冬の終わりに
ちょうどその頃、リディアの屋敷では、セリウスが王宮からの要請について説明を終えたところだった。
リディアも町長もその話の重みを噛みしめながら、けれど逃げずに向き合うような静けさで彼の言葉に耳を傾けていた。
「そんな大層な事になっているとは、いやはや…驚きました」
「ハンスさん。町の方々は実際どう感じてるのでしょう?」
セリウスが問うと、町長は腕を組んだまま、しばし天井を見上げる。
考え込むというより、今までの日々をひとつずつ思い返しているようだった。
「いやあね、正直に言うとだよ?」
と前置きしてから、ぽろりと本音がこぼれる。
「先生から打診を受けた時は、頭では『なるほど』と思ったが、心はまだ追いついてなかった。そんなにうまく回るもんかってね。最初は、自分たちの子どもにも農夫以外の夢を見せてやりたいって……それだけだったんだよ。
その代わりの働き手が来るなら、まあ助かるか、くらいで」
けれど、と彼は目尻をほころばせる。
「孫と同じ年ぐらいの子が、骨ばって縮こまってたのを見てしまうとさ。ああ、放っとけるもんじゃないなって思っちまったね。」
小さな領地では己の暮らしだけで精一杯な家も少なくない。
それでも、受け入れて半月もすると、守られる側だった子どもたちが余裕のない家へ自ら手伝いに行くようになった。
一方的ではなく、お互いの足りないところを満たし合うような、静かな循環。
その変化を、町長ハンスは何より誇らしく思っていた。
「みんなきっと誰かを幸せにしたいなんて大仰なことを思ってるわけじゃない。それでも、あの子たちが自分たちの子どもと同じように成長していくのが、嬉しいって……そりゃあ、思うさ」
セリウスはその言葉を聞きながら、胸の奥がじんと熱くなるのを止められない。
王宮の机上では語られない“生の声”が、ここにはあった。
その時——戸口の向こうから、少し緊張を含んだ声がした。
「母さん、ただいま。いま、ちょっといい?」
ローワンだった。
リディアが扉を開くと、その隣には、いつもより背筋を伸ばしたダンテの姿もある。
ふたりは部屋に招かれると、ローワンは深く息を吸い込んだ。
胸の奥で、何日も前から形にしようと温めてきた言葉が、ようやく外へ出ようとしていた。
「……あのね。ずっと言えなかったけど……僕、もっと勉強がしたいんだ。」
迷いではなく、覚悟を通した声だった。
「この街で暮らして、母さんがどれだけの想いで町を守ってきたかがわかったんだ。
僕は……いつかその隣に立ちたい。
そのためには、もっと学ばなきゃいけない。もっと強くならなきゃいけないって、やっと思えたんだ。」
隣でダンテが一歩前に出る。
「俺も言わせてくれ。
こないだ近衛師団を見た時……心が決まったんだ。ああいう騎士になりたい。胸を張って守れる人間になりたい。
だから俺も、もっと広い世界を見てみたい。」
リディアは、息子たちの言葉を最後まで遮らずに聞いていた。
彼らの声が静かに部屋へ落ち着いていくと、彼女はそっと胸に手を添え、深く息をつく。
「……ローワン。あなた、いつの間にそんな顔をするようになったの?」
柔らかく笑ったその声は、母だけが持つ特別な痛みと誇りが滲んでいた。
「勉強したいと思ったなら、胸を張りなさい。
あなたが“自分で選んだ道”なら……母さんは反対しません。」
その言葉に、ローワンの肩がわずかに揺れた。
続くように、リディアはダンテへも視線を向ける。
「ダンテ、あなたもなのね。
……ふふ、あの近衛師団に目を輝かせてたものね。気づいてたわよ。」
ダンテの頬にほんのり赤みが差し、ぎこちなく胸を張る。
「いつか言い出すと思ってたよ。ああ、マリーが心配して暴れそうだ」
町長がぼやいたが、その声音には噛みしめるような喜びが滲んでいた。
「セリウス先生は…反対ですか…?」
何も言わないセリウスが気になり、そう尋ねたのはダンテだ。
少年達の決断を、目を細めて眺めていたセリウスは、声をかけられるとその表情をわざといたずらなものに変えて言った。
「まずはあなたの父母に了承をもらいなさい。
騎士は平民でもなれるけれど、初等教育にはすでに遅れを取っている。
春までに、私がパーゲまでの指導を手伝いましょう」
セリウスの言葉に、少年達の瞳は輝きを増す。
確かに、未来が動き始めていた。
*
両親から正式に承諾を得たダンテは、ローワンとともに立ち居振る舞いについてセリウスの指導を受けた。
姿勢が一寸崩れるたびに静かな声で容赦なく的確な指示が飛ぶ。
声色はあくまで柔らかいのに、あの涼やかで美しい顔をして、普段とは比べものにならない程の厳しさを向けてくる。
その豹変ぶりに、いつも快活なダンテすら「今日のレッスンはパスしようかな」と涙目になった。
馬術や剣術の基本は、あの子どもたちと共に領地に雇用された"元私兵"に任された。
この地に来てからは、専ら力仕事ばかりだった彼らだが、少年たちを教える役目を与えられると、誇らしげに二つ返事で引き受けてくれた。
もともとは領地の尊厳を守るために始めた施策だった。
けれどそれは、いつの間にか未来の担い手を育む仕組みに育ちつつあった。
そして受け入れた彼ら自身も、この地で誇りを取り戻していく。
(すごい。もっと、みんながこうなれば良いな)
あの日、セリウスが拾い上げてくれた言葉が、形を成していく。
理想が領地を、この国を変えられる。
そんな確かな手応えが、ローワンの胸を熱くした。
まだ見ぬ世界を、もっと知りたい。
そして、今度は自分の力で何かを変えたい。
*
そうして日々はあっという間に過ぎていった。
朝は礼法の復唱、昼は馬場で汗を流し、夜はセリウスに課された課題に頭を抱える。
小さな領地の冬は長く、吐く息は白いままだったけれど、それでも少年たちの眼差しだけは日に日に凛としていった。
気がつけば——もう春がそこまで来ていた。
王都への出立を控えた朝、屋敷の前には冷たい風とは裏腹に、どこかそわそわと温かな空気が漂っていた。
せわしなく動き回る従者たち、背伸びして荷物を持ちたがる子どもたち、そして少しだけ誇らしげに胸を張るローワンとダンテ。
季節が巡る速度は変わらないはずなのに、こんなにも早く感じるのは——きっと、その分だけ二人が前へ進んだからだ。
「……本当に、受かるんだろうな?」
腕組みをした町長が、いつもの渋い顔でダンテを睨む。
その横で、ダンテの父親も同じように無言の圧をかけていた。
「う、受かるよ! たぶん……いや、絶対!」
ダンテは弾かれたように言い返すが、その声がわずかに裏返っていて、ローワンは思わず笑ってしまった。
「受験資格はすでにセリウス先生が保証してくださいました。それに彼は飲み込みも早くて、素質がありますよ。あとはいつも通りやるだけです。」
そばに控えていた兵士アンヘルが笑ってそう補足すると、町長は鼻を鳴らす。
「それが一番難しいんだよ。……まあ、行ってこい。どうせ落ちたら帰ってくるんだろうからな」
「お父さん!」
「冗談だ、冗談。」
そんなやり取りの横で、リディアはローワンのマントの襟を整えながら、そっと彼の頬に触れた。
「……本当に、行くのね」
ローワンはこくりと頷く。
母を安心させたくて、でも胸の奥は不安と期待で忙しく跳ねていた。
「あなたがここを出ていく日が来るなんて思わなかったわ。」
「うん。ごめんなさい。でも、行きたいんだ。もっと知りたい。もっと強くなりたい。」
リディアは柔らかく笑い、そのまま彼を抱きしめた。
「もう、なぜ謝るの?母は、喜んでいるのよ」
母の温もりに触れると、ローワンの決意が静かに深く固まっていく。
「セリウス。どうか、ローワンを……」
「ええ。約束します」
セリウスは短く、それでも強い意志をこめて答えた。
「シンディ、いいこと?くれぐれも口を慎みなさいね」
「はい!もちろんですとも」
そんなやり取りを横目に見ながら、ローワンは馬車の後ろに積まれた荷へ視線を向けた。
王都にあるランドフォード男爵が貸してくれる邸宅には、すでに何日も前から荷が運び込まれている。
そこがこれからの“家”になる。
ミーナが同行できない代わりに、シンディと数人の女中、それに護衛がついてくれることになっていた。
馬車のそばで荷物を積み込む彼女たちの姿を眺めながら、ローワンは胸の奥がほんのり高鳴るのを感じていた。
(……王都では、この人たちと一緒に暮らすんだ)
すっかり馴染んだセリウス邸の面々と再び同じ屋根の下に住める安心感。
そして、セリウスとともに過ごす新しい日々の期待が静かに膨らんでいく。
けれど、その胸の高鳴りには、もうひとつ別の色も混じっていた。
(……ランドフォード男爵。どんな人なんだろう)
十数年前、身重だった母を「養女」として迎え入れ、庇護した人物。
今度は自分がその人に会うのだと思うと、手のひらにうっすら汗が滲む。
まるで胸の奥に渦巻く不安をそっと掬い取ったかのように、セリウスの声が落ちてきた。
「気楽にいこう」
気休めの言葉のはずなのに、この人に言われると、どうしてこんなにも息がしやすくなるのだろう。
ローワンは、こわばっていた指先がゆるむのを自覚した。
その横ではというと、ダンテがローワンとは別の不安を抱えていた。
「……予備学院って、寮生活なんだよな」
「そうだね。王都に着いたらすぐ試験だし、合格したらすぐ寮に入ることになるよ」
「…………」
「ダンテ?」
「いや……なんか、急に怖くなってきた」
情けなく呟くダンテの背を、父親が思い切り叩いた。
「いたっ!」
「男なら行け。いいな?行ってこい!」
笑いが広がる。
やがて馬車の準備が整い、セリウスが二人を促した。
「そろそろ行きましょう。……春には、また違う景色が見えますよ」
ローワンとダンテは振り返り、村の人々に深く頭を下げた。
「行ってきます!」
「必ず帰ってくるから!」
その声には、不安も、期待も、未来へのまっすぐな光もすべて入り混じっていた。




