王弟と月の精
王宮の一角にある小広間。
夜の帳が落ち、蝋燭の炎がゆらゆらと銀の器を照らしている。
アーサーとアルヴェルは向かい合って座り、すでに席は和やかな空気に包まれていた。
その横でセリウスも静かに杯を置く。
「しかし驚いたよ。ほんの少し見ないうちに、保護者の顔になったじゃないか」
アーサーが愉快そうに目を細める。
彼の声音にはからかい半分、興味半分。
「保護者……とは少々大げさです」
セリウスは苦笑しつつも淡々と返す。
「例の子たちはどうだい?試験には受かりそうか?」
王の問いに、セリウスは思案するように軽く視線を落とすと、ゆったりと言った。
「──彼ら次第でしょう。
努力を惜しまなければ、十分に手が届くはずです」
贔屓も甘やかしもない、いつもの透明な声音。
それがかえって、少年たちを本当に認めていることを感じさせた。
「お前がそこまで言うのか。よほどの逸材なんだな」
アルヴェルが肘をつき、酒杯を軽く揺らす。
興味深そうに眉を上げているが、どこかで“セリウスが誰かの成長を見守る”という構図そのものが新鮮らしい。
「逸材、というより……素直で吸収が早い子たちです。それに、彼らなりの目的意識も強い」
「ほう。それは頼もしい」
アーサーは満足げに微笑んだ。
書簡で聞き知っていた“若者たちのこと”が、王の中でようやく現実味を帯び始めたらしい。
「しかしセリウス、お前が子どもたちの勉学やら生活やらの面倒を見る姿は想像しなかったな。
少し前まで、己の食事すら興味なさそうな顔をしていたのに」
「……兄上、その言い方はあんまりだろう」
アルヴェルが横から笑いながら口を挟む。
セリウスはわずかに目を伏せ、小さく苦笑いした。
「心外ですね。自分のことくらい、ちゃんとできますよ」
「ふふ、それは知っているさ。ただ……頼られるのが板についてきたようだ」
アーサーは杯を持ち直し、穏やかな眼差しを向けた。
どこか、弟の変化を喜ぶ兄の顔である。
セリウスは少しだけ言葉に詰まった。
けれど次の瞬間には、いつもの静かで整った笑みで応じる。
「……彼らが必要とするなら、私はその分だけ手を貸すだけです。それだけのことですよ」
軽すぎず、重すぎず。
ただの事実を述べたにすぎないような顔で。
アーサーは愉快そうに肩を揺らす。
兄弟は手紙でセリウスが“二人の少年を推薦する”と聞いて以来、どんな逸材なのか少し興味を持っていた。
「そんな子なら、いずれ会える日も来るかな?」
「……そのような機会があれば、光栄なことでしょう」
セリウスは穏やかに返す。口調も、表情も、いつも通り柔らかかった。
だが、ほんの刹那だけ、胸の内側がすっと冷える。
(……もしその時が来たら、ローワンはどんな立場で、どんな場所にいるのだろう)
彼らの背後に控える若い従者としてか。
それとも、彼自身の選び取った道を歩むひとりの青年としてか。
そして自分は、何者として、どこに立っているのだろう。
未来を描けば描くほど、胸の奥底のざわめきが増長し始めていた。
「セリウス、お前、今なにか考えてただろう?」
向かいのアルヴェルが、まるで呼吸するような自然さで彼の変化を察知する。
瞳の色のわずかな濃淡まで読み取るその敏さは、まるで動物的な勘だった。
「……いえ。殿下の料理が気になっただけですよ」
セリウスは軽い調子でかわすが、その声にはごく薄い震えがあった。
「嘘だな、それは」とアルヴェルが即座に返す。
アーサーは二人のやり取りに目を細め、ワインを傾けながら軽く笑った。
食卓を満たす香りと、グラス越しの光。
そんな穏やかな夜が三人の間にそっと満ちていった。
*
王宮の大理石の床に、アーサーの足音だけが軽く響いた。
兄は「では、あとは若い者同士で」と冗談めかし、いつもの気さくさで去っていく。
扉が閉まると、残された空気は一転して静まり返った。
食堂の外はもう完全に夜。
王都の灯りは遠くに滲み、王宮の回廊は月明かりと常燈の明かりが絶え間なく揺らいでいる。
ふと周囲を見回したアルヴェルは、眉をひそめた。
「やっぱり……また従者がいないのか、お前は」
つい先刻の執務室でのやり取りを思い返す。
アーサーが夕餉に誘わなければ、他人の心配など気にもせずこの御子は一人で帰ったのだろう。
アルヴェルの言外に呆れが滲んだ。
「皆も長旅明けで疲れていますから。歩いて帰ろうかと」
セリウスはやはりしれっと柔らかく笑う。
が、その“柔らかさ”がアルヴェルにはいちいち癪に障った。
こんな夜に、夜目が利かないくせに、平然としているのも。
「夜目が利かぬのに、どうやって帰るつもりだった?」
「このあたりは歩き慣れていますので」
まるで己の弱点を弱点と思っていない。
現に、歩き慣れていたはずの場所で何があったかを忘れたわけでもあるまいに。
そこがまた危なっかしくて、アルヴェルは小さく舌打ちしたくなる。
「……送る。文句は受け付けない」
「困ります。それでは私がまた送り返すことに──」
「そう思うなら従者をつけろ」
短く、強く。
やっとセリウスが目を瞬く。
少しの間を置いて、静かに頷いた。
「……わかりました。以後、気をつけます」
「なら決まりだ」
淡々と告げておいて、心の中だけでそっと息をつく。
もう何度目か分からないやり取りだった。
彼を守るために、アルヴェルは過去何度も、密かに人をつけ、気配を消して見守ってきた。
王宮には、彼に奇異の目を向ける者も、利用価値を計ろうとする者もいる。
それでも"貴族相手であれば"剣を抜くほど愚かな者はいない。
けれど、王宮の外は違う。
どこかの街角で、名も知らぬ者の偏見が刃に変わる時もある。
“あの一年前の事件”だってそうだ。
もしセリウスが、自分に何でも話してくれていたなら──あんな危険は起こり得なかった。
思えばあの頃にはもう、彼は自分から離れようとしていたのではないか。
護りたい──その一心だったはずなのに、それが一番彼を縛りつけていたのだと思い知らされた。
用意させた馬車に乗り込むと、セリウスは驚いたように瞬きをした。
「……なぜ、殿下まで」
「夜風に当たろうかと」
そう言って隣に座ると、セリウスの眉尻がかすかに下がる。
“困ったような、でも拒まない”あの表情がちらりと覗く。
月明かりに照らされるその顔に、アルヴェルはまた胸のどこかが微かに熱くなるのを自覚した。
「……殿下?」
「ん?」
「……いえ。ただ、ありがとうございます」
そんな顔をするな。
守られていると気づいて、遠ざかろうとするくせに。
アルヴェルは外を見た。王宮の灯りが遠ざかる。
夜風はまだ冷たい。
馬車の中、小さな息遣いだけが聞こえていた。
程なくして、ランドフォードの別邸──セリウスの新居へとたどり着いた。
玄関燈がほの白く、夜気に揺れている。
従者がランタンを掲げて出てきた、その後ろで扉がきぃ、と控えめに開く。
そこから顔をのぞかせた少年に、アルヴェルの目が細まった。
(……ああ。こいつが“あの子”か)
目が合った瞬間の、素直な驚き。
そしてセリウスを見つけた時の、あからさまな安堵。
胸の奥が、ひやりと沈む。
「ただいま戻りました、ローワン」
セリウスの柔らかな声に、少年の表情が花のようにほどけた。
その光を受けるセリウスが、普段より無防備で。
(……なるほど。これは確かに、“見込み”がありそうだな)
馬鹿げた嫉妬。
アルヴェルはそれを微笑で隠した。
「初めまして。君がローワンかな?話は聞いているよ」
ローワンは驚いたまま、慌てて深々と頭を下げる。
セリウスがすぐに一歩出て、少年を庇うように前へ出た。
「さあ、中へ。寒いから」
少し急かすような声音だった。
「──セリィ」
呼び止められ、セリウスが半歩だけ振り返る。
従者の手のランタンが、アルヴェルの背後でほの揺れ、光と影が綾を作った。
その影の境目で、アルヴェルがわずかに身を傾ける。
指先が、セリウスのこめかみ近くの髪に触れる。
撫でたというより──そっと掬うように。
本来なら、風に触れた程度の行為のはずだった。
なのに、落ちた髪の間を指が通るだけで、微かな熱が残る。
(……え)
瞬きすら忘れる。
セリウスの胸の内側で、何かが小さく跳ねた。
その反応に気づいたのかどうか、アルヴェルは表情を動かさない。
ただ、影の中でごくわずか、瞳に柔らかな色が灯った気がした。
「風が冷える。……早く入れ」
かすかに掠れた声だった。
普段なら気づかれぬほどの揺らぎが、今は妙に耳に残る。
「殿下……?」
問いかけようとしたその瞬間、アルヴェルはひらりと身を翻した。
ランタンの灯りが彼の外套の裾を照らし、影がふわりと伸びる。
ついてゆけない。
その背中に宿る気配を、いまの自分では読み切れない。
「っ……おやすみなさいませ、殿下」
絞り出すように告げた声は、どこか自分のものとは思えなかった。
アルヴェルは振り返らない。
ただ、歩きながら片手を軽く上げ、まるで“もう十分だ”と言うようにひとつだけ動かす。
胸の奥が、疼き続けている。
扉がきぃ、と鳴いて、ローワンがほんの指の隙間からセリウスの横顔を覗いていた。
「……セリウス様?」
不思議そうな、幼い声。
セリウスは一拍だけ呼吸を整え、微笑を形づくった。
「大丈夫だよ。私もすぐ入る」
言葉ではそう言ったのに、足だけが夜気に縫い留められたようだった。
遠のいていく気配に、胸の奥が静かにざわめく。
馬車の灯りが闇に呑まれるまで、セリウスは肩に流した髪を抱き寄せたまま立ち尽くしていた。




