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女神の国 1  作者: 大福駒子


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32/80

見守る光


 翌朝、ローワンが食堂に降りると、セリウスはすでに軽い朝食を終え、薄手の外套の袖口を整えているところだった。こちらに気づくと、柔らかな微笑みを向ける。


「準備はできているかい?」


 穏やかな声にローワンは慌てて背筋を伸ばし、「はい」と答える。

 セリウスは満足そうに目を細めた。その自然な仕草が、なぜだか普段より胸に響く。


 ──昨日のお願いのせいだ。


 ランドフォード男爵に挨拶に行きたい、とあえて明るく切り出したあの時から、セリウスを見るたび妙に意識してしまう。彼の視線が自分のどこを見ているのか、いつも以上に気になって仕方ない。


 思えば故郷にいた頃、セリウスの家へこっそり通っていたときも、母リディアのしぐさを過剰に窺っていた。あの感じに少し似ている。


(なんだか……ひどく悪いことをしている気分だ)


 ローワンは自分で自分に首を振り、頭の中のもやを振り払うと、席につき、急いで朝食をかき込んだ。



 王都でも仕立ての良さで知られる老舗《シエラ洋装店》。

 扉を押し開けると、乾いた布の匂いと、陽に透かした絹の柔らかい光が迎えてくれた。


「まあまあ、若君──お久しゅうございます」


 店の女主人シエラが、背筋をすっと伸ばして礼をする。

 年季の入った指先は、触れただけで布の値打ちも縫い目の機嫌も分かると言われる名職人だ。


 セリウスは控えめに口元を緩めた。

「この子の学用品を整えてやりたくて。頼めるだろうか」


「もちろんでございますとも。さっそく見立てましょう」


 ローワンは案内されるまま、姿見の前へ。

 シエラは軽やかな手つきでメジャーを巻きつけ、肩や肘に触れて寸法を測っていく。


「腕が長いわね。成長期かしら? ……ふふ、良い兆しよ」


 シエラは職人らしく淡々と、それでいてどこか楽しげだった。


 その横で、セリウスは黙って控えている。

 穏やかな表情のまま、しかし見守り方が少しだけ過保護めで──ローワンは落ち着かず視線をそらした。


(そんな優しい目をされたら……余計に気まずいよ)


 ルナのチャームのこと。

 ランドフォード男爵に確かめたい疑問。

 セリウスを巻き込みたくない、でも目を逸らすわけにもいかない。


 胸の奥がきゅっと痛んだ。


「こちらなど、どうかしら」


 シエラがいくつかの生地を広げる。

 落ち着いた墨色、深いマルーン、淡い灰青──どれも王都らしい気品を帯びた色合いだ。


 ローワンが迷っていると、セリウスが静かに一歩近づいた。

 布に指先を触れ、控えめな声で言う。


「これはどうだろう。

……ローワン、少し光に当たってみて?」


 言われるまま窓辺に移ると、生地はしっとりと濡れたような赤みを帯びて見えた。


「君の瞳によく合う」


 さらりと告げられたその一言に、シエラが小さくくすっと笑う。

 ローワンの耳はじんわり赤くなった。


「どうかな」

と顔色を伺うように覗き込んでくるセリウスを避けるように、ローワンはその生地で顔の前に壁をつくり、


「ではこれでお願いします」


と逃げるように答えた。


(……褒めてくれてるのは分かるんだけど……!)


「うふふ、ではその色でお仕立ていたしましょう。

ジャケットとシャツ、それから予備のものも数枚。開校式には間に合わせますわ」


「助かるよ」


 セリウスが丁寧に礼を述べる。

 その横顔はいつもどおり穏やかなのに、ローワンの胸はなぜかざわついたままだった。



 店を出ると、陽射しが優しく街路を照らしていた。

 ローワンは新しい服がどんな仕上がりになるかを想像して、ほんの少し胸が躍る。

 その様子を横目で見て、セリウスはふっと笑った。


「似合うだろうね。ローワンが新しい場所に立つのを見るのが、私も楽しみだよ」


 穏やかな声。

 ただそれだけなのに、胸の奥が少しきゅっとなる。


 ポケットの中には、例のチャーム。

 その重みが、今日もローワンの心を静かに揺らしていた。



 二人は小さなティーサロンでひと息ついていた。

 ローワンは温かいカップを両手で包み込むように持つと、急に背筋を伸ばして頭を下げた。


「本当に……ありがとうございます。まさか自分が今こうして……」


 言葉を探しながらの、拙い礼。

 けれどそれはローワンらしく、真っ直ぐで、嘘がひとつもない。


 たまたまルナを追いかけた先で──出会いは本当にそれだけのことだったのに、気付けば彼の人生は王都へと向かっていた。


 ローワン自身が「まだ信じられない」と笑うのを、セリウスは静かに聞いていた。

 ……そこまでは、いつも通りだ。いつも通りの、穏やかな関わり。


 だが──

 ローワンの最後の「親切にしてくれたおかげ」という一言に、セリウスは思わず小さく鼻で笑ってしまった。


「……君は、本気で思っているの?

 私が“ただの親切”で、ここまで連れてきたと」


 その声にはとがりはない。

 だが、柔らかいが否定できない重みが潜んでいた。

 ローワンは一瞬、言葉を失い目を瞬かせる。


 昨日からのローワンの微妙なぎこちなさのわけが、ようやく胸の奥で形になった。

 ローワンは、セリウス自身がいまだ手に余る“核心”へ、そっと近づき始めているのだ。


(できることなら……知らないままでいてほしい)


 アーサーやアルヴェルのように、初めから“王族として生まれた者”ならばともかく。

 人として、普通に生きてきたローワンに、急に世界の色を変えさせることなどしたくなかった。


 だからこそ、リディアは隠したのだ。

 そしてその選択は、セリウスにも痛いほど理解できる。


 それでも──


(私は……彼を連れてきてしまった)


 危険など承知のうえで。

 “血”に縛られず、自分の価値でまっすぐ突き進むローワンを、この目で見たかった。


 自分には到底できない生き方。

 何者でもない自分自身で輝こうとする姿。


 それを見届けたいと思うのは、結局はエゴだ。


 エゴで引っ張ってきた相手に「親切にされて」と感謝されるのは、どうにも居心地が悪い。


 ──それでも、ローワンはセリウスを気遣っている。

 自分が気づいた“何か”にセリウスを巻き込みたくないと、必死に振る舞っている。

 その不器用な優しさが、心の奥で静かに沁みていく。


 「申し訳ないが、わたしはそんなにいい人間ではないよ」


 口からこぼれたその声は、思っていたより頼りなく、セリウスは胸の奥でそっと自嘲した。


「ねえ、ローワン」


「……はい」


「何か、私に隠しているね」


 ローワンは一瞬だけ硬直した。そのまま視線を伏せ、テーブルの下でそっとポケットに手を入れる。

 まるで「覚悟」をひとつ掬い上げるようにして、ゆっくりと手を引き出した。


 ローワンの掌の上で、淡い緑の光が揺れる。

 セリウスはその小さなチャームに視線を落とした瞬間、呼吸をひとつ忘れた。


「これは…」


 ルナの首輪。それは分かる。

 だけど改めて見せられると、もっと遠い記憶の向こうで同じものを見た気がした。


「これ…は、エミリアが持っていたものです」


「え?」

セリウスは視線を上げる。


「モルフォンド侯爵様の…娘様の部屋で見つけたと」


 セリウスはそこでようやく思い出す。


「……それは、もしかしたらセリーヌ様の猫が付けていたものだよ」


 気づけば指先に力が入っていた。

 リディアには「閉じ込めてはいけない」などともっともらしいことを言っておきながら、結局のところ自分も同じだった。

 ここまで連れてきておいて、肝心の“真実”に触れる瞬間をどう導くべきかさえ決められず、ただ彼の歩みに委ねてしまっていた。


「……おかしいね。さっき君に“隠しているね?”なんて言ったくせに……」

「?」


 ローワンが不安げにこちらを見る。


「ランドフォード男爵の話を持ち出した理由も、おそらくそれだろう?」


 ローワンはぎゅっと唇を結んで視線を落とす。

 反論しないその仕草が、何よりの肯定だった。


 セリウスはふっと目を細めた。痛ましさと愛しさと、苦さと。

 そして何より、申し訳なさが胸を締める。


「……素直に打ち明けてくれて、ありがとう」


 ローワンがわずかに顔を上げる。驚いた、心を揺らす瞳だ。


「だから、私も――君に隠すべきじゃなかった。

 “いい人間ではない”なんて言ったけど……本当は、もっとずっと狡いよ。

 君にだけは、嘘をつきたくなかったのにね」


 淡い緑光を見つめるセリウスの横顔は、静かで、どこか脆くて。

 それでいて、なぜか凛として美しかった。


「ごめんね、ローワン」

小さく、しかし確かな言葉だった。


 セリウスはローワンの掌に載せられた淡緑の光──ペリドットのチャームを見つめたまま、しばし沈黙した。


「私はね、君が知るかもしれない“事実”を、一人で抱え込ませてしまうのが怖かった」


 そこで一度言葉を切り、息を整える。


「君は優しいから。

 遠慮して、私のためだと思って……全部ひとりで抱え込もうとするだろう?」


 図星で、ローワンはまぶたを伏せた。


「なのに私は、伝えるべきなのか、黙っているべきなのか決められなくて。

 君が知りたいと望むなら、私が力になる。だから……どんなことでもいい、頼ってほしい」


 そっと伸ばされた指が、ローワンの前のチャームに触れる。

 責めるような気配は少しもなく、むしろ自分自身に迷いを覚えているような弱ささえあった。


 それが、ローワンには何より堪えた。


 テーブルに置いた手をぎゅっと握りしめながら、ローワンはゆっくり口を開く。


「謝らないでください。ただ……僕は、知りたくて……ここまで来てしまいました」


 言いながら、自分の胸の奥で別の感情が混ざり合うのをローワンは感じていた。

 嬉しさでも、後ろめたさでも、不安でもあるような──それをうまく名前にできなかった。


(母さんのことを知りたかっただけのはずなのに。

 みんなが黙っていたのには……本当は理由があったんじゃないか?)


 その小さな疑問が、初めてかすかな痛みを伴って浮かび上がる。


「……僕、少し怖くなりました」


 正直に言葉にするのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


「最初は、自分の周りにだけある“ちいさな謎”だと思ってたんです。

 母のことも、ランドフォードの大人たちが見せるあの優しさも。

 でも……男爵様の言葉や、セリーヌ様のチャームが出てきて……全部、別のところで繋がってる気がして」


 自分でも気付くほど、呼吸は震えていた。


「それで初めて……僕自身もその輪の中にいるのかもしれないって。

 もしかしたら、踏み込むべきじゃないところに、足を入れようとしてるだけなのかもしれないって……」


 セリウスは相槌さえ挟まず、ただ受け止め続けてくれる。

 ローワンはしばらく黙っていた。

 テーブルの上の淡緑の光が、まるで心臓の鼓動みたいに見える。


 ようやく、押し出すように口を開いた。


「……あの、セリウス様」


「うん」


 ローワンは拳を握り、ほどき、また握る。

 迷って、震えて、それでも逃げたくはないという気配だけが確かにあった。


「僕……さっき“知りたい”って言ったけど……」


 言葉が喉の奥で止まる。

 けれど今度は、自分で胸の内に手を伸ばして掬い上げるように続けた。


「……まだ、心の準備ができてないです」


 率直な告白だった。

 強がりとも弱さとも違う、揺れながらも正直でいようとする声。


「全部を聞いたら……戻れなくなる気がして。

 それが怖いんだと思います」


 セリウスは遮らなかった。ただ静かに頷く。


 ローワンは続けた。


「でも……それでも……」


 揺れる瞳が、まっすぐこちらを捉えた。


「自分で辿り着きたいんです。

 誰かに“与えられる”形じゃなくて……ちゃんと、自分で」


 それは、少年の言葉にしてはずいぶん強い決意だった。

 けれど、その奥にかすかに揺れる恐怖も、純粋な好奇心も、全部そのまま透けて見える。


「だから……」


 一呼吸おいて。


「喋らなくていいです。」


 そう言い切ったローワンの声は、震えているのに、不思議と澄んでいた。


 そして、小さく、けれどはっきりと。


「でも、どうか見ていてほしい。

 僕がどこに辿り着くのか……どんな答えを見つけるのか。その全部を、セリウス様だけには見届けてほしいんです」


 その瞬間、セリウスの胸に淡い痛みが落ちた。

 悲しみでも後悔でもない。

 ただ、胸の奥に静かに広がる温度のようなもの。


 ローワンの“選びたい”という意思。

 そして“ひとりではないと確かめたい”という祈りにも似た願い。


 セリウスは深く、静かに息を吸う。


「……ああ。分かったよ、ローワン」


 その声はとても柔らかく、そしてほんの少しだけ震えていた。


「君が望むのなら……ただ隣で、見届けよう。

 答えを急がせたりはしない。

 君の歩幅で、君の目で、真実に触れればいい」


 ローワンが小さく息を吐いた。

 恐怖と、それでも握りしめた決意が入り混じった、複雑で美しい呼吸。


 セリウスはそっと微笑んだ。



 手の中の紅茶はすっかり冷めてしまっていた。


 セリウスはペリドットのチャームをそっと指先で持ち上げた。

 光を透かすようにかざすと、淡緑がわずかに揺れ、ティーサロンの陽光を飲みこんだ。


「……本当に、よく似ている」


 ぽつりと漏れた声には、記憶の底を探るような手触りがあった。


「セリーヌ様の名前を聞いて、ようやく思い出したよ。昔、セリーヌ様も猫を飼っていてね。……確か……テラ、だったかな。私も幼い頃に数えるほどしか見たことがなくて忘れていた」


 ローワンが不安げにチャームを見つめる。

「……テラ、か。テラとソルと…ルナ。」


 さっきまで胸を締めていた恐れが完全に消えたわけではない。

 それでも、新たな小さな手がかりにやっぱり嬉しさと好奇心が頭を擡げる。

 そんなローワンに、セリウスもほんのわずか、安堵の笑みをこぼした。


「ひとつずつでいい。急がなくていい。」


 淡緑の光が、ふたりの指先のあいだで静かに揺れた。



 サロンを出ると、街の陽光はすっかり傾きかけ、石畳に長い影を落としていた。

 ローワンはまだ掌の奥に残る淡緑の記憶を反芻しながら、セリウスの隣を歩く。

 さっきまで胸の奥で渦巻いていた不安は、完全に消えたわけではない。

 けれど、隣にいるセリウスの歩幅は変わらず穏やかで、その姿がまるで「大丈夫」と言ってくれているように思えた。


 そのときだった。


(……ん?)


 ローワンはふと、背中をなぞるような強い視線を感じた。

 誰かに“じっ”と、強すぎるほどの熱で見つめられているような──

 思わず振り返ると、少し先の通りの影にひとりの章が立っていた。

 栗色の髪。丸眼鏡。

 そして、こちらを見て硬直したような顔。


 驚愕とも、嫉妬とも、警戒ともつかない、妙に刺さる視線。


(……えっ? 誰?)


 彼はローワンと目が合った瞬間、はっと目を見開き、次の瞬間には表情を切り替え、ぱっとこちらに駆け寄ってきた。


「あ、セリィ!」


 ローワンに向けていたあの強い視線が嘘のように、一気に人懐っこく、あたたかい笑顔に変わって。


 セリウスは軽く目を見開き、それからすぐにほころばせる。


「おや、イシュマエル。こんなところで」


「ええ、偶然ですね。会えて嬉しいです!」


 ローワンはさっきの目つきを思い出しながら、

 あまりにも快活な態度に思わず戸惑う。

 イシュマエルの視線が自然に自分へ向いた。


「あ、えっと……初めまして?」

「ローワンです。セリウス様に……お世話になっています」


 軽く頭を下げると、イシュマエルも丁寧に微笑む。


「僕はイシュマエル。セリィ先生の医局時代の部下です。よろしくお願いしますね」


 一見、穏やかで優しい言い方。

 けれど──ほんの一拍の“間”があった。


 その瞬間の目に、あの最初に感じた刺すような視線と同じ、説明しづらい棘が潜んでいた。


(……僕、何かした……?)


 そんなはずはない。初対面だ。

 それなのに胸の奥が少しだけざわつく。


「先生に連れられるなんて、光栄ですよ。本当に、優しい方ですから」


 穏やかな声なのに、どこかひやりとした温度を帯びていて。

 ローワンの背中を小さな冷気が走る。


 セリウスは気づいた様子もなく微笑む。


「相変わらず大げさだね。また今度ゆっくり話そう」


「はい!お時間、ぜひくださいね。では!」


 イシュマエルは明るく手を振って去っていった。

 その背中が見えなくなった頃、ようやくローワンは小さく息を吐く。


(……なんだったんだ、あれ)


 セリウスは特に変わらぬ調子で言う。


「彼は、私にとても懐いてくれていてね。

 明るくて、素直で──可愛い後輩なんだ」


 ローワンはその説明を聞きながら、

 ほんの少しだけ胸のざらつきをこっそり喉の奥に押し込んだ。


(……僕の気のせい、だと思いたい)


 けれど、あの最初の刺すような視線だけは、どうしても忘れられそうになかった。

 それは敵意と呼ぶには弱すぎて、しかし好意とは呼べなかった。


 ローワンがほんの少し眉を寄せていると、隣でセリウスがゆるく首を傾けた。


「……どうしたの?」


 ローワンは一瞬迷い、けれど素直に告げる。


「いえ……あの人、ちょっと……僕にだけ、距離を置いているというか……」


 セリウスは軽く目を瞬いた。


「イシュマエルが?珍しいね。あまり人を選ばない性質なのだけれど」


 まるで本当に心当たりがないという風で、穏やかな声音には一切の陰りがなかった。


 その反応に、ローワンは逆に不思議さを覚えた。

 自分が感じた“棘”を、セリウスは感じ取っていないようだったからだ。



 ドサッ。


 真横で落ちた荷物の音に、ラシードの肩がびくりと跳ねた。

 書類に目を落としていた視線を持ち上げると、つい先ほど帰ってきたばかりの少年――イシュマエルが、大きすぎる薬草袋を乱暴に机へ置いたところだった。


「……怒ってんだろ、おまえ」

 ラシードが眉をひそめると、イシュマエルはぷい、と横を向きながら、わざとらしく淡々と答える。


「怒ってません。ひとりで行けますよ、これくらい」


 そう口では言うものの、束ねた薬草を乱暴に引きずり出す手つきには、どう見ても平静とは言いがたい棘があった。


「──そんなことより」

 瓶の底を机にコト、と置き、眼鏡の奥の瞳がゆらりと揺れる。

「さっき、セリウス先生に会ったんですけど……誰ですか、あの子」


 ラシードは息を詰め、自然と目をそらしていた。


 “あの子”。

 先日医局でも噂になった、セリウスのそばにいる少年のことだ。


 そのときのイシュマエルの視線は、まるで底の読めない深い水。

 言葉遣いは穏やかで幼ささえあるのに、感情だけが不釣り合いに重く濃い。


「……さあな。セリウス殿の知り合いだろ。ただの」

「ふぅん、知り合い、ね」


 イシュマエルはにこりと笑う。

 だがその笑みは、どこか“形だけ”器用に貼りつけたものに見えた。


「セリィ先生、変わりましたよね」

 ぽつりと落ちた言葉は、ただの感想のようにも、誰かを責める呟きにも聞こえた。


「ああ……まあ、明るくなったな」

 ラシードは当たり障りなく返しつつ、散らかった薬瓶を消毒桶へ入れていく。


 正直なところ、“彼”の話題が出るとイシュマエルは本当に扱いづらい。

 熱心、というレベルを明らかに越えている。崇拝に近い。


 セリウスが王宮内の職員宿舎に住んでいた頃は、イシュマエルの他に、王弟殿下までふらりと訪ねて来ることがあった。

 あれでは同じ寮の者たちは気まずかっただろうし、セリウスが気を遣って距離を置いていたと考えて当然だろう──と、ラシードはどうでもいいようなことを思い出しつつ、心の片隅でため息をついた。


「おまえ、ほんと好きだな」

 からかうように言うと、イシュマエルはぴしりと言葉を返す。


「そういう言い方やめてください」


 声音は穏やかで丁寧。

 だが、その次に吐き出されたひと言が、ラシードの背筋をぞわりと逆なでた。


「好きとか、そんなもので……セリィ先生を汚さないで」


 薬瓶を落としかけ、「おっと……」とラシードが慌てて手を伸ばす。


 イシュマエルは視線を手元に落とし、薬草の束を整えながら、ごく小さく、けれど確かに呟いた。


「……やっぱり、僕が守らないと」


 それは誰に向けた言葉なのか。

 ラシードは、聞こえなかったことにした。




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