Etsi Deus non daretur(2)
数度の手技が終わるたび、侍女が入室し排出された毒の状態を確認していった。
室内には薬液と清浄炭の匂いがかすかに立ち込め、息をひそめた空気だけが重く積もる。
──その続き間。
アーサーはやはりまたその長椅子に腰かけ、肘を膝に置いたまま深く俯いていた。
肩は微動だにせず、ただ指先だけがわずかに強張っている。
呼吸の音すら抑え込んだその姿に、従者は何度声をかけようとしたが結局一言も発せられなかった。
同じ部屋の奥、丸テーブルではソレイヴァン侯爵が落ち着かぬ面持ちで椅子に腰を沈めていた。
向かいにはアーサーの侍従コリン、そしてアルヴェルが座り事の次第を共有している。
「──これに、見覚えは?」
アルヴェルが静かに問いかけ、包布に包まれた小瓶をテーブルへ置く。
侯爵はそれを見て、凍りついたように呼吸を止めた。
しかし、次に漏れた声は震えてはいたが、あくまで本物の困惑だった。
「……知りませぬ。まったく、記憶にない……。なぜ、こんな……」
眉を寄せ、額に手を当てる。先ほどの──力なく横たわる王妃の姿を思い出したのだろう、指が震えていた。
アルヴェルはその様子をじっと観察し、確信した。
(……この反応。少なくとも、侯爵本人は“本当に”知らない)
王妃に対面した時の、侯爵の取り乱し方。
現在の狼狽ともつかぬ動揺。
どちらも、作り物の演技とは明らかに違っていた。
だからこそアルヴェルは、ゆるく息を吐いてから言った。
「──ご安心を。これは、あくまで“確認”です。
ただ、王妃殿下は依然として危険な状態にあります。心当たりのあることは、どんな些細なことでもお伝えください」
その柔らかい声音とは裏腹に、侯爵は深く青ざめたままだった。
アーサーは沈黙したまま、動かない。
その沈黙が、部屋全体の空気をさらに重く押し潰していった。
*
あっという間に一刻が過ぎた。
王妃ソフィアは、ぎりぎりで毒の侵攻に耐えていた。
呼吸は浅く、胸はひきつるように細かく上下し、頬の血色はほとんど失われている。それでも意識の灯だけは、揺らめく炎のように辛うじて世界を捉え続けていた。
侍女長は、身の潔白を証明されたあとも震えを止められなかった。泣き腫らした目は真っ赤に爛れ、ほどけた髪もそのままに、何度も何度も寝衣を替え続ける。
毒が排出されるたび、布は瞬く間に役目を失い、侍女長の手元で次々と新しいものへと変えられていった。
「どうか……どうか……」
掠れたその声は、祈りとも懺悔とも区別のつかぬ響きで、空気に溶けながら、ただ王妃の枕辺へと落ちていった。
毒の出どころがソフィアの母──マリアである。その可能性が濃厚になった瞬間、ソレイヴァン侯爵の胸の奥に、鈍い刃がねじ込まれたような痛みが走った。
強張った表情のまま、彼はアルヴェルとコリンを前に立ち、ゆっくりと息を吸う。
目は赤く滲んでいるのに、口から出る声だけは揺らぎを許さなかった。
「……一刻も早く、捕らえて下さい。陛下にも……ご迷惑をおかけした」
ほんのわずかな震えが滲んだ。
それでもその声音には、“妻を庇う夫”としての影は微塵もない。あったのは、領主として国に仇なす者を見逃すまいとする覚悟──それこそが、ヴィルヘルム・フォン・ソレイヴァンらしい判断だった。
ほどなくして、窓の外を近衛騎士団の赤い旗が風を切って走り抜けていくのが見えた。
侯爵はその光景を横目に捉えた瞬間、固く噛みしめていた口元を、ふいに緩めた。
「……わからないのです」
押し殺していたものが堰を切ったようにこぼれ落ちた。
これまで彼が私情を表に出すことなど一度もなかった。厳格で、合理的で、潔癖──アルヴェルは、侯爵という人物から“温度”を感じたことはほとんどなかった。
だが今、彼の声には確かに痛みと困惑が滲んでいた。
「母親が、なぜ……と思うのです。ですが、『何かの間違いだ』と断言できるほど、私は……マリアのことを理解していなかったのかもしれません」
搾り出すような告白だった。
その肩は、責務を背負う者ではなく、一人の夫のそれに見えた。
「娘が妃となった時……娘以上に、あの人は喜んでいたというのに」
そこで言葉は途切れた。
侯爵は口を閉ざし、わずかに震える手だけが、彼の動揺を物語っていた。
父としての悔恨か、夫としての迷いか。あるいは領主としての責務と、人としての情のあいだで千切れそうに揺れる心か。侯爵の横顔は、どれともつかぬ影をまとっていた。
アルヴェルはその沈痛な表情をそっと盗み見て、胸の奥がひゅっと締めつけられる。
(……この人ほど理知的な領主でも、答えを見失うほどに。これは“家族”にしか生まれない痛みなのだな)
ソレイヴァン侯爵の崩れ方は、静かで、淡い。泣き叫ぶこともなく、ただ長い年月を誠実に生きてきた男が、それでも辿りつけなかった“真実”と向き合わされている。その苦さだけが滲んでいた。
アルヴェルはそっとまぶたを伏せた。
この国に生きる者は皆、それぞれ守りたいものを抱えている。
それと同時に痛みをも抱え、前へ進むしかない──。国王、アーサーも例外でなく。
自分は、守るばかりで痛みを引き受ける覚悟が真にできていたのだろうか。
ソフィアの呼吸がようやく穏やかになった頃、アーサーが長椅子から静かに立ち上がった。
肩の力がほんの少し抜けており、緊張の糸がようやく解けたのがわかる。エルネストが声をかけるより早く、彼は王妃の枕元へ戻っていった。
その入れ替わりのように、処置を終えたラシードとセリウスが隣室へ現れる。
ソレイヴァン侯爵はまだ目のふちに痛みを宿したまま二人を見やり、ほんの少しだけ表情を和らげ、深々と頭を下げた。
まさか自らが辺境に押しやった”神の御子”の手を借りることになろうとは思いもよらなかったであろう。彼は、顔を上げるともう一度彼はセリウスを見て、わずかに逡巡した後「……感謝する」と静かにだがはっきりとそう言った。
医官の二人は静かに礼を受け止めて、頭を下げる。
顔を上げたとき、セリウスはアルヴェルがまっすぐこちらを見ていることに気づき『力は使っていません』とその意思を、軽い会釈だけで控えめに伝えた。
ここまで来れば、最悪の事態はひとまず回避できた。
とはいえ心肺の疲弊は明らかで、油断はまだ許されない。
「ここからは先生と私で十分だ。……貴殿は下がりなさい」
ラシードは穏やかだが、有無を言わせぬ口調でセリウスに告げた。
──追い出すのではない。これは“守っている”のだ。
ラシードの意図が痛いほど理解できるだけに、セリウスは逆らわずに静かに一礼し、部屋をあとにする。廊下に出て扉が閉まった瞬間、緊張の糸がぷつりと切れたように、胸の奥のざわめきがこぼれ出した。
まだ動揺が残っていた。
それでも足を動かし、庭へ続く回廊を抜ける。
助けなければ、と思うほど、自制が利かずに危うく力を使いそうになった。セリウスは微かに震える指先を強く握りしめた。
例の坪庭に出ると、暖かな空気が皮膚に触れて、ようやく呼吸が深くなる。
夕暮れの光が砂利を淡く照らし、空は藍に沈みかけていた。
「……ふう」
胸の奥にたまった空気を吐き出し、背もたれのない石の縁にそっと腰を下ろす。
今日一日で強張った肩が、ようやく自分のものに戻っていくようだった。
すっかり遅くなってしまった。早く帰ろう──
もう、温かい部屋で、静かに落ち着きたかった。
*
石畳に落ちる夕影は長くのび、庭の木々は静かにざわめいていた。
アルヴェルは前方の白銀の髪が風に揺れているのを見ながら静かに歩み寄った。
それに気づいてセリウスは石の縁から立ち上がる。
彼は、いつでも一礼して身を引ける――そんな慎ましい距離を保ったまま、静かに待っていた。
その姿を見ただけで、胸がひりつく。
「……お疲れだったな。兄上も、そして王妃も救われた」
「いいえ。私はただ、与えられた務めを果たしただけです」
日暮れの光がふたりの間を細く縫う。その細い縁を、アルヴェルは一歩、また一歩と越えていく。
言わねばならないことがあった。痛みも背負わずには守れないのだから。
「今日のことで……、いや、そうでなくても」
アルヴェルは一度、言葉を区切った。
声はかすかに揺れていたが、それを自覚する余裕はなかった。
「俺は決めねばならない。王族として、この国の未来のために——揺るがぬ覚悟を」
沈みかけた陽が、斜めに差し込み、セリウスの横顔を淡く照らす。
白い睫毛がほんの一瞬だけ揺れたが、表情は崩れなかった。何を言わんとしているのか見当がついているのだろう。
「……そのような決断をなさるまでに」
セリウスは、静かに口を開いた。
「私の存在が、余計な憶測を生み、殿下のお立場を曇らせていたのでしたら——それは、私の不徳に他なりません」
謝罪の声音は、淡々としていた。感情より先に、整理された理屈が並べられる。
アルヴェルは目を瞬いた。
拒まれた、というより——話の前提をすり替えられたような感覚だった。
「……そのような意図で話したつもりはない」
「承知しております」
即答だった。その速さが、かえって線を引く。
セリウスは、かすかに微笑んだ。礼儀として整えられた、けれどどこか儚い笑み。
「……お二人が、ずっと兄弟のように扱ってくださったので。その距離が、私にとっても——正しいものだと、思い込んでおりました」
そこで、ふっと視線を落とす。長い睫毛の影が、頬に落ちる。
「私は本来、殿下方の“万が一”に備えて配置された存在です。個人的な情分が、判断を曇らせてよい立場ではありません」
声は穏やかだった。
あまりにも穏やかで、まるで自分のことを語っていないようだ。
「そのために生まれ、そのためにここにいる——それを見失ってはならないと、常に肝に銘じております」
セリウスは、自らの使命を恨んではいない。御子としての覚悟も、揺らいでいない。
けれど——アルヴェルだけには、別の想いがある。
その想いが現実と交わらないことを、誰よりも理解しているからこそ。
言葉の端が、かすかに震えた。
アルヴェルの胸が、熱く痛む。
「しかし、俺は……お前を、道具のようには——」
言いかけた瞬間。
セリウスは、静かに首を横に振った。感情的な拒絶ではない。何度も繰り返してきた結論をなぞるような、確かな動きだった。
「殿下のお言葉は、私には過分です」
穏やかに、しかし逃げ場なく。
「どうか——ご自身の歩むべき道を、迷われませんように」
一歩踏み込めば、抱きしめられる距離。だが動けば、すべてが壊れてしまう気がして——動けない。
セリウスは深く、深く礼をした。
「私は臣下として、殿下の身をお守りします——それ以上の立場を望むことはありません。
それだけは、お約束します」
きっぱりと線を引く声音。それなのに——瞳だけが、いまにも零れ落ちそうに揺れていた。
「……ああ、わかった」
返した声が震えていないことを、アルヴェルはただ祈るしかなかった。
(やはりな……)
拒まれたのではない。こちらが差し出そうとしたものごと、先に引き取られたような感覚だった。
覚悟を口にしたのは自分のはずなのに、結局、肝心なところはいつもセリウスが先に奪う。自分の身を斬るような言葉で、アルヴェルに“選ばせない”。身勝手な想いもそれを押し付けてしまうのではないかいう後悔も全て引き取って。
まるでアルヴェル自身がそれを望んだのではないとでも示すように。
それがどれほどやるせない想いにさせるのか、彼はきっと分かっていない。
だが皮肉にも──この瞬間になってようやく、互いに同じ想いを抱えていたのだと知ってしまった。
彼は静かに頭を下げ、一度だけ柔らかく笑うと踵を返した。白銀の髪が落ちかけた夕日に染まって美しく輝いている。
(……行け。振り返るな)
セリウスの背が回廊の角で静かに消えるまで、アルヴェルは追いすがりたい衝動を、ぎり、と歯の裏で押し殺した。
夕暮れの影が石畳に細く長く伸びている。
その中に、ふと“濃い”部分が混じっているのに気づいたのは、セリウスの足音が完全に消えてから数呼吸後のことだ。
アルヴェルは視線を向けぬまま、物陰の前へ差しかかった刹那──低く告げた。
「……盗み見るとは、趣味が悪いぞ。イシュマエル」
影がびくりと震えた。
「ど、どうして──」
「“声を潜める”のは得意らしいが、“心を潜める”ことは苦手だな」
淡い皮肉。それ以上でも以下でもない。
イシュマエルは気まずさを隠そうと、しゃがんだまま、ひきつった笑みを見せた。
「す、すみません。あの……殿下が心配で……」
「なら医局へ戻れ。──お前の好奇心は、ここでは不要だ」
冷え冷えとはしていない。だが、曖昧さを一切許さぬ“線”だけが凛としていた。
イシュマエルは言葉を探したものの、結局ただ深く頭を下げるしかなかったが、アルヴェルはその様子を確認さえせず、振り向きもしない。歩み去る背には、先ほどまでセリウスと向き合っていたときの揺らぎは微塵も残っていなかった。




