↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神の国 1  作者: 大福駒子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/80

Etsi Deus non daretur(1)


 執務室の扉が荒々しく叩かれた。

 アーサーは書類に落としていた視線を上げ、眉を寄せる。


「陛下──王妃殿下が……危篤にございます!」


 報告に来た従者の顔色は、まさに血の気が引いていた。


「……なんだと」


 椅子が床を引きずる音すら聞こえなかった。

 ほとんど跳ねるように立ち上がり、アーサーは従者を押しのけて廊下へ出た。


 王妃の部屋へ向かう道を、彼はただ駆けた。

 抑えていた感情が一気に胸の奥から噴き上がる。


(ソフィア……なぜだ。今、何が──)


 到着した部屋の前では侍女たちが泣きそうな顔で控え、医官が慌ただしく出入りしていた。

 アーサーが姿を見せるなり、道が割れる。


「陛下……こちらへ」


 エルネストが深刻な顔で出迎えた。いつもの穏やかさはどこにもない。


「状態はどうだ、エルネスト」


 王の声は低く、震えていた。


 医師は一瞬だけ視線を伏せ、それから真っ直ぐ国王を見た。


「……王妃殿下は、強い毒を摂取された疑いがあります」


「毒……だと?」


 胸の奥で冷たいものが弾けた。

 毒──この王宮の中で、ソフィアに毒が?


 アーサーの表情が激しく揺らいだのを見て、エルネストは続ける。


「摂取量はごく少量。しかし、体質と虚弱さが災いして急速に症状が進んでおります。嘔吐も叶わず、毒がほとんど体内に残ったまま……」


「処置は?」


「至急、炭を投与し、毒の吸収を抑えています。」


「……助かるのか?」


 その声は、王ではなく、一人の夫のものだった。


 エルネストは、長い沈黙ののち、静かに答えた。


「まだ望みはあります。ただ──時間との勝負です。炭と中和薬の調合を急がせています。陛下、殿下のそばにお付き添いください」


 アーサーはわずかに目を伏せ、短く頷いた。


 王妃をエルネストたちに託すと、続き間へ移り、扉脇の長椅子に腰を下ろす。

 膝に肘を置き、額を覆う──いまの自分は、さぞ見苦しい顔をしているだろうと思った。


 ほどなく、規則正しい足音が近づいてくる。

 手入れの行き届いた靴の爪先が視界の端に入り、アーサーは侍従のコリンだと察した。


 顔を上げないまま、「……なんだ」と低く問う。


「まだ断定はできません。しかし──妃殿下の私物の中から、“意図して精製された毒物”と思われる小瓶が見つかりました」


 アーサーの目が鋭く見開かれた。


「……何だと」


「侍女たちの証言では、数日前に“母君より贈り物が届いた”と」


 王の表情が一瞬で凍りつく。


「──母君が……ソフィアに?」


 言葉は低い。

 静かな怒りほど危険なものはない。


 しかしコリンはさらに言う。


「陛下、まずは殿下をお助けすることをお考えください。まだ望みは残っています。

 セリウス殿にも応援を頼む手があります。あの方の力は──」


「駄目だ」


 アーサーはコリンの言葉を遮るように、低く鋭く言った。


「……彼に頼るのは、最後の手段だ。」


 それ以上は言わせまいとする気迫。その裏で、言葉にならない感情が喉を塞ぐ。


「あれは……必要以上に負担を強いる」


 噛みしめた唇が白くなる。

 目を伏せたその奥で、遠い記憶が疼いた。


(母上の病床で、小さな手を擦り切れるほど祈っていた彼を……のみならず父上の時も血の気を失って倒れていた彼を……。あれがどれほど“削られる力”なのか、私たちは知っている)


 アルヴェルが怯えるのも無理はない。

 ──そう思うたび、胸の奥が痛む。


「……ソフィア。頼む、耐えてくれ」


 王の祈りは、小さく、震えていた。

 誰にも届くはずのない苦悩が、ただ王妃の寝台へ向けて流れ落ちる。



 知らせを受けて駆けつけたアルヴェルは、兄の横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。あのアーサーが、こんなにも沈んだ顔をしている。


「兄上……」


 呼びかける声は、自分でも驚くほどか細かった。

 アーサーは短く息を吐き、低く告げる。


「……ソフィアが倒れた。毒だと」


 その言葉は、重く、鈍く、胸の中心に落ちた。

 驚愕と同時に、兄の苦悩に思い至り、アルヴェルは唇を噛む。侍従コリンが傍らに控えているのを横目で確認してから、声を落とした。


「兄上……。先日の会議のあと、“備え”についてお話を伺いました」


 アーサーの肩が、わずかに揺れた。


 ああ──今、その話を出すのか。

 だが、そういう世界なのだ。王族であるということは、愛情より先に“国”があるということ。


 アルヴェルは兄の痛みを噛みしめながら、顔を上げた。


「後継としての覚悟を持て、と。……もし兄上に万が一があった時は、私が、国を……。ですが、私は」


 本当は望んでいない。

 その座を望めば──セリウスを失う未来を受け入れることになる。


 アーサーはゆっくりと首を振った。


「私の心を思って口をつぐむ。そんな弟が王になれるものか」


 口調はからかうように軽く、それでも目の奥はひどく疲れていた。


 彼は一歩近づき、アルヴェルの肩に手を置いた。


「……だがな。私がソフィアをどれほど愛しているか、お前は知っているだろう」


「……はい」


「覚悟とは、つまりそういうことだ。おまえにも……いるのだろう?」


 喉がひくりと鳴る。隠すつもりのない反応が漏れ、アーサーはわずかに目を細めた。

 弟の胸の内をすでに知っている者の、それは静かなまなざし。


「いいか、アルヴェル。道を選ぶのはおまえ自身だ。

 どちらを選んでも、覚悟は必要だ。……私がそうであるように」


 それだけ言うと、アーサーは奥の部屋へと歩いていき、倒れた妻の傍らにひざまずいた。


 静寂が戻る。

 残されたアルヴェルは、胸に沈む重みに抗えず、その場に立ち尽くした。


 王族としての義務か。

 それとも──セリウスへの想いか。


 答えはまだ、どこにもなかった。



 回廊の端に立った瞬間、張りつめた空気が肌を刺した。

 いつもなら昼下がりの光が穏やかに満ちているはずなのに、今日はまるで壁の向こうで嵐が起きているようだ。


(……何か、あった?)


 本日の孤児受け入れ政策の会議に、王弟アルヴェルの姿はなかった。

 補助金の最終調整をするはずだった諸侯たちは肩透かしを食らい、廊下では「延期か?」「何があった?」という囁きが飛び交っている。


 セリウスも会議後の習慣どおり庭を見に来ていたが、回廊の向こうで人々が落ち着きなく行き交う様子に、胸の奥がじわりと冷えていった。


 ──この気配。

 過去にも、似た空気を感じたことがある。


 セリウスは小さく眉を寄せたそのとき、往来の中を足早に進むエルネストの姿が目に入った。


「エルネスト先生?」


 声をかけると、医官長は一瞬だけ足を止め、努めて明るい声を作る。


「おや、こんなところで。いやね、呼ばれて来てみたが、ただの腹痛らしい。大したことはないよ」


 軽く笑ったはずの口元とは裏腹に、その目だけは深く沈んでいた。

 さらに後ろを歩くラシードの袖のあたりに、薄くこびりついた黒ずみの汚れが見えた瞬間──セリウスの胸の温度がすっと落ちる。


「……毒、ですか?」


 小さく問うたのに、あまりに核心を突いていたため、エルネストの肩がわずかに揺れた。


 沈黙ののち、医官長はゆっくり首を横に振った。


「本当に……お前のそういうところは、時々困るよ」


 苦い息を落として言う。


「アーサー王はな、お前にこれ以上負担を背負わせることを誰よりも嫌っている。

 それに今は、まだ我々の仕事として収まっている状況だ。お前が出る幕ではない」


 それは優しさだ。

 けれど同時に──“状況は刻一刻と悪くなっている”という遠まわしな警告でもあった。


 セリウスは少しだけ目を伏せ、それから静かに顔を上げる。


「……それなら」


 柔らかく微笑んだ。


「お手伝いさせてください。

 その……先生の心臓が、心配ですから」


 エルネストは思わず目を瞬いた。


 この青年は、こんな時でさえまず誰かの身体を気遣う。

 自分を守ることより、他者を思うことが先に来る──昔と何も変わらない。


(……まったく、この子は)


 そう思うのと同時に胸が痛む。

 これは優しさなんかじゃない。この青年が生きると決めてしまった“姿勢”そのものだ。


 本来なら、王族こそが“命を差し出す側”であるべきなのだ。

 癒しの力は長い歴史の中で祝福と崇拝の対象となりながらも、同時に国に囲われ、利用され続けてきた。

 聖なる力を家門の安泰のために使わせる──そんな時代は本来、終わらなければならない。


 だからこそ、王はセリウスを止めようとする。

 王族こそ痛みを引き受けるべきだと知っているからだ。


 そして、国王アーサーが止める理由はもうひとつある。


 兄弟そろって、同じ光景を見てしまっているからだ。

 幼い頃、父王に祈りを捧げるセリウスの小さな背中──

 “祝福”としてではなく、半ば“道具”として扱われる姿を、あまりにも近い距離で見てしまった。


 誰より家族のように大切だった少年が、誰かの都合で痛みに晒される。

 あの時感じた怒りと悔しさは、今も二人の胸に棘のように残っている。


 だが現実には、長い歴史の惰性のまま、周囲の大人たちはセリウスに“救いの役”を当然のように背負わせてきた。

 そして彼自身もまた、それを疑うことなく引き受け続けている。


 だから守りたい。

 親類や縁戚がどう言おうと、王家の慣習がどうであろうと──彼だけは、二度とあの役目に押し戻したくない。

 長く王宮で二人を見てきたからこそ、エルネストにはそれが分かった。


 ──これ以上、またこの子の身体が削られるのを自分とて見たくはない。だが同時に、今は本当に人手が足りていない。

 そしてこの青年の手際と経験は、若い医官たちよりもはるかに頼もしかった。


 理性は“借りるべきだ”と告げる。

 心は“借りるな”と叫ぶ。


 その狭間で揺れながら──エルネストは深く息を吐いた。


(……ああ、私は結局この子に甘い)


「……無理はするなよ。手を借りよう、セリウス」


 そう告げた声が、かすかに震えたことに気づいたのは、他でもない自分だけだった。



 エルネストはソフィアの蒼白な唇を見て、胸の奥がじくりと痛んだ。


(間に合うかどうか、すでに瀬戸際だ。だが、この子まで巻き込むわけには……)


 銀髪の青年が隣で息を呑む気配がする。


「この意識では嚥下も難しい、……なにか直接…いや、……」


 セリウスは怖気づくように言葉を引っ込めた。彼がここまで口ごもるのは珍しい。エルネストはちらりと横目で見て、静かに促した。


「言いなさい」


 青年はしばし視線を彷徨わせ、決意を固めるように息を整えた。


「……飲めぬのなら、直接入れる必要があると思ったのです。喉を通さず、管を使って。しかし、前例もありませんし……王妃殿下に苦痛を与える可能性が高く……」


言いながら、彼は自分がどれほど無茶を提案したかようやく実感したのだろう。肩をすぼめてしまう。

 エルネストは一瞬だけ目を閉じた。


(こんな方法を“思いついてしまう”ところが、この子の強さであり、危うさだな……)


 セリウスが恐れる“前例のなさ”に、エルネストも同じ懸念を抱えていた。だが、それ以上に──


(誰よりも手を汚す覚悟があるくせに、自分の傷には無自覚なんだな)


 思わず苦笑が漏れそうになる。状況的には笑っている場合ではないのだが。

 エルネストは重い息を吐き、しかし声は穏やかに保った。


「……方法としては理にかなっている。苦痛はあるだろうが、苦痛と命どちらを取るかと言われれば……答えは決まっている」


セリウスがはっと顔を上げる。

 だが、エルネストは軽く指を上げて制した。


「ただし。私が主導する。お前はラシードと共に補助に回れ。それ以上踏み込めば、アーサー王に殴られるぞ」


少しだけ冗談めかして言うと、セリウスはかすかに頬を赤らめ、うなずいた。


「……はい」


 エルネストはその反応に胸の奥の重みをほんの少しだけ和らげながら、再びソフィアの容態へと意識を向けた。


(間に合わせる。何としてでも)


 彼女の命のためだけではない。

 この無茶な青年が、また自分を責めずに済むように。



 エルネストがアーサーへ治療の説明をしているあいだ、セリウスは助手のラシードと共に医局の機材室へ向かっていた。


「羊の腸管がまだ残っているはずだ。あれが使える」


 ラシードが足早に棚を探り、塩水で洗浄されて乾かしておいた腸管を取り出す。鍋に入れて煮沸すると、ぎゅっと締まり、薄膜に張りが出た。


「適度な強度もある。太さも問題なさそうだな」


 セリウスは無駄のない動きで器具を整え、ラシードはその横顔をちらと覗く。

 彼の落ち着きは、若さを考えれば異常ですらあった。

 ラシードは思わず小さく息を漏らす。


「巻き込んで悪いな。……ただ、先に言っておく」


 背中を向けているセリウスへ、静かに声を落とす。


「エルネスト先生には、過去にも“君のような教え子”を失った例がある。聞いたことがあるだろう。

 だから、決して独断であの力を使うな。」


煮沸の音だけが鳴る静かな部屋で、ラシードの声だけがひどく冷静に響く。


「君が命を削って力を使えば、傷つくのは君だけじゃない。そのたびにエルネスト先生は、自分の無力を思い知らされるんだ。あの人に、また同じ思いをさせる気か?」


そこまで言って、ラシードはふと息を止めた。背を向けたままの青年の細い肩を見つめ、言葉をさらに低く落とす。


「……それに、君が自分の満足のために動けば──救えたはずの患者を取り逃がす。

 医学者として成長する機会も、仲間から奪うことになる」


匙を握る手が、わずかに震えた。


「医者なら……いや、君が君自身でいたいなら、覚えておけ。セリウス殿」


 それは叱責ではなく、祈りにも似た懇願だった。

 医師の力が届く場所まで、どうか降りてきてほしい──そんな哀しい願い。


 セリウスは振り返らないまま、小さく息を吸った。


「……わかっています」


 その声には迷いはなく、ただ静かな覚悟だけがあった。

 そう返したちょうどそのとき、がらり、と戸が開いた。


「どうしたんです? 二人して真剣な顔で」


 イシュマエルだった。いつもの明るい声だが、どこか底にざらつくものが混じっている。セリウスはそれをすぐに感じ取ったらしい。


 だが、表情ひとつ変えず、柔らかく微笑んだ。


「少し個人的なお願いで、ラシード殿に手伝っていただいていたのです」


 その物腰の静けさは、“ここから先には踏み込ませない”という固い意志を秘めている。

 ラシードもすかさず言葉を添えた。


「ここはもう私だけで大丈夫だ。お前は自分の仕事に戻れ」


「え〜、ずるいですよ」

 不満げなイシュマエルに、セリウスは一層穏やかな声で続ける。


「手は足りていますから。すみません、助かります」


 その丁寧さに、イシュマエルは諦めるように笑った。


「……そうですよね。失礼しました」


 戸が閉まる。

 二人は同時に、深く息を吐いた。


「行こう」

「ええ、急がないと」


 道具を抱え、二人は再び回廊を駆け戻った。

 王妃の命の灯は、確実に短くなりつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。