だと。
でも──。
モルフォンド侯爵から聞いた“彼の過去”。
しがらみだらけの経緯。
そして、今日のあの顔。
ただ単に疲れた、と説明するには足りない何かがあったのだろう。
それだけは、ローワンにも分かった。
セリウスは、自分が思っていたよりずっと複雑な場所に立っているのだ。
シンディはそっと息をつき、ローワンの背を軽く押した。
「……休みましょう。
明日はあなたにとっても大事な日だもの」
ローワンは小さく頷いた。
けれど胸の奥では、セリウスの青い瞳と“殿下”の響きが、静かに沈んで揺れ続けていた。
*
翌朝、セリウスはいつものように少し遅れて階段を降りてきた。
寝癖を手で押さえながら食堂へ入ってきたその姿は、昨日の影をほとんど感じさせない。
「……間に合いそうかな」
寝坊をごまかすような、柔らかい声。
朝に弱い彼らしい、何でもない仕草。
なのにローワンの胸はざわついた。
あの“泣いているみたいな青い瞳”が、どうしても頭から離れない。
ほんの数日前、チャームを挟んで笑い合った距離の近さが、急にどこか遠く思える。
(……知らない人みたいだ)
ふいにそう感じて、自分でも驚く。
でもすぐに思い直した。
セリウスは「君に関することに隠し事はしない」と言ってくれた。
人には誰だって触れてほしくない領分がある。
それを無理に覗き込まないのが礼儀でもある。
……なのに、なぜ今──こんなにも胸がもやもやするのだろう。
王立大学校は、王宮の広大な敷地の奥にあった。
馬車が向かう道すがら、ローワンは口をぽかんと開けてしまう。
「王宮って、王族の住まいだけじゃなかったんですね……」
「そうだね。そう思うのも無理はないよ。教会や果樹園もある。図書館もあるし……君も行ってみるといい」
セリウスはローワンが恥じないよう、ふわりと寄り添うように微笑んだ。
気遣いのこもったその表情が、昨夜の影をようやく薄くしてくれる。
馬車がコンコースに停まり、セリウスが先に降りて手を差し伸べる。
その手に触れると、ローワンは胸が軽くなるような気がした。
「ありがとう」
続いて足を地に下ろした瞬間、広がる景色に思わず息を呑んだ。
(……これが)
ここが、セリウスが暮らした“王宮”。
彼を縛る“あの方”がいる場所。
そして、母リディアと繋がりのあるセリーヌがいた場所。
どこかに、自分の胸をざわつかせるものの正体があるのかもしれない。
緊張と同じくらいに、心の奥で好奇心が高鳴っていた。
ローワンはセリウスと別れると、胸の前でそっと手を握りしめ、王立大学校の石畳を一歩ずつ踏みしめていった。
建物はすべて王宮と同じ白い石で造られており、朝日を受けて淡く金の縁どりを纏っているように見える。
優雅で、どこか冷たくて——それなのに、胸がひどく高鳴る。
(今日から、ここが“僕の場所”になるんだ)
そう自分に言い聞かせながら門をくぐると、左右には学生らしい若者たちが談笑していた。
繊細な刺繍の施された外套、革の鞄、手入れの行き届いた筆記具。
貴族や豪商の子息子女たちが、まるで庭園の花のように色とりどりだ。
すれ違う会話が耳に入る。
「王城の近くの寮、もう満室なんだって」
「天文学は今年あの先生だろう?……寝る未来しか見えん」
「来週のお茶会、楽しみですわね。あなたは……」
ここが学び舎であると同時に、立派な社交の場なのだとすぐに分かる。
ローワンは胸を張りたい気持ちと、場違いに思える気後れのあいだでふらつく心を押さえ込み、深呼吸して教室棟へ進んだ。
初日はほとんど案内と説明で終わり、学生たちは授業よりも休憩時間のほうが生き生きしている。
そのあちこちで、有力家同士の結びつきが、静かに芽吹いていた。
(……ちょっと落ち着かないな)
気持ちを切り替えるようにローワンはセリウスが勧めてくれた図書館へ行ってみようと中庭を歩き出す。
その時、建物の角から女の子の小さな悲鳴が聞こえてきた。
「きゃっ、ごめんなさい、押しちゃった!」
「まあ……あらあら。国の公女とも謂れる方のお召し物ですのに、泥がついてしまいましたわ。どうしましょう、ねぇ?」
「……いいのよ。気にしないで。足元、気をつけてね」
「さすがですわ。国で最も高貴な家柄のご令嬢は懐が深くておいでねぇ」
(……こういうのも、あるんだな)
ローワンが近づくのをためらっていると、三人の令嬢が意地の悪い目配せを交わしながら角から姿を現した。
彼に気づくと、一人がわざとらしく咳払いし、三人は不自然に上品な足取りで去っていった。
(嫌だな……)
ローワンはそっと息をつき、彼女らの出てきた角を曲がった。
そこでぴたりと足が止まる。
「え……エミリア嬢?」
そこには、地べたに座り込んでいる豊かな金髪の令嬢——。
名を呼ぶと、エミリアは弾かれたように振り向く。
「あら、ローワン」
顔を上げたエミリアは、泥のついた裾とは対照的に、ひどく機嫌の良さそうな笑みを浮かべていた。
さっきの空気に嫌な予感はしていたが——まさか、その矛先が彼女だったとは思いもしない。
しかも、当の本人がこれほど平然としているなんて。
「汚れちゃった!」
楽しげな声に、ローワンは拍子抜けして瞬きをした。
まるで泥など、“ただの飾り”くらいにしか思っていないような明るさだ。
「な、大丈夫なの。これ?」
「まあ大丈夫ではないわね。馬車を汚しちゃうし……これは、なんて言い訳しましょう……」
いや、言い訳の問題ではなく、とローワンは小さく息をつく。
それでも手を差し出すと、エミリアは何の迷いもなくその手を掴み——
「ありがとう。そして、入学おめでとうローワン!」
ぐいっと勢いよく立ち上がってくるものだから、ローワンの目の前いっぱいに、金髪が飛び込んできた。
急に距離が縮まって、思わずのけぞりながら「あ、ありがとう」と返す。
(調子が狂うどころじゃないな……本当にこの人は)
学舎の縁台に並んで腰かけると、ローワンは主語をぼかしてそっと問う。
「いつもなの……?」
エミリアは「いつもって?」と聞き返すこともせず、肩をすくめただけだった。
「まあね。『由緒正しいモルフォンド一族が何のつもりでここにいるんだ』とか、『白い御子の妹だの何だの、古臭い家系だ』とか……その程度よ」
まるで天気の話でもするように軽やかに言う。
ローワンは喉まで出かかった“じゃあどうしてここに”を飲み込んだ。
——そうだ、彼女は“それでも外に出たかった”のだ。
守られている場所では聞こえもしなかった声を、自分の耳で確かめたくて。
エミリアは泥のついた裾をぱんぱんと払って、またいつもの明るい笑みを浮かべた。
「領地に帰りたくなっちゃったかしら?」
少し脅かしすぎたかしら、とでも言うようにエミリアが覗き込んでくる。
冗談めかした声なのに、瞳はどこか本気で心配しているようにも見えた。
「ううん、全く」
ローワンは首を振り、思ったことをそのまま口にした。
「君はすごいね。そうやってどんどん自分の世界を拓いていくんだ。僕なんて足元にも及ばないよ」
言われたエミリアは、意外そうに「うーん」と低く唸って天を仰ぐ。建物に囲まれた四角い空を眺めながら、ぽつりと漏らした。
「そんなたいそうなもんじゃないわ」
乾いた笑みには、ほんの少し自嘲が混じる。
「世界なんて拓けないし、いずれ結婚させられるし。結局、私がやってることなんてただの反抗期よ。
何も変わらないってちゃんと分かってる。でも、知ってるのと知らないのとでは違うでしょ?」
その声は軽いのに、不思議と胸に残る重みがあった。
アーモンドの花みたいに可憐なのに、触れようとすると途端に色々な表情を見せる──強くて、しなやかで、時にほろ苦い。
そんなエミリアの笑顔がカラッと晴れた空気を連れてきて、ローワンは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
「あ、そうそう。あのチャーム……何かわかった?」
ころり、と明るい表情に切り替わるエミリアに、ローワンはまたしても心臓を掴まれたように胸がきゅっとなる。
「あ、えっと……」
結局のところ、何ひとつ解明できてはいない。ただ——その謎は、想像よりずっと覚悟のいる領域へと繋がっていた。
それをどう言えばいいのか見当もつかず、ローワンは「まだ何も」と歯切れ悪く答えるしかなかった。
だがエミリアは眉ひとつ動かさない。
「なあんだ、そっか。じゃあ私も調べてみるね」
気負いのない笑顔に押されるように、ローワンは先日返しそびれていたチャームを彼女の手にそっと戻した。
長い睫毛に縁どられた愛らしい瞳——なのにその奥に宿る強い意志は、見ているこちらの胸の靄を吹き飛ばしてしまうほどだった。
(……彼女なら、きっと)
そんな思いが自然に湧き上がる。
「エミリア」
「なあに?」
ローワンはほんの一瞬、迷いを噛みしめる。けれどそのまま口を開いた。
「セリウス様って……どんな人?」
言った途端、エミリアがぱちりと瞬いた。
「ローワン、あなた私を馬鹿にしてるの?
四六時中いっしょにいたのはあなたのほうでしょうに」
拗ねた調子。けれど笑っている。
──その笑みが、ローワンの真剣さに触れて静かにほどけた。
「ああ、そっち……ね」
一瞬だけ、妹としての影が落ちる。
兄の“外”を知る他人ではなく、“内側”に近すぎる者としての顔。
「大体は伯父さまの言った通り。でもね──肝心なところを、あの人はいつも綺麗な言葉で包むの。
そこが、私、本当に嫌い」
爪先で砂利を押しながら、淡く澄んだ怒りを落とす。
「お兄さまは王族に“守られている”の。でもそれは同時に……あの人が王族を守る“手段”だから」
「手段……?」
ローワンは思わず問い返していた。
その言葉だけで胸のどこかがざわりと動く。
「ええ。あの力があるから」
エミリアは淡々と続ける。
「癒しの力──ティアベアラー。利用価値があるから、生かされてきたのよ。陛下や王弟殿下が"弟"と称していたってその事実は変わらない」
ローワンの胸に、初めて触れたあの“光”が蘇る。
温かくて、人を包むようで、どこまでもやさしかった力。
「これまでも……ずっと?」
自分でも気づかぬうちに、声が細くなる。
「ええ。誰かに強く命じられたわけじゃ、きっとない。でもね──」
エミリアはふっと目を伏せた。
「お兄さま自身が“そうするために生きている”と信じてしまっているんじゃないかしら。そのほうが楽だから。白い悪魔と蔑まれるより、まだ傷つかないでいられるもの」
その静けさは、冷たさとは違う。
長い間、見続けてしまった者だけが知っている深い澱。
ローワンは気づく。
エミリアの言葉の端々に、兄への愛情と痛みが同じ割合で混ざっていることに。
そして同時に──自分が思っていた以上に、セリウスという人の“重さ”を知らなかったことにも。
ローワンは小さく息を呑んだ。
胸の内に昨日から渦巻いていたざわめきの正体が、ようやく立ち上る。
——ああ、そうだ。
僕は、あの人に苛立っていたのだ。
人の痛みや不安には誰より敏く気付くくせに、自分の傷にはさっぱり鈍い。
手を伸ばせば届くはずの距離で、まるで「大丈夫」と言わんばかりに笑って、傷を隠してしまう。
エミリアの怒りもきっと同じなのだ。
大切な兄であるのに、肝心の本人が自分を“感情のある一人の人間”として扱っていない——そんなもどかしさ。
「あの、王弟殿下って……その方は、セリウス様の何なの?」
問うと、エミリアの長い睫毛がふるりと揺れた。
ほんの一瞬だけ言葉を選ぶ沈黙が流れ、その後で彼女は淡々と、しかし容赦なく言い放つ。
「会ったことはないわ。でも、ひとつだけ確実に言える」
小さく鼻で笑う。
あまりにすっきりとした声だった。
「大嫌いよ」
切れ味のよいひと言が、ローワンの胸のざわつきを見事に断ち切った。
「乳兄弟として育ったのは理解できるわ。でも、自分で身を守れる年になっても離さないなんて……お兄さまの立場が悪くなるだけでしょう?
余計な嫉妬や憶測も生むし」
「……でも」
(嫌な人には見えなかった)
ローワンはあの夜を思い返していた。
そうするのが当たり前のような親密な距離。静かにでも確かな愛情がこもった紅い瞳。
「好きなのよ。お兄さまはきっと、殿下のこと。そういうところが、また腹立つの」
エミリアは肩をすくめた。
「殿下がどう思っているかは知らない。でも、もし“ただの手段”じゃないのだとしたら……それはもっと残酷よ」
言葉は鋭いのに、そこには妹としてどうしようもなく兄を案じる切なさが滲んでいた。
ローワンはその横顔を見つめる。
彼女の言葉は辛辣だが、どれも愛ゆえのものだと胸にしみるように伝わってくる。
エミリアは、スカートに乾いた泥がついているのにも構わず視線を落とし、誰に向けるでもない声でぽつりと続けた。
「さっきの彼女たちの気持ちも、わかるの」
ローワンの心がひゅっと縮まった。
あの三人の冷たい視線と、エミリアの堂々とした姿が重なる。
「お兄さまを人質に取られていても、“王宮に守られている”なんて信じて疑わない人たち。
——教会に預けられたときと同じね」
その声音は静かだったが、奥底に鋭い刃を潜ませていた。
「本当にお兄さまのためなの?
国の安寧という言葉で、どんな理不尽も正当化される。
王族の都合に合わせて従うだけの一族なんて……もう必要ないのよ」
息を吸うようにして言葉を閉じたエミリアの横顔は、怒りよりむしろ長く積もった悲しみの色が深かった。
強く、しなやかで、優しい心だからこそ、世界の冷たさを憎まずにはいられない——。
ローワンは刺すような言葉の奥に潜む、その痛みを確かに感じ取った。
何も言えずにいると、エミリアがちらりとこちらを見てふっと微笑む。
ほんの少しだけ、自分の鋭さを反省するような、柔らかな苦笑い。
「……なんてね。極論よ、極論。こうでも言わないと、腑が煮えくり返ってしまうもの」
べーっと小さく舌を出すその仕草は、さっきまで鋭い刃のような言葉を放っていた人物とは思えないほど無邪気だった。
けれどその瞳の奥には、まだ消えきらない静かな怒りが宿っている。
強くて、真っ直ぐで、柔らかい。
触れればあたたかいのに、同時にどこか遠くの風をまとっているような、不思議な気高さがあった。
(……すごい人だ)
胸の奥で、かすかな音がした。
名のつけづらい、ほんのひと粒の感情が芽を覗かせる。
追いつきたい、並びたいと願うような——けれど恋と呼ぶにはあまりに淡く、色も形もまだ定まっていない。
自分の未熟さが浮き彫りになっても、不思議と苦くはなかった。
むしろ、彼女が前を歩いてくれていることが、どこか嬉しく思えた。
「……エミリアは、本当に素敵な人だね」
気づけば、その言葉がこぼれていた。
エミリアは一瞬だけ瞬きをして、それから片眉を上げ、いたずらっぽく笑った。
「でしょ?」
その笑顔があまりに自然で、強かで。
ローワンの心臓が、一拍だけ遅れて跳ねた。




