御子の過去
お祈りを終え、静かな礼拝堂を出ると、シャルルはふうと短く息を吐き、隣を歩くヘレーネの肩にそっと手を回した。
「……もういっそ、ずっと二人でも良いかもしれんよ」
「え……でも……」
ヘレーネは戸惑いがちな笑みを浮かべる。
シャルルは彼女の不安を払うように、穏やかな声で続けた。
「一族のことを気にしているんだろう? 大丈夫だよ。兄さんのところには、……後継ぎに立派な男子がいるんだ。うちが焦る必要はない」
そう言って笑う夫の横顔は、以前より少し痩せたように見える。
言外に、亡くなった甥への慈しみが見えた。
大水から四年──土地の草木は逞しく芽吹き直していたが、人々の心までは、まだ完全には癒えていない。
ヘレーネの家族もまた、洪水で大きな被害を受けた。
一族にも従者にも死者は出たし、心労でヘレーネの身体はすっかり弱ってしまった。
月のものも途絶え、彼女は「自分のせいだ」と責め続けていた。
少しでも気分転換になればと、シャルルは教会裏手の丘へ誘った。
二人は手をつないで、ゆっくりと小道を登っていく。
そのとき──。
前方の茂みがガサガサと揺れ、数人の少年たちがばらばらと駆け下りてきた。
教会の見習いの子たちだろう。悪戯が見つかったのか、驚かされたのか、蜘蛛の子を散らす勢いだ。
「元気だなあ。あの頃の自分たちを見てるみたいだ」
シャルルが呟き、軽く笑う。
だが、少年たちが消えていった茂みの横に近づくにつれ、空気が変わった。
「……あれは?」
小さな影が、ひとつ。
──白い子ども。
泥にまみれ、服は破れ、腕や足には擦り傷や切り傷がいくつもあった。
シャルルは、息を呑んだ。
この子を知っている。
数年前、厩の前で見つかった、あの“光をまとう”赤ん坊。
一度は家で育てようとも考えた。しかしベルトランは自分の子を亡くした直後だったし、なによりあの大災害の後では、余計な噂を呼ぶ可能性も高かった。
皆で相談し、この教会に預けたのだ。「ここなら安心だ」と信じて。
後ろから駆け寄ったヘレーネも、その子だと気づいたらしい。
汚れるのも構わず、膝から崩れ落ちるように抱き上げた。
「なんて……なんてこと……!」
小さな子は丸く縮こまり、震えていた。
胸元には、同じく泥まみれになった小鳥。
死にかけのその小鳥に、子どもは必死に、必死に祈りを込めていた。
自身の身体の痛みなど二の次で。
──白い光が、かすかに、揺れている。
ヘレーネは震える声で呟いた。
「まだ……この子、こんなになるまで……」
そしてシャルルは確信した。
この子は、ここに置いておくべきではない。
自分たちが守らなければ。
*
「普段は穏やかで温厚なシャルルが、その足で神父にくってかかる勢いだったと、ヘレーネから後日聞いたよ。
──そうしてセリウスは、モルフォンド家へ迎えられた。」
ベルトラン侯爵は窓の向こうを眺めながら、まるで昨日の出来事のように語る。
ローワンは一つも聞き逃さないよう、その横顔をじっと見つめて聞いていた。
「白い容姿に家が動じなかったのは、我々の地に伝わる古い伝承があるからだ。
何十代かに一度、生まれつき白い子が現れる。それは病や呪いではなく、単なる遺伝だと、医者・薬師を多く輩出してきた家系でもある我々は理解していた。」
──とはいえ、迎えた当初のセリウスは、糸の切れた人形のようだった。
自分から動くこともほとんどなく、怯えて縮こまり、夜になると毎晩魘され、声を枯らすほど泣いた。
彼らが献身的に世話をし、ようやく家族として馴染み始めたのは、それからさらに時間が経ってからだ。
あの年の夏は、王都よりいくらか涼しいモルフォンドの屋敷でさえ、窓辺に立てばじり、と肌を焼くような日差しが差しこんだ。
セリウスは、その光をひどく怖がった。生まれ持っての白い肌はちょっとした日差しで赤く腫れ、ひどいときは火傷のように熱を帯びる。
だから、夏のあいだ彼はほとんど屋敷の中で過ごしていた。
その日──セリーヌが子供たちを連れて里帰りしてきた日も。
久々の帰郷で心が浮き立っていた王太子アーサーは、大叔父の家に到着するなり廊下を駆け回り、
「大叔父上の本棚!昔のままだ!」
などと叫んでいた。十二歳らしい元気さだ。
その後ろを、小さな影がちょこちょこついていく。
六歳のアルヴェル。兄のまねをしたい盛りで、何にでも好奇心を向ける年頃だ。
そんな二人を迎えたのは、シャルルの脚にぎゅっとしがみついて離れない、ひどく怯えた小さな子──セリウスだった。
彼は家族に打ち解け始めていたとはいえ、知らない人が増えればすぐに固まってしまう。
まして今日は、王家の子供たち。格好も雰囲気も見慣れた子供とは違う。
白い髪は揺れ、伏せられたまつげの奥で、淡い瞳が怯えて震えている。
「……泣きそう、だね」
アーサーがひそひそ声でつぶやく。
「泣かせちゃだめだよ!」
と、アルヴェルはぱっとアーサーから離れ、勢いよくセリウスの前に走り出た。
次の瞬間、彼はセリウスを抱きしめていた。
まるで当たり前のように。
「おい、きみ。僕がずっと守ってあげるね。だから怖くないよ、ね?」
その声だけは妙に落ち着いていて、五歳児とは思えぬほど優しい。
セリウスは驚いたように瞬きをし、それから、ほんの少しだけ顔を上げた。
「ほんと……?」
アルヴェルは白い子に手を伸ばし、かき分けるようにその長い前髪を持ち上げる。
隠れていた淡い瞳の色が光を受けてきらりと揺れた。
「わぁ……」
しばらく見惚れたあと、彼は弾んだ声でセリーヌに振り返る。
「母上!この子、目がすごくきれい!!」
セリーヌは困ったように笑いながらも、否定しない。
本当に美しかったのだろう。
「こうすると、もっとよく見えるよ」
アルヴェルは小さな指先で、セリウスの髪をそっと耳にかけた。
そのなめらかな仕草に、ベルトランは思わず息をのむ。
アーサーは「なんでお前そんなに慣れてるんだよ……」と文句を言いながらも笑った。
セリウスは──泣かなかった。
ただ、胸のあたりを押さえるように小さく握りしめて、
はじめて見る同年代の子の「守るよ」という言葉を、そのまま胸にしまいこんだ。
その日、アルヴェルは自覚もなく。
セリウスもまた知らぬうちに、甘い呪いをかけられてしまったのだった。
「あの王弟があんまりセリウスを離さないものだからね」
ベルトランは苦笑しつつも、目の奥に柔らかな光を宿した。
「当時医官をしていたシャルルが、時々王宮に同伴させていたよ。人に慣れさせるにも良かったんだろう。それにあの時は……王宮の中なら、あの子に危険は及ばないと、思っていたから……」
ほんの一瞬、遠い方角へ視線を漂わせる。
その瞳が僅かに翳った様に見えるのは、記憶の中の季節が平穏ではなかったからか。
「セリーヌが病に伏せってからは、シャルルも王宮に泊まり込みだった。王太子たちも不安定でね。ちょうど私が見舞いに行った時だよ。セリウスを連れていったのは」
ベルトランの声に、わずかに震えるような低い響きが混ざる。
「まだ、九歳だった。……それでも」
──その時の光景は、ひどく鮮明だったのだろう。
ベルトランは言葉を区切り、吐息のように続けた。
『アル、大丈夫だよ。王妃殿下なら必ず良くなる。……僕がそばにいるから、心配いらないよ』
小さな少年の、静かで澄んだ声が、部屋にそっと蘇るようだった。
あれは慰めというより、寄り添うというより──祈りそのものだった。
「当たり前のように、あの子は自ら望んで王太子たちの傍にいて……癒そうとしていた。自分がどういう目で見られるかなんて、少しも気にしていなかったよ」
ベルトランは、ふっと目元を和らげた。
だがその笑みにひそむ痛みを、ローワンは敏感に感じ取った。
「……あの頃のセリウスは、人の悲しみを見ると黙っていられない子だった。それがあの子にとっての“普通”だったんだろうね」
ゆっくりとティーカップを置き、わずかに肩の力を抜いた。
まるで、胸の奥に沈めていた想いを、ようやく少しだけ言葉に変えられたように。
「私達一族はね、あの子が元気でいるのなら、それだけでいい。……本当に、それだけでいいんだ」
ローワンは、その言葉に救われるように息をつき、胸の緊張がやっと解けるのを感じていた。
「…だが、」
ベルトランはしばし遠くを見るように目を細め、言葉を選ぶように言った。
家族として胸に抱えてきたものを、ほんの少しだけ外にこぼすように。
「……それからだ。あの事件、そしてあの子が辺境へ送られることが決まった一連の出来事を、私もすべて見届けたよ。」
その声音には、こうして全て終わってもなおやり切れなさが滲んでいる。
ローワンは息を呑み、ただ耳を傾けるしかなかった。
やがてベルトランはふっと視線を戻し、穏やかな微笑を浮かべる。笑ったときの顔は、やはり弟シャルルにどこかよく似ていた。
「まあ……今となっては、あれも幸いだったのかもしれないのかな。」
ゆっくりと顔を上げた侯爵は、ローワンの瞳をまっすぐに捉える。
「元来の気質なのか、それとも我々の家に迎え入れられたことへの恩義なのか……それは分からないがね。
セリウスの──あの、愚かしいほど真っ直ぐな奉仕の心が、ランドフォードでは折られずに済んだ。
むしろ、あそこでこそあの子はあの子らしく在れたのだろう」
言葉の最後は、静かな確信の響きを帯びていた。
そして、ベルトランはふっと柔らかく目元を緩める。
「君たち領民のおかげだよ、ありがとう。」
その一言は、領主としてでも、王家の縁者としてでもなく ──
ただ“家族として、大切な子を託した者”の感謝だった。
ローワンは胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じ、思わず深く頭を下げた。
どこかで、セリウスの笑顔が浮かんだ気がした。
*
帰り支度を整えたローワンを、ベルトランは屋敷の玄関先まで見送ってくれた。
あれほど渋く威厳のある男が、今はどこか柔らかい目をしている。
「またいつでも来なさい。遠慮はいらんよ」
その声音には、先ほどまで語られていた長い回想の影はもうない。
ローワンは胸の奥が少し熱くなるのを感じ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。今日は、本当にいろいろと」
ふと横から、軽い肘の感触。
「ね、ちっとも怖くなかったでしょ?」
エミリアが満足げに笑っている。
その無邪気さに思わずローワンも笑い返した。
「……うん、そうだね」
「また学校でね。あ、厩で待ち合わせでもいいわよ?」
「それは……また今度考えるよ」
エミリアがけらけらと笑い、軽やかに手を振る。
その明るさに背中を押されるように、ローワンは馬車へと歩き出した。
扉が閉まり、屋敷が遠ざかっていく。
そこでようやく、胸ポケットの重みを思い出す。
指先でそっと触れると、リボン越しに冷たい金属の感触があった。
二輪の百合が刻まれた、小さなメタルタグ──あのチャーム。
(やっぱり……ランドフォード男爵に聞いてみるしかない、か)
偶然の一致なんかじゃない。
そう告げているような静かな重さが、手のひらに残る。
ローワンは窓の外の流れる景色を眺めながら、心の中で小さく息をついた。
(うん……話してみよう。ちゃんと)
そうそっと決意したところで、馬車は王都の夕暮れへと進んでいった。
*
馬車がランドフォード邸の敷地へ滑り込むころには、空の色はすっかり夕方の気配を帯びていた。
御者が軽く手綱を引くと、馬車は玄関前で静かに止まる。
「ありがとうございました。どうぞ気をつけてお戻りください」
ローワンはベルトランの御者に礼を述べ、深く頭を下げた。
帽子を軽く持ち上げて返礼する御者と別れ、石畳を踏んで玄関へ向かう。
そのとき、ポーチに歩みかかったローワンの前で扉が勢いよく開き、鮮やかな赤毛が飛び出した。
「ローワン! ああ、良かった……遅いから、本当に心配してたのよ!」
シンディは胸に手を当て、大げさなくらい安堵したように息をついた。
その仕草が妙に嬉しくて、ローワンは照れくさく微笑む。
「心配かけて、ごめん。ちょっと……お話が長くなって」
「ふふ、そうみたいね。――ああ、それと。セリウス様なら、もうお戻りになっているわよ」
彼女はそう言ってやわらかく笑った。
「夕餉の支度も出来てるから、早く中へどうぞ」
ローワンも「ただいま」と返して屋敷の温かな空気へ足を踏み入れた。
ポケットの中には、ルナの首輪と、エミリアから見せてもらった“もうひとつ”のチャーム。
(……はやく、確かめないと)
あの百合の紋が、どうしてモルフォンドの屋敷にもあったのか。
そしてなぜ、母も同じものを持っていたのか。
答えを知っているのは――きっとランドフォード男爵だ。
ローワンはポケットに手を入れて、ルナの方のチャームだけ取り出してから、そっと息を吐いた。
食堂には芳しい香りが漂い、暖かな灯りとともに夕餉の準備がととのっている。
セリウスとローワンは向かい合って席についた。
「お疲れさま。さ、食べよう」
穏やかに微笑むセリウスを見ながら、ローワンは今日、ベルトラン侯爵の語った“白い少年”をそっと重ねてみた。
けれど、どれほど過去が壮絶でも──目の前にいるセリウスは変わらず、静かに、あたたかく、周囲に寄り添う人だった。
そんなローワンの心の動きを知る由もなく、セリウスは軽く肩をすくめる。
「今日は妹が悪かったね。伯父のところへ急に連れて行ったとシンディから聞いたよ。本来なら私が先に挨拶へ連れて行くべきだった。不安だったろう?」
「いえ、忙しくされていましたもの」
ローワンはまず気遣い、それから少し照れながら続けた。
「ベルトラン侯爵様からいろいろなお話も伺えましたし……楽しかったですよ」
「そう言ってもらえるなら安心だ」
セリウスはほんのりほっとしたように笑みを深め、ふと思い出したようにローワンを見た。
「そうだ、ローワン。明日は空いているかい?」
時間ならいくらでもあるローワンは「ええ、もちろんです」と即答する。
「学校が始まるし、何着か服をそろえよう。明日、テーラーに連れて行くから、そのつもりで」
「そ、そんな……!」
ローワンは慌てて首を振ったが、セリウスは軽く手を上げて制する。
「必要なことだから。遠慮はいらないよ」
優しいけれど、譲らない声音。
胸の奥にじんわりと広がる温かさを噛み締めてから、ローワンはさも今ふと思い出したように声を上げた。
「でしたら……今度、仕立ててもらった服で改めてランドフォード男爵のところへ挨拶に伺いたいです。」
セリウスが軽く首を傾げる。その穏やかな空色の瞳が、さりげなく理由を求めている。
ローワンは少しだけ息を整え、ゆっくりと言葉を続けた。
「試験に合格したことの報告と……成り行きでルナまでご厄介になってしまったこともありますし。
それに、これまで母と僕を守ってくださったことにも、ちゃんとお礼を言っていませんでしたから。」
もっともらしい理由を並べながら、胸の奥にひやりとした痛みが走る。
──本当は、チャームのことを確かめたいだけだ。
でも、それを今ここでセリウスに言うことはできなかった。彼を、これ以上妙な因縁の渦に引き込む勇気はなかった。
セリウスは一瞬ローワンを見つめた。
その目に、探るような色は感じない。ただ、優しさが揺れている。
「いい考えだ。男爵のところへの挨拶は、私も早めにと思っていたところだよ。新しい服が出来たら一緒に行こう。ローワンがそう望むなら、なおさらね」
ローワンは「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、安心したように息をついた。
食堂には、温かなスープの湯気と、揺れる燭台の影。
ふたりがスプーンを置くたび、静かな音が響く。
その静けさのなかで──セリウスは視線を落としたまま、ふっと呼吸を止める。
ローワンの声はいつもより少し明るい。
笑顔も、どこか張ったような軽さがある。
自然に振る舞おうとしているのに、逆に分かりやすい。
(……気付いたのだな)
ほんのわずか眉が動きかけて、セリウスはそれを押し留めた。
珍しい彼の"お願い"の内容そのものより──その声の奥に潜んだ、揺らぎの方を確かに感じ取ってしまったのだ。
(ならば、君の見たいものを一緒に確かめよう)
セリウスはいつも通りの穏やかな微笑みを形作り、再びスープに手を伸ばした。
ローワンが安心していられるように。
けれど胸中には、ひそやかな警戒と、消えぬざわめきが静かに息づいていた。
そうして二人の夕餉は、変わらぬ日常の顔をしながら、確かに少しだけ変わり始めていた。




