春休み(1)
試験が終わってから、あの元気印のダンテが妙に静かだった。
「ダンテ……なんかあった?」
「いや、むしろ何もない……」
「そ、そう」
終始この調子なので、ローワンも何があったのか聞けない。
自分の試験のことを話せる雰囲気でもなく、気まずい空気だけが漂っていた。
こういう時に限って、セリウスは朝から晩まで王宮詰めで顔を出さない。
「二人とも気分転換でもしてきたらどうかしら? 試験は終わったんだし、せっかく王都に来ているのよ、楽しんできなさい」
シンディが柔らかく背中を押すように言い、
ダンテをずっと見てきた従者のアンヘルも「それがいい。案内するよ」と二人の背中をバシッと叩いた。
馬車から眺めていた王都の景色の中へ、今度は自分たちの足で踏み出す。
ランドフォード領の長閑な街並みとは違い、ここは何もかもがぎゅうっと詰まっているようだ。
甘い香りのあとに香辛料の匂いが混じり、珍しい果物や高級そうな布地が目に飛び込んでくる。
ローワンがキョロキョロと忙しく視線を動かしていると、それまで俯いていたダンテが、裾を引っ張って小声で言った。
「おい……恥ずかしいだろ……」
「わ、何急に」
「そんなキョロキョロするなよ。田舎者だってバレるだろ」
そう言ったまま、また俯いてしまう。
その様子で、ローワンは「ははん」と悟った。
「さては……なんか言われたな?」
足を止めたダンテに向き直り、そのつむじを見下ろす。
前を歩いていたアンヘルが、二人がついてこないことに気づき戻ってきた。
「どうした? 大丈夫か?」
往来の真ん中で立ち止まる三人。
今にも泣き出しそうなダンテの顔を見て、アンヘルが気を利かせ木陰へ移動させた。
「それで?」
ローワンが促すと、ダンテは口を尖らせたまま、しばらく言い淀んだ。
「俺だけ……」
「ん?」
ローワンが耳を寄せると、かすれた声が落ちてきた。
「……俺だけ、平民だったから」
「ああ〜……」
アンヘルが天を仰ぎ、しかしすぐ戻って苦笑した。
「まあ、そう思うよな。それは」
ローワンはそこで、セリウスの言っていた言葉を思い出す。
“平民でもなれますが”——あれはやっぱり、ダンテの不安を見抜いての言葉だったのかもしれない。
兵を雇う以上、素性の分かる人物が好まれるのは当然だ。近衛なら尚更だろう。
とはいえ、平民出身の兵が皆無というわけでもない。
「ダンテ、俺も平民だぞ」
大柄なアンヘルがぐいと体を折って目線を合わせる。
「えっ!?」
ダンテが半ば叫ぶような声を上げる。
ローワンも思わず目を丸くした。
姿勢よく、所作も美しく、いつも凛としている彼を、てっきりどこか立派な家の出だと思っていたからだ。
「それに、俺なんて元の雇い主がとんでもないことしでかして、一時期は無職だったんだぞ」
本人はカラッと笑って話すが、その過去は相当重かったに違いない。
「だからさ、何があるかなんて分からん。
お前は今、『どうせ平民だから受からない』って拗ねてるんだろう?」
ダンテの瞳が揺れる。
“なんでわかるんだ”という困惑と、“そうであってほしい”という淡い期待が混じった色。
ローワンはアンヘルの言いたいことが理解できて、ほんの少し安心した。
「お前が近衛師団に入りたいって言ったから、セリウス殿も信じたんだよ。
どうせ望むなら、一番高い望みを目指すに越したことはないだろ?」
たとえ届かなくても──
それでもダンテなら、胸を張ってどこへだって紹介できる。
あの人なら、きっとそれくらいは考えている。
その言葉が、ダンテの胸の奥にゆっくり浸みていった。
「……信じた、って……俺を?」
ぽつりとこぼれた声には、戸惑いと、そしてどこか幼いころの彼のままの期待が混じっていた。
「そうだよ」
アンヘルは肩をすくめ、しかし優しい目で続けた。
「お前が本気だったから、あの人も本気で応えた。それだけのことだ」
ぶわっと頬が熱くなる。
胸の前でぎゅっと拳を握ると、ダンテは一度深呼吸をした。
「……なんだよそれ。……なんだよもう……!」
顔を上げた時には、さっきまでの陰りは嘘みたいに消えていた。
口元はむずむずと笑みに変わり、瞳の奥でいつもの火花が勢いよく弾ける。
「よし! じゃあさ、今日は俺、落ち込むのやめる!
どうせ王都まで来たんだ、見て回らなきゃ損だよな!」
言い放つやいなや、ダンテはさっきまでの重さを引きずる影もなく前を向く。
すっかり調子を取り戻した背中は軽快で、もう追いかけないと置いていかれそうだ。
「急に元気になったな……」ローワンが小さく笑う。
「単純なのは良いことだ」
アンヘルも満足そうに鼻で笑って、二人の後を追った。
*
気分転換の散策から戻るころには、すっかりダンテの顔色も明るくなっていた。
さっきまでの沈鬱さが嘘みたいに、鼻歌まじりで前を歩く。その背中を見て、ローワンは胸を撫でおろす。
並んで歩きながら、ふと前からずっと気になっていたことを口にした。
「アンヘルは……前からセリウス様のことをご存じなんですか?」
歩幅を緩めたアンヘルが、横目でローワンを見る。
「……君は本当に聡いよな」
「え?」
「さっきもそうだ。セリウス殿ならどう言うか、どうするか……それが分かってた顔だった。
それに、この手の話なら、俺じゃなくてシンディでも他の従者でも聞けただろう?」
ローワンは言葉に詰まり、小さくうつむく。
アンヘルは短く息をつくと、少し声音を落とした。
「直接の知り合いってわけじゃないが……あの人は、生きてるだけで他人の欲を揺さぶる人だ」
「……欲、ですか?」
「そう。疎まれもするし、崇められもする。
そのどっちも、一歩間違えば“呪い”みたいに本人を縛る。
あの見た目を“悪魔”と呼ぶ地域もあるし、祟りの道具扱いする土地だってある」
ローワンは思わず息を呑んだ。
「ランドフォード領に来たときな、俺はまず驚いたよ。
どうしてこの領地の人たちは、セリウス殿をこんなにも普通に受け入れてるんだって」
アンヘルは前を歩くダンテの背中にちらりと視線をやる。
「他じゃあ、ああはいかない。
偏見ってのはそう簡単に変えられないもんだ。
まして、大貴族の養子になったからって好奇の目が消えるわけでもない」
その声は淡々としているのに、どこか現実を突きつける重みがあった。
ローワンが知りたかったのは、セリウスの内側ではなく、彼を縛ってきた“外の世界”の方だ。
だからこそセリウスに最も近いであろう従者には語らせたくなかった。
アンヘルはそれを察したのだろう。言葉には出さなかったが、なぜか「知るべきなのだろう」と思わせる表情だった。
そんな話をしているうちに、屋敷が見えてくる。
「……あれ?」
玄関先に、二つの影。
凛と立つセリウスと、その隣で軽く手を挙げるヘリオスだ。
ローワンが「あっ、この間の……」と思うより早く、ダンテの方が走り出して深々と礼をした。
「ダンテ・イリサールです──!」
「やあ、君。また会えてよかった」
ヘリオスはいつもの柔らかい笑みを浮かべ、軽く手を振った。
「ついでだったからね。もって来たよ、ほら」
封蝋のついた一通の紙をダンテに差し出す。
「──合格だ、おめでとう」
ダンテの瞳が一瞬で見開かれ、固まる。
ヘリオスの差し出した封筒を前に、ダンテは目をまん丸にした。
「……え、えっ、えっ……なんで?!」
裏返った声に、ヘリオスは腹を抱えて笑いだした。
「ははっ、ほら見たまえよセリウス殿。最高だろう?こういう子、ほんっとに好きなんだ。嘘をつかない子。
驚いたら全身で驚くし、嬉しい時はちゃんと目が輝く。こういう“まっすぐ”なの、貴重なんだよ」
もはや面白がって採用したんじゃないかと心配になるローワンをよそに、当のダンテは封筒を抱えたまま、「いやでも俺、本当に……」と混乱している。
ヘリオスはさらに肩を揺らして笑った。
「うんうん、その顔。その反応。僕はこういうのを見るとね、ああ、選んでよかったって思うんだよ」
からかっているようで、どこか本気の声音だった。
その横で、セリウスはふっと柔らかな、どこか達観したような微笑で
「ヘリオス殿。近衛師団長自らのお心遣い、まことに感謝いたします」
「えっ……」
ついこの間、ランドフォード領のあの畦道でニコニコ話していた人が?
思考が追いつかずにいるローワンの横で、ダンテはまだ合格証を握りしめたまま固まっている。
「さて、僕は残りの書類仕事を片づけないとね」
ヘリオスは軽やかに指をひらひら振り、セリウスに片目をつむる。
「君と訓練で会えるのを楽しみにしてるよ〜」
そう言って去っていく後ろ姿を、ダンテはぼんやりと見送り、それからぽつりと呟いた。
「……俺、ほんとに受かったのか?」
その様子に、セリウスが優しく目を細めた。
「ああ、おめでとう。ダンテ、よく頑張ったね」
その声にようやく現実が胸に落ちたのか、ダンテの顔がゆっくりと何段階にもほころんでいく。
ローワンはそんな友の横顔を見て、じんわりと胸が熱くなるのを感じていた。
*
合格した数日後にはもうダンテの姿は屋敷にはなかった。
あの日から2日後にローワンも合格通知を受け取り、喜びを分け合えたのは良かったが、その余韻に浸る時間もなく、ダンテたち新兵たちは今頃、過酷な訓練を受けている。
準備もあらかた済ませてしまって、今日は特に予定もなく、静かな時間が流れる──はずだった。
ローワンはリビングで本を開いていた。
ページをめくる指が止まったのは、玄関の方でシンディの声がしたからだ。
「……あいにくセリウス様はご不在でして……え? いえ、その……少しお待ちを──」
困ったような声色。
そしてすぐに、足音がこちらへ向かってくる。
扉がノックもなく軽やかに開く。
シンディが半ば押し返そうとしながら顔を出すより早く、その横からふわりと金髪が滑り込んだ。
「こんにちは、ローワンくん」
明るい微笑みとともに立っていたのは、セリウスの義妹──エミリア。
「遊びに来たの。……でもあいにくお兄さまはいないみたい」
ローワンの目の前でくるりとスカートの裾を揺らし!エミリアは当然のように言った。
「あなたでいいわ。暇なんでしょう?」
ローワンは本を閉じ、軽く咳払いした。
(暇……まあ、暇と言えば暇だけど)
微妙に言い返しづらい笑顔で微笑み続ける彼女に、シンディがそっと視線で助け舟を出す。
「ローワン様……お茶の準備、いたしますね……」
静かな午後は、どうやら想定外の方向へ転がり始めたのだった。
十日後に始まる学校生活には、エミリアも王都から通うらしい。
学期中はモルフォンド領ではなく、王都のモルフォンド侯爵邸に滞在しているとのことだ。
先日ローワンが彼女と再会した時は、ちょうど長期休暇で実家に戻っていただけ──その説明を聞いて、ようやく納得がいった。
「この間も思ったのだけど……」
ローワンは控えめに咳払いして切り出した。
「モルフォンド家のお嬢様なら、家庭教師を付ける方が良いんじゃないかと思って」
「良いって?」
エミリアは小さく首を傾げる。言葉の意味そのものを問い返すような仕草だった。
ローワンは一瞬言葉に詰まり、
「いや……その……一般的には、というか……」
とどうにか続ける。
エミリアはその戸惑いをくすぐったそうに目を細めた。
「たしかに、お父様たちにとっては“その方が良い”のかもしれないわね」
軽く肩を竦めてから、彼女はふっと悪戯っぽく笑う。
そしてローワンの瞳をまっすぐと見据えた。
「でも私は、こっちの方が好きなの。
あなたみたいに、いろんな人と会えるでしょう?」
その目は、可憐な見た目とは裏腹に、芯の強い光を宿していた。
お人形のような令嬢ではない──自分の意思で道を選ぶ少女の顔。
ローワンは、その真っ直ぐさに小さく息を呑む。
その時だ。
ぱたぱたと軽い足音が近づき、気ままな猫・ルナが当然のように二人の間へ割って入ってきた。
「まあ、可愛らしいわね」
「ルナ、急に来るなよ……」
ローワンが苦笑しながら撫でると、ルナは顔をこしこしと洗い、
首元のチャームがちりん、と優しい音を立てる。
ペリドットの淡い緑が光を返した瞬間──
「あら……?」
エミリアが小さく息を呑み、ルナの首輪へと指を伸ばした。
「これ、見たことがあるわ」
「え?」
ローワンはチャームに視線を落としつつ聞き返す。
「叔父様のお屋敷で。王都のモルフォンド家ね」
エミリアは静かに続ける。
「私、今あそこに部屋を借りているの。そこ……セリーヌ様──前王妃の子どもの頃のお部屋なのよ」
淡々とした声なのに、どこかひんやりとした余韻が落ちる。
「クローゼットの奥に、この子の首輪とそっくりなチャームがあったの。
見つけた時は可愛いって思っただけだったけど……まさか、ここで同じものを見るなんてね」
ルナの胸元をそっと撫でながらエミリアが微笑む。
ローワンは言葉を失った。
偶然にしては出来すぎている。
この屋敷──あるいは母リディアと前王妃セリーヌを結ぶ“何か”が存在するのだろうか。
「あの……エミリア嬢、その……もしよければ、それを見せてもらえないかな」
「エミリアでいいわ、ローワン。いつでも…」
エミリアは言いかけてもう一度ルナのチャームを眺めてから、ぱっと顔を上げた。
「あ!……ねえローワン、今からいらしたら?」
「えっ、今から?」
あまりにも迷いのない誘いに、ローワンは思わず聞き返してしまう。
「だって気になるでしょう? 同じものがあったって言ったら、普通は見てみたくなるものじゃない?」
エミリアは当然のように微笑む。まるで“さあ行きましょう”と風が背を押しているかのようだ。
ローワンは戸惑いながらも、その勢いに抗えなかった。
エミリアという少女は、思い立ったら一直線。気に留めたことは必ず確かめる性質なのだろう。
「……わかった。じゃあ、少し準備をしてくるよ」
「ええ、待ってるわ」
そう言ってエミリアは、ローワンが席を立つのを嬉しそうに眺めている。
ルナは事情も知らぬまま、まだ眠そうな顔で喉を鳴らしていた。




