花街
──舞台は半年ほど前に遡る。
王城のほど近く、夜の花街は昼とはまるで別の生き物のようだった。
表通りでは灯りがきらめき、人々の笑い声と酒の匂いが渦巻く。だが一歩裏に入れば、膨れた影が壁に貼りつき、痩せた子どもや身を寄せる女たちの静かな諦念が、薄い霧のように漂っている。
セリウスは医務局の職務を終えた夕刻、この路地へよく足を運んでいた。
孤児に食糧を届け、怪我を手当てし、読み書きを教える。
それは義務でも慈善でもない。
ただ──自分の手で触れたものが壊れずに済むことを、信じたかった。
だが、その花街にはしばらく前から不穏な噂が立っていた。
夜鷹が狙われ、衣服を剥がれ、残酷に傷つけられ、命を奪われる事件が相次いでいるという。
黒い闇が形を得たような話だった。
その夜も子どもたちと過ごしているうちに思った以上に時間が経っていた。
路地に出ると、風が囁くように通り過ぎる。セリウスは外套の留め具を押さえて、少し早足になった。
と、その先で、崩れた木箱の影がかすかに揺れた。
猫か、野犬か。
そう思って通り過ぎようとした瞬間──視界が、ぱたりと、音もなく沈んだ。
重い衝撃が頭に落ちた。
世界が揺れ、鼓動だけが異様に耳へ響く。遅れて訪れる痛み、痺れ。
次にセリウスの目が開き、背後に何者かがいると気づいた時には、すでに遅かった。
腕は容赦なく捻り上げられている。
松明の揺れる赤が、視界の端を舐める。
その向こうに、見慣れた葡萄色の近衛兵の制服。
助かった──
そう思ったのは、ほんの刹那。
「顔を上げさせろ。……フードを取れ」
有無を言わせぬ声。
外套が乱暴に剥がされ、白銀の髪が夜気にさらされる。
「こいつは……」
兵たちの顔に、驚愕と、困惑と、そして説明のつかない嫌悪が落ちた。
「私は──宮廷医務局の、セリウスと申──」
名乗りかけた言葉は、踏みつけられたかのように途中で消えた。
人垣が静かに割れる。
濃い葡萄色の上衣。真っ直ぐな背。
月光のない夜でもはっきり分かる、揺るぎない足取り。
アルヴェルだった。
彼の瞳がセリウスを捉え、そこで止まる。
まるで心のどこかが急に凍りついたかのような、動かない沈黙。
「……なぜ、お前が」
その呟きに責める色はなかった。痛みでもない。
ただ、現実が理解の外にあるとき、人が漏らす素朴な戸惑いだった。
「閣下!連続暴行殺人の犯人、ようやく捕えました!」
兵の声は誇らしげで、揺るぎない。
その直後、セリウスは見てしまった。
転がる影。
衣服を血に濡らした女。
もう動かない肩。
冷えた夜の中で、死だけが妙に鮮明だった。
否定しようと口を開くが、喉は石のように固まっている。
視線を逸らせば、その瞬間、自分の世界が崩れ落ちる気がした。
一人の近衛兵がアルヴェルの耳もとへ身を寄せ、低く何事か囁いた。
その瞬間、アルヴェルの眉がわずかに揺れた。
ほんの刹那の、それこそ風が触れただけの変化。
けれど、セリウスの目には、何より痛烈に映った。
兵が離れても、アルヴェルの瞳は動かない。
ただ、凪いだ水面のように静まり返り、底がまったく見えない。
「──連れてゆけ」
その一言は、冷たかったわけではない。
怒りでも、嘲りでも、失望でもない。
だが、あまりにも温度がなくて──
胸のどこか大切な場所を、鋭い氷片でなぞられたようだった。
セリウスは息を吸おうとしたが、喉が閉じてしまう。
言葉がひとつも浮かばない。
ただ、世界の色がすっと遠のくのを感じる。
ほんの一瞬、アルヴェルと視線が合った。
その目は、誰より誠実で、誰より真っ直ぐな人のものなのに。
──どうして、こんなものを見せてしまったのだろう。
胸を刺す痛みを隠すように、セリウスは視線を落とそうとした。
しかし、先に逸らしたのはアルヴェルの方だった。
彼の肩が、静かにきびすを返す。
葡萄色の外套が夜風に揺れ、背の高い影が遠ざかっていく。
呼び止めたいなどとは、思わなかった。
ただ胸の奥を締めつけたのは、
“また自分が彼に余計な重荷を背負わせてしまう”その事実だった。
近衛の視線が、縄で拘束された自分と、王弟アルヴェルの間を何度も往復するのが分かる。
彼がどれほど清廉で、公正で、誤解を受けやすい人柄かを知っている。
そして同時に、宮廷の噂がどれほど残酷なのかも。
“王弟のお気に入り”──
そんな半端に甘い言葉で括られてきた自分の存在が、今この瞬間、彼の名誉まで汚そうとしている。
縄を引かれ、俯いた拍子に額が石畳に触れた。
その冷たさよりもなお冷たい恐怖が、胸の内でじわりと広がる。
(どうして、私は……)
責めても仕方のない問いが、喉奥で震えて消えた。
声は出ない。出してはならない気がした。
アルヴェルがただ一歩、遠ざかる。
その足音がやけに深く響き、空洞になった胸に落ちていく。
自分のせいで、彼の歩みが揺らぐかもしれない。
その恐れだけが、鋭い痛みとなってセリウスの内側を裂いた。
セリウスの胸の奥で、なにかがきし……と音を立てる。
その音だけが、この夜、確かに自分のものだった。




