親心
出立の前日。
町をゆっくりと一周して戻ったセリウスは、その足で静かな覚悟を胸にリディアの屋敷を訪れた。
ローワンは今頃、ダンテと最後の稽古に勤しんでいるはずだ。
ミーナがお茶を置き、扉を閉めたのを待ってから、セリウスは帳簿を閉じたリディアへ向き直った。
「行く前に……どうしても伺っておきたいことがあります」
静かな声音。だがその奥にわずかに緊張が滲んでいた。
「あなたとローワンの存在を……アーサー陛下やアルヴェル殿下は、ご存じなのでしょうか?」
リディアのまつげがひとつ揺れ、すぐに落ち着いた光を取り戻す。
「いいえ。知らないはずよ」
その即答にセリウスは頷いたが、なおも胸にひっかかるものを抱えていた。
「……フェルナード陛下が、あの日、あの手紙を私に託した理由。
急いで届ける必要のない“手紙”を、あえて私に——おそらく私は、一番“動かしやすかった”のでしょう」
リディアの表情がわずかに曇る。
セリウスは淡々と続けた。
「届く時期も定かでない手紙です。つまり“いずれ私の足が向かうはずの場所”へ誘導する意図があった。
一年前の騒動は想定外だったかもしれませんが……その混乱すら利用した者がいるはずです」
言いながら、胸の奥がざわつく。
セリウスは結論を口にした。
「——私をここへ向かわせたのは、ランドフォード男爵ですか?」
するとリディアは苦みとも温かさともつかぬ微笑を浮かべた。
「確かに、彼は私を匿ってくれた恩人の一人よ。でも、あなたを動かしたのが彼だとは思わないわ」
「どうしてです?」
「簡単よ。
“しがない地方男爵”が王に助言して通るわけがないもの」
セリウスは息を呑む。
リディアは窓の外を見ながら、静かに続けた。
「いるでしょう?
陛下にも疑われず助言できるほどの発言力を持つ人が」
胸がひやりと冷える。
「……まさか」
「——ベルトラン・モルフォンド侯爵よ」
名前が落ちた瞬間、部屋の空気が一気に張りつめた。
「叔父……さまが?」
「ええ。それに——あなたのお父様もね」
セリウスは言葉を失う。
父は当時、宮廷医官。王妃であるリディアの“死”も、彼を通して伝えられた事実だった。
偶然にしては出来すぎている。
なのになぜ、自分は気づかなかったのか。
いや、手紙のことすらリディアに会うまで忘れていたくらいだ。それほどに、自分のことで精一杯だったくせに。
視線を落とすセリウスに、リディアはそっと微笑んだ。
「フェルナードの手紙なんて、ただのラブレターよ。あなたを巻き込んでしまってごめんなさいね」
そして少し間を空けて、続ける。
唇が、いたずらに弧を描く。
「でも……ベルトラン侯もシャルル卿も、きっとフェルナードの策略を“利用”したのよ」
「利用……」
「あなたが傷つかない場所へ避難させるために。
そして、ローワンが価値を持つなら——あなたの未来を守る“切り札”にするために」
国王を相手取った物騒な策略。
なのにその言葉は、ただ事実としてリディアの唇から落ちた。
セリウスは息を詰める。
貴族の論理の冷たさを、あらためて思い知った。
「……ではどうして、あなたはローワンを私に?」
「そんなの決まってるでしょう?」
今度のリディアの笑みは、揺らぎひとつない強さを帯びていた。
「あなたなら——あの子の“意思”を守ると、分かっているからよ」
その言葉が、胸の奥で静かに熱を灯した。
*
セリウス一行は王都へ向かう途上、モルフォンド侯爵領に足を踏み入れた。
養子として迎えられてからここで過ごした時間はそれほど長くなかったのに、不思議と懐かしさを覚える。
向けられる視線がどこか優しく、どこか誇らしげで——ランドフォード領で感じたものと同じ温度を宿していたからかもしれない。
「うわあ……」
ローワンが思わず声を漏らした。
眼前には、見渡す限りに広がる葡萄畑。まだ芽吹いたばかりの黄緑の若芽が、朝の光を受けて小さく揺れ、まるで畑全体が息をしているようだった。
農夫たちは春先の霜を避けるため、焚き火の準備をしたり、枝の状態を一本ずつ確かめたりと忙しなく立ち働いている。そんな穏やかな活気が、旅の緊張をふっと和らげた。
「本当に……もう春なんですね」
シンディが目を細め、馬車から身を乗り出すようにしてセリウスへ投げかけた。
一年前までシャルルの屋敷に仕えていた彼女にとって、この景色は帰郷に近いものなのだろう。頬がほのかに緩んでいるのを、セリウスは横目に見た。
「ただいま……」
その呟きは風に溶けそうなくらい小さかったが、誰もがその意味を察した。
セリウスがようやく、いくつもの迷いから解き放たれたのだと。
馬の蹄が小石を踏む音が止むと同時に、どこからともなく明るい呼び声が響いた。
丘の上。
まだ冷たい風に揺れるアーモンドの枝。その足元に建つ白壁の屋敷のバルコニーから、ひとりの少女が身を乗り出すようにして手を振っていた。
「おにーさまー!」
春の光をふんわりと受け止める淡い金髪。
まだ大人になりきらない素朴な顔立ちの中に、そっと芽吹く可憐さがのぞいている。
頬にさした淡い桃色が、咲き始めたアーモンドの花と不思議なほどよく調和していた。
「……天使だ」
ぽつりと呟いたのはダンテだった。完全に素の声だった。
隣でそれを聞いたシンディが、こらえきれずに肩を揺らして笑う。
「エミリアお嬢様よ。セリウス様のご妹君ね」
「妹……いたんですね」
ローワンが驚いたように目を丸くする。
エミリアは裾をつまんで勢いよく駆け下り、次の瞬間にはセリウスの胸元へ飛び込んでいた。
「お兄さま……っ!
なぜ文の一通もくださらなかったの?私、ずっと……ずっと心配していましたのよ?」
潤んだ瞳で見上げられ、セリウスは苦笑を浮かべる。
「……ごめんね、エミリア。心配をかけたね」
それから、そっと彼女の肩に手を添え、声を低く優しくする。
「でも……人前では、少し恥ずかしいよ」
その一言に、エミリアはぴたりと動きを止めた。
気まずそうに視線をそらし——そして、ローワンの存在に気付く。
「あ、あの……先ほどは取り乱してしまって。
私、エミリア・モルフォンドと申します」
慌ててスカートの裾を整え、深くお辞儀をする。
「ローワン・ランドフォードと申します。お目にかかれて光栄です、エミリア様」
ローワンは落ち着いた所作で礼を返した。その姿は、訓練の積み重ねを感じさせるほどに美しかった。
その時——
屋敷の方から、気配を伴った足音が近づいてきた。
「……セリウス」
姿を現したシャルルは、ローワンを一目見るなり、息を飲んだ。
隣には、穏やかな気品を漂わせる彼の妻が静かに寄り添っている。
「その子は……」
シャルルの瞳に宿っていたのは、驚愕だけではない。
これまでセリウスが見たことのない、深く沈んだ警戒の影——。
セリウスは、おそらくこの時初めて、養父の”貴族としての顔”を正面から見た。
状況次第では、この人はローワンの、いや——自分の敵になり得る。
そんな予感が、胸の奥をひりつかせる。
「父上、ただいま戻りました。長い間、ご心配をおかけして……申し訳ありません」
言葉に込めた思いが揺れているのを、自分でもわかっていた。
いま、自分がまともに微笑めているのか——その自信はほとんどない。
「初めまして。ローワン・ランドフォードと申します。セリウス様には、大変お世話になっております」
ローワンが丁寧に頭を下げる。
主人より先に反応したのは、シャルルの妻ヘレーネだった。
「あなたがローワンね。それから……あなたはダンテでしょ?
さあ、長旅で疲れたでしょう。どうぞ、中でゆっくりしていってね」
シャルルは一瞬だけ何か言いたげに眉を動かしたものの、すぐに穏やかな表情に戻り、妻の言葉に静かに頷いた。
急に名を呼ばれたダンテはびくりと肩を跳ねさせ、慌てて挨拶を返す。
そして一行は、ヘレーネの導きのまま屋敷へと足を向けた。
*
華やかでありながら、どこか落ち着きのある淡い色合いで整えられた部屋だった。
セリウスの実家らしい品の良い空気に、ローワンは張りつめていた肩の力がほんの少し抜けるのを感じた。
未だ緊張で背筋の固いダンテに、夫人ヘレーネが柔らかく笑いかける。
「試験じゃないのだから、今日くらいお作法は忘れていいのよ?」
その言葉に、ぱちりとエミリアが瞬く。
「試験?──まあ、あなた大学校を受けるの?」
「王立大学校を目指しているのは彼で……ぼ、私は近衛予備学院です」
かろうじて搾り出したダンテの返答に、エミリアの顔がぱっと明るくなる。
「まあ、それなら騎士を目指しているのね!頑張って!」
天使のような笑顔が無慈悲に突き刺さり、ダンテの耳がじんわり赤く染まった。
表情には出さないまま、ローワンは思わず内心で吹き出してしまう。
だが次の瞬間、くるりとその天使がこちらを向いた。
「それからローワン。私は今年、大学校の二年次に進むの。あなたも受かったら……会えるのが楽しみだわ!」
無邪気な笑顔に、ローワンは一瞬たじろぐ。
血のつながりこそ無いが、セリウスとエミリアが“本当の兄妹”に見えてしまうほど、この家族は揃って美しい。
美形に囲まれるとはこういう気分なのか、とローワンは場違いなことを考えてしまった。
エミリアが興味で瞳をきらきらさせながら身を乗り出すと、すかさずヘレーネがやんわりと注意を入れる。
「エミリア、はしたないわよ?」
「今日はお作法は忘れていいのでしょう?」
すばやく返すエミリアの言葉に、ヘレーネが少しだけむっとし、ダンテは戸惑い、ローワンは──つい堪えきれず吹き出してしまった。
「あ……すみません……!」
慌てて口を押さえるローワンに、ヘレーネはかえって申し訳なさそうに微笑む。
「いいのよ。こちらこそごめんなさいね。この子、みた通りこんな感じだから、社交界はあまり興味なくて……大学校も“行く”って聞かなくてね。お友達もたぶん少ないから……仲良くしてくださると嬉しいわ」
「もう! 友達くらいいるわよ、お母さま!」
抗議するエミリアの声はどこか照れていて、その愛らしさにローワンはまた、そっと笑ってしまった。
ティールームで皆が穏やかな笑みを交わす中、セリウスとシャルルだけは静かに庭へと歩み出ていた。
しばらく黙って並んで歩いていたシャルルが、ふっと息を落とす。
「……その様子だと、全部聞いたのだな。
この愚かな父を、恨むかい?」
横顔には、年相応の深い影が落ちていた。
セリウスは一拍だけ間を置き、首を横に振る。
「いいえ」
それ以上でも以下でもない、揺るぎない否定。
「おそらくですが──あの手紙を父上も最初から知っていたわけではないのでしょう?
……あの方の性格です。誰より頭を抱えたのは、きっと叔父上でしょうね」
言いながら、その情景が思い浮かぶ。
「二人が示し合わせて、あれほど危険なことを企むような方々ではないことくらい分かります」
瞳を閉じ。やれやれと肩をすくめるような淡い苦笑。
それを見て、シャルルの表情がわずかに緩んだ。
「……たしかに、フェルナードは王のくせに、どこかお前に甘えていたな」
懐かしむように目を細める。
「息子の従者というより──歳の離れた友に話すようでもあり、罪を告白する聖職者にでも頼るようでもあった。
お前の前では、あの男は不思議と”弱い部分”を出していたよ」
そこでシャルルは、自嘲のように笑った。
「そして……私はそれを知りながら、好きにさせた。
大切な息子だもの。誰にも傷つけられぬようにするには一番強い者のそばに置いておくのが最善だと……そんな欲もあったのだろうな」
砂利道に並んだ二人の影が、ゆっくり揺れながら進む。
父の語りはしみじみとしたものだったが、その内容は重い。
しかしセリウスには、シャルル達にそのような重い選択をさせる程の価値が自分にあるとは到底思えなかった。
セリウスはふっと短く息を吐き、話をすり替える。
「……父上。あの子は、まだ自分の出自を知りません」
セリウスは風の音に紛れるほどの声で続けた。
ただ、目の前の父にだけ届けばよかった。
「いつかは分かることでしょうが……それでも私は、ローワンにはローワンの人生を選択して欲しい。
父上が私を思ってくれたように……私にとっても、彼は大切な教え子です。その事だけは理解していただきたい」
シャルルは、短く息を呑んだ。
そして、どこか痛みを含んだ、しかし限りなく優しい笑みを見せた。
「……そうだな。
子を思う気持ちに理屈なんて無い。
あんなふうに“使おう”と考えた自分を思い返すと……私は結局、あの王と同じだね」
そう呟いて肩を落としたが、すぐに思い出したように顔を上げる。
「これだけは言っておくよ。
お前の叔父も……できることなら、あの少年を無理に祭り上げたいなどと思ってはいない。だから心配するな」
彼はしっかりとセリウスの瞳を捉えて告げ、それからふわりと口調を柔らかなものに変えて続けた。
「それに、そんな後ろ盾がなくとも──お前はもう、自分の力で十分に名誉を取り戻した。
御子としてではない。自らの功績でだ。さあ、もっと胸を張って」
くす、とシャルルはわざと肩をすくめて見せた。
庭の噴水越し、ティールームの灯りが遠く揺れ、ガラス越しに人影がときおり動く。どこか懐かしいような、静かな光景だった。
「おや……」
先に気づいて足を緩めたのはシャルルの方だった。
いつもの真面目な顔に、ひそやかな悪戯の色が差す。
「どうやら──あのエミリアが彼の“魅力”に気づいてしまったようだよ。
あれを取り上げでもしたら、今度は私が家の中で吊し上げにあう。」
どこか誇らしげで、どこか困ったような、父親らしい柔らかい笑みだった。
セリウスは思わず肩の力を抜き、小さく笑う。
「それは……少し厄介ですね」
「だろう? お前よりよほど怖いよ、あの子は」
軽口が落ちると同時に、空気がようやく日常の温度に戻る。
遠くティールームから、ローワンとエミリアの笑い声が風に乗って届いた。
「……セリウス」
歩みを止めたシャルルが、静かに言う。
「もう、誰の声も誰の視線も気にするな。お前の中の声を信じなさい。私たちは、お前の幸せだけを願っているよ」
セリウスはそっと首を振り、言葉を紡ぐ。
「……ありがとうございます。存じております」
肩に置かれた養父の手は、昔よりずっと軽かったが、その温もりは少しも変わらないままだった。
*
穏やかな談笑が続く中、ヘレーネは、セリウスとシャルルがそろそろ庭から戻ってくるだろうと察し、
「少し失礼するわね。お茶をもう一度整えてきますわ」
と女中を伴って席を外した。
扉が静かに閉まると、部屋に残ったのは柔らかい陽光と若い3人の気配だけになる。
エミリアが、ぽつりと呟くように口を開いた。
「……嬉しいの。以前より、お兄さまと会いやすくなるでしょう?」
その声音には、家族にしかわからない安堵が混じっていた。
ローワンは迷いながらも、丁寧に問いかける。
「セリウス様は……以前、王宮医官だったのですよね?」
「ええ、そうよ」
エミリアはティーカップを両手で包み込み、すこし懐かしむように微笑んだ。
「医官は通いでも働けるのだけど……お兄様はアルヴェル殿下──王弟殿下と年が近くてね。
子どもの頃からずっと殿下に気に入られていて、ほとんど王宮で過ごしていたの」
「王弟殿下……?」
思いがけない名前に、ローワンとダンテは思わず姿勢を正す。
エミリアはその反応にくすりと笑った。
「お兄様、何もお話ししていないのね。
ふふ、あの人らしいわ」
彼女は一度息を整え、ほんのすこし照れくさそうに続けた。
「本当はね……私のせいだと思っているの。
私が生まれたせいで、お兄様は遠慮してしまったんじゃないかって」
「遠慮……?」
「血が繋がっていないことで、変に気を遣う人なのよ。
父と母の間に子どもができたら、なおさら気にしたでしょうね」
その表情には、自分を責めるのではなく、兄を思う優しさがあった。
「でも……長い休暇のたびに、必ず帰ってきてくれたの。勉強も、乗馬も、料理だって……何でも教えてくれたわ。」
語る声が少しずつ明るさを取り戻し、春の光のように柔らかくなる。
「大切……なのですね」
「ええ、もちろんよ」
ぱっと微笑んだエミリアの耳に、中庭から控えめな笑い声が届いた。
おそらくシャルルとセリウスだ。
エミリアはそちらへそっと目を向け、胸の前で手を組んだ。
「……帰ってきてくれて、本当に良かった」
程なくして、新しいティーセットがテーブルにそっと置かれ、立ちのぼる香りが部屋をふわりと和ませた。
「お待たせしてしまってごめんなさいね。——あら、丁度よかったわ」
ヘレーネが戻ってきたほんの少しあと、中庭に面した扉が静かに開き、シャルルとセリウスが姿を現した。
優しい夕光を背に受け、二人の影がティールームの床へ長く伸びる。
エミリアはぱっと顔を輝かせ、ローワンとダンテも思わず姿勢を正した。
「そんなに畏まらなくていいのよ?」
ヘレーネが笑みを向けてくれたけれど——
「は、はいっ……ありがとうございます……!」
なぜかさらに緊張するダンテ。
その反応にエミリアが思わず口元を押さえて笑い、ローワンも肩の力が抜ける。
ヘレーネがそっと二人のあいだに視線を流し、
「さあ、皆さま、どうぞ続きを」
と穏やかに促すと、ティールームには再び温かな空気が満ちていった。
さっきまでより少し柔らかい光の中で、テーブルの上のティーポットが静かに銀色の輝きを返している——。
セリウスは席に着く前に一瞬だけローワンへ目をやり、ほんの僅かに緩んだ表情を見せた。
その穏やかさに、ローワンの胸の奥で何かがほっと溶ける。
そして、何事もなかったように皆が席へ戻り、ようやく訪れた春の午後は、再び優しいざわめきに包まれていった。




