王都
王都の門前は、活気に満ちていた。
石畳は陽を反射し、人と荷車と馬のざわめきが入り混じっている。
馬車の小窓を開けると、ローワンは外の空気に頬を晒す。
「……これが、王都」
その横でダンテが大きく伸びをして笑う。
「おいおい、口開いてるぞ。」
「さあ、もうすぐ到着しますよ!」
馬上の従者が告げると、他の面々もそれぞれの反応を見せる。
女中たちは緊張の面持ちで身なりを整え、それまで馬車に並走するように馬を走らせていたセリウスも列の前へ出た。
門兵がセリウスの書状を確認し、生真面目な口調で言う。
「ようこそ。王都へ。セリウス殿以下ご一行の入門を確認した」
門がゆっくりと開き、視界に広がる街路。
整然と立ち並ぶ建物、色鮮やかな店の軒、漂う焼き菓子の香り。
ローワンは思わず横を見た。
ダンテがわずかに頬を紅潮させ、同じくローワンの顔を見る。
「……すごい」
旅の疲れがふっと軽くなるような、不思議な高揚が胸を満たした。
ランドフォード男爵から借り受けた屋敷に到着すると、既に男爵家の従者たちが玄関前で待ち構え、荷解きの準備も整えていた。
玄関ポーチへと姿を現した男爵は、背の低い、丸みのある温厚そうな老人だった。
(あの人が……)
先ほどまでの興奮とは違う種類のざわめきが胸にひらりと立った。
セリウスに呼ばれ、ローワンは彼の傍らに歩み寄った。
「このたびは屋敷をお貸しくださり、まことにありがとうございます」
丁寧に頭を下げるセリウスに続いて、ローワンも静かに礼を取る。
その落ち着いた所作に、男爵は目尻をやわらかく細めた。
「長い道中、ご苦労であった。……ほう、しっかりした良い子だ」
そんな和やかな挨拶の最中、荷馬車の方で突然、
「わっ!?」
と従者の驚きの声が上がった。
ローワンが振り返るより早く、銀灰色の影が荷の隙間から飛び出し——
そのまま男爵の足元へ突進していく。
「ルナ!?」
シンディが「あらまあ大変!奥様、今頃探してらっしゃいますよ!」と慌てふためく。
ローワンも口をぱくぱくさせるばかりだ。
しかし男爵は、大層嬉しそうに身をかがめた。
「おお、ソル……いや、違うか。でもよく似ているなぁ」
男爵がしゃがみ込み、指の節の浮いた手でルナの喉元をゆっくり撫でる。
そのたび、首輪についた小さなペリドットのチャームが——ひときわ澄んだ緑の閃きを返した。
ルナ自身はただ嬉しそうに尻尾を揺らしている。
ローワンは思わず声を漏らす。
「……ルナ、と言います。男爵も猫を?」
問いかけに、男爵は一瞬言葉を探すようにまばたきし、どこか申し訳なさそうで、それでいて深い慈しみに満ちた眼差しをローワンへ向けた
「やれやれ……“あの方”は君に、ほとんど何も話しておられないのだな」
その一言だけで、胸の奥がひどく波立つ。
男爵は続けた。
「君も……このルナの親猫も、ほんの短い間ではあるが、この屋敷で暮らしていたのだよ。
覚えていなくとも無理はない。まだ、赤子のころの話だ」
あの方。
ローワンの眉がわずかに寄る。
(母のこと?……でも、なぜ——)
問いただす前に、セリウスが自然な笑みとともに一歩出た。
「男爵、荷物を中へ運び入れても?
皆、長旅で少々疲れていますので」
男爵は「ああ、いかんいかん」と肩をすくめ、にこりと笑った。
「そうだった、そうだった。年寄りは昔話が長くていかんね。
さあ、遠慮なくお入り」
荷を抱えたまま耐えていた従者たちは「助かった……!」という顔で、空気がふわりと動き出す。
ローワンはルナを抱き上げながら、男爵の言葉だけが胸の奥でぽつりと灯り続けるのを感じていた。
だが思考に沈む暇もないまま、屋敷の扉が開かれる。
セリウスがさりげなくこちらを振り返り、安心させるように微笑む。
今はただ、その何気ない男の仕草にローワンは心を委ねた。
*
王都に着いたその日の夕刻。
荷解きもそこそこに、セリウスは真っ直ぐ王宮へ向かった。
案内された執務室では、アーサー王とアルヴェル王弟が既に待っていた。
余計な目がないせいか、アーサーの表情はあの手紙のやり取りの時と同じ穏やかさだ。
「よく戻った、セリウス。長い旅だっただろう」
柔らかな声音に、セリウスは胸に手を当てたまま深く礼をとる。
「恐れ入ります、陛下。無事、戻ることが叶いました」
窓際では、アルヴェルが腕を組んでこちらを見ていた。
アーサーが「何か言ってやったらどうだ」と苦笑しながら促すと、アルヴェルはむすっと顔をしかめる。
「……なぜ、あんな場所にいたんだ。だから従者をつけろと、あれほど言って──」
「いつの時代の話をしてるんだ、お前は」
アーサーに呆れた声でつっこまれ、アルヴェルは言葉を飲み込む。
短い沈黙のあと、彼は小さく目を伏せた。
「……すまない。守ってやれずに」
──どんな顔で会えば良いのだろう、と。
──彼は、自分をどう見るのだろう、と。
セリウスは王都へ向かう道中ずっと思っていた。
なのに、目の前のアルヴェルはまた随分としおらしくなっている。
セリウスは胸の奥の緊張がほどけていくのを感じ、そっと微笑んだ。
「……らしくないですね、殿下」
その柔らかい一言に、アルヴェルの肩がわずかに揺れた。
「……まあ、こう見えて兄上も心配していたんだぞ。俺のほうが落ち着いていたくらいだ」
「おい、誰がそんなことを言った」
アーサーとアルヴェルの軽い言い合いを前に、
セリウスは胸の底で、ようやく王都に戻ったのだと静かに実感した。
「ご心配をおかけしました。無事に戻れましたこと……両殿下のお力添えあってのことと存じます」
「お前は……、よくもまあそんなに真面目でいられるな」
改めて丁寧に礼を述べるセリウスに、肩をすくめてアルヴェルは笑った。
アーサーは机に肘を預け、しばし温かい目で二人を眺めていたが、「さて」と自らに声を掛けると、一度席を立ち上がる。
執務机の上の書類を軽くまとめると、空気を切り替えるようにセリウスへ向き直った。
「すまないね。私の仕事が片付かないばかりに、ここまで足を運ばせてしまったが……今日は難しい話をするつもりはないよ。
呼び戻した件については、明日以降に他の者も交えて場を設ける。──よかったら、夕食でも一緒にどうだろう?
向こうでの話を聞かせてくれ」
穏やかな誘いに、セリウスは静かに頭を下げた。
「では……お言葉に甘えさせていただきます」
そのとき、横目でアーサーの机の山をちらりと見たアルヴェルが、ふっと息をつきながら口を開く。
「……時間まで暇だろう。お前の“置き土産”の庭でも見に行くか?付き合ってやる」
以前なら“付き合ってやる”などと言わず、
『どうせお前は行くだろうから、行くぞ』
と勝手に歩き出すような男だった。
その慎ましい問いかけ方に、セリウスはほんの一瞬だけたじろぐ。
だがその戸惑いはすぐに清廉な微笑みに変わった。
「ええ。……そうですね。ありがとうございます、殿下」
満足したようにアルヴェルはほんのわずか口角を上げると、セリウスを伴って扉へ向かう。
二人が出て行ったあと、執務室に残ったアーサーは、軽く肩を揺らして小さく笑った。
「……やれやれ。
兄としては嬉しいが、王としては……あまり深く考えたくないな」
窓辺に差しこむ春陽の中、兄王はひとり、目を細めるのだった。
*
小さな坪庭に設けられたハーブ園は、長く持ち主が不在だったとは思えないほど強かに冬を越し、息づいていた。
夕風に揺れるレモンバームの葉が、ふわりと優しい香りを運んでくる。
「……もっと荒れているかと思っていましたが、意外ですね」
セリウスが低く呟くと、隣のアルヴェルは手すりに片肘をついたまま、そっけなく答えた。
「ああ。留守のあいだの世話は手配しておいたからな」
何気ない調子で、さもそうする事が決まりであったかのような口ぶりで。
セリウスは思わず目を瞬いた。
胸の奥で、じんわりとあたたかいものが広がる。
(……そういうところが、本当に変わらない方だ)
「ありがとうございます、殿下」
礼を述べるセリウスに、アルヴェルは眉を下げ小さく笑った。
「お前はそればっかりだな。……そういうのは実際に手入れしていた奴に言ってやれ。俺は植物のことはよく分からん」
ひとつひとつを確認する様に歩くセリウスの後ろを、アルヴェルがゆっくり連なる様に歩く。
坪庭を囲む白壁が光を乱反射して、夕暮れでも思うより明るい。
一周回り切るか、という時、回廊の向こうから誰かの足音が駆けてきた。
「セリィ!戻ってきたのですね!」
丸眼鏡の青年が、ぱっと笑顔を咲かせて駆け寄ってきた。
彼が勢いよくセリウスの方へ向かうと、回廊の柱の影からアルヴェルの姿が現れ──
「……あっ」
少年はぴたりと足を止め、慌てて深々と頭を下げた。
「こ、これはっ……お取り込み中、失礼いたしました!」
「いや、構わん。むしろ都合がいい。
──セリィ、彼だよ。
お前の花園の手入れを任せていたのは」
アルヴェルは王弟らしく穏やかに応じ、だがしかし、わざとやや前身を屈めセリウスの耳に近付く様にして話しかけた。
そのいたずらな声掛けに、セリウスはほんの少し唇を噛む。
胸の奥を、羽で撫でられたような甘い疼きが走ったからだ。
「そうでしたか……。イシュマエル、留守の間は世話をかけました」
セリウスが礼を述べると、それまで頭を下げていた少年──イシュマエルは驚いたように目を瞬かせ、それから誇らしげに顔を上げた。
「い、いえ!これくらい、先輩に師事する者として当然の務めですから!」
勢い込んでそう言ったあと、はっと思い出したように付け加える。
「それから……医局のおじじ様たちも、セリィ先輩のこと心配してましたから。
お時間ある時に、ぜひ顔を出してあげてくださいね!」
そう言って何度も頭を下げながら、イシュマエルは小走りに去っていく。
その背中が回廊の角に消え、庭に落ちた静けさがふっと戻って来ても、セリウスはすぐにアルヴェルへ向き直ることができず、イシュマエルの去った方角に顔を向けたままでいた。
「人前ではやめてくださいと……以前から申しているではありませんか」
その声音には涼しさを装う張りがある。それを聞き、アルヴェルは小さく笑った。
肩越しに見えるその反応が、妙に愛しく、アルヴェルの胸の奥をざわつかせる。
「さあ…昔のことは忘れてしまったなぁ」
いつの間にか、同じ距離には並んでくれなくなった。いつの間にか、呼びかけてもその名を返してはくれなくなった。
目を離せば、彼はまた遠くへ行ってしまうかもしれない──
たった一度、本当に失いかけたあの日から、その恐怖は拭えていない。
「それに、彼は随分とお前に距離が近い。ちゃんと教えておかねばと思ってな」
軽口のように聞こえるその言葉の裏で、自分でも呆れるほど確かな感情があった。
アーサーはそれを恋だと言ったがこれはそんな生やさしいものではない。
もっと厄介で、もっと根深い。
自分だけを見ていてほしいという、これは
──醜いほどの独占欲だ。
喉の奥で自嘲が鳴る。
その、自分でも持て余し始めた感情を向ける先で、セリウスがようやく顔を振り向かせた。
感情を出すまいと堪えるような、それでも隠しきれない熱を帯びた瞳。
その目で見つめるのは自分だけであって欲しいと、望んでしまう。
──それがどれだけ彼を苦しめるか分かっていても。
「彼はただの同僚です。…知っているでしょう?」
努めて穏やかに答えるその声は、誇り高さと自立への意志に満ちていて、
──ああ、あの頃の“庇護されるべき御子”ではなくなったのだな、と胸の奥が締めつけられる。
自分の知らぬうちに、彼は変わってしまった。
「悪かった。ただの戯れだよ」
戯れですむはずのない気持ちが、胸の内側で静かに鳴り続けていたが、アルヴェルは軽く手を払うようにして話題を変えた。
「……そうだ。ランドフォード男爵の別邸を借りたんだって?」
セリウスの肩がわずかに上下する。
旅の疲れとはまた違う、どこか気の抜けた安堵の動き。
「ええ。荷も最低限で済ませましたし、あちらの方が何かと都合がよいので」
「……そうか」
その返答に、アルヴェルはあからさまに不満げに眉を寄せた。
「お前の部屋は、居心地が良くて気に入っていたんだがな。寮の連中にも馴染んでいたし、あれはあれで──」
「皆さんの迷惑になっていましたからね」
セリウスが淡々と、けれどどこか微笑ましさを含んだ声音で言葉を重ねる。
「……迷惑、とは?」
「王弟殿下がふらりと医局にいらしたり、私の部屋でお茶を召し上がったりしては、先輩方も後輩も緊張しきりですよ。
“殿下がまた来てるぞ” なんて、小声が飛び交っていましたから」
やわらかくたしなめるような、けれど温度のあるセリウスの言い方に、アルヴェルは少しだけ肩をすくめた。
「……それは、それで良かったんだがな」
「良くありませんよ」
くすりと笑いながらも、セリウスは確かな意思をそこに滲ませる。
「私はもう殿下の庇護下にいるだけの子どもではいたくないのです。
お二人に余計な負担をかけるわけにはいきません」
言葉は穏やか。
だが、その芯ははっきりとしていた。
アルヴェルは小さく息を吐き、セリウスの横顔を盗み見る。
(……そういうところも、変わったな)
ほんの一年で、自分よりずっと遠くへ行ってしまいそうな。
それなのに、今こうして隣に立っている姿が嬉しくて、少し悔しい。
「……まあいい。好きにしろ」
「ありがとう存じます」
ほんのわずかに口角を上げるセリウスの笑みは、
まるで風に揺れるレモンバームの香りのように軽やかで──
けれど確かにアルヴェルの胸の奥深くに落ちていった。




