岐路
朝の空気の冷たさに目を覚ました。
もう二度目の冬になるのだと気付き、セリウスはゆっくり身を起こす。
窓の外には、井戸端で水を汲む子どもたちの姿が見える。
その声がこんなにも自然に日常へ溶け込んでいることが、不思議だった。
支度をして階下へ降りると、すぐに気付かれてしまう。
「セリィ先生、おはようございます!」
「セリウス様、今日は一番遅いよ!」
次々に飛んでくる挨拶に、思わず頬がゆるむ。
「おはよう。皆ずいぶん早いね」
「だって今日から、私たちも勉強させてもらえるんでしょう?」
弾んだ声で話す少女は、一年前のあの日、セリウスが文字を教え、僅かばかりの食糧を与えていた子どもだ。
あれほどに恐ろしいことがあったというのに、その無邪気さに胸が温かくなる。
新しい土地に来たのに、彼らは自分を変えることを恐れない。
夜泣きし、泣きじゃくるほど不安だったはずなのに、朝になればまた笑える。
その強さが、かつての自分とは違うのだと気付かせる。
可哀想なだけの子どもではない、と彼ら自身が証明していた。
「セリウス様、眠れました?無理なさらずとも…」
ナディアが温めたミルクをそっと置き、気遣うような目を向けてくる。
その優しさを見送ると、セリウスはひとつ小さく息を吐く。
子どもたちの笑い声を聞きながら、ふと気付く。
ここでは、誰も自分を責めない。
誰かの役に立てていると実感できて、胸の奥にずっとあった固い殻が、かすかに緩む。
——息がしやすい。
そんな感覚を、この地で覚えてしまった。
“王都だけが世界の全て”だったはずなのに、外へ出てみれば、あの場所の窮屈さにも理由があったと知ってしまった。
理屈で言えば、もうここで自由に生きていいのだ。
有事の際にこの力を利用されるのを待つだけの人生なら、王宮という檻で息を潜め続けるより遥かに穏やかに過ごせるだろう。
……それなのに。
どうして、こんなにも。
あの瞳を思い出してしまうのだろう。
焔の色を宿した、あの人の視線。
あり得ないほど真っ直ぐで、時に愚かしいほどに、自分だけを映していた。
“誰かを助けられる自分になりたい”という願いは、彼への依存の延長だったのだと、最近になってようやくセリウスは自覚した。
けれど今は違う。
自分の足で立ち、自分の意思で、誰かを救いたいと思える。
その変化を、いつか伝えたかった。
——あの日のあなたが心配し続けた私は、もう大丈夫です、と。
守られてばかりの子どもではなく、対等に並べる自分になりたくて。
ローワンの思いつきに乗り、制度を形にしようと走ったのも、きっとそのためだった。
地に足がついた事で、見えてしまった。
自分があの人に向ける自分の気持ちは、もっと原始的で、もっと本能的で、もっと厄介なものだということに。
自由になった自分をいちばん見てほしい、と願ってしまう相手が——他ならぬアルヴェルだということにも。
「忠誠心」と呼ぶにはあまりに個人的で。
「執着」と呼ぶにはあまりに優しい。
知りたくなどなかった。
知ってしまえば、もう目を背けられなくなるから。
それなのに、いま——
会いたい、と思ってしまっている。
王都へ戻れば、そこにあるのは息苦しさと現実だけだと分かっているのに。
……それでも。
感情の方が先に歩き出す。
滑稽だ。
アルヴェルにはもう、自分など必要ないだろうに。
*
町に迎えた子どもたちは、最初こそ遠巻きにされていたが——不思議なもので、誰かが一歩近づけば、たいてい二歩、三歩と続くもので、あれから二ヶ月も過ぎれば町はすっかりこれまでの穏やかさを取り戻している。
パン屋の女将は声が大きいぶん気も大きく、気に入ったら容赦がない。
「この子ゃ手つきがいいね!明日から店の裏でパン丸めるの教えてやろか?」
そんな調子で、気づけば毎朝二人の子がパン生地をこねている。
鍛冶屋の親方はぶっきらぼうだが、子どもが落とした工具を直してやって返すときの顔は優しい。
縫い子の寡婦は、母親のように小言が多くて、でも一番泣き虫の少女に寄り添うのは決まって彼女だ。
町は、思った以上に温かかった。
セリウスは少し離れた縁台に腰を下ろし、町の穏やかな景色を静かに眺めていた。
表情はいつも通り淡々としている。けれど、どこか和らいだ気配を帯びている——そのわずかな変化を、後ろから近づいてきたリディアはすぐに察した。
「……賑やかね。こういうの、良いわ。」
セリウスはそっと頷く。
ただの肯定の動作のはずなのに、その瞬間、呼吸を整えるように微かに胸が上下した。
言葉にすること自体にためらいがあるのが分かる。
「先日、ローワンのことで……思わず偉そうな事を言ってしまいましたが……。
私自身、ずっと……ここにいてもいいのかもしれない、と……思ってしまうのです」
声はかすかな揺らぎを含んでいた。
感情を隠しているのではない。そもそも、こうした“自分の話”を誰かに向けて語ることに慣れていない声音だった。
リディアは足を止め、彼を見つめる。
「……初めて聞いたわ。あなたが、自分のことを話すなんて。」
セリウスは困ったように瞬きをした。
自分でも抑えきれず言葉が漏れたのだと気づいている顔だ。
「私……あなたには、ずっと帰りたい場所が別にあるのだと思っていたのだけれど。」
“王都”とはあえて言わない。
言わなくても、互いに察する距離感だった。
セリウスはゆっくり息を吸い、言葉を探すように視線を落とした。
「……ここへ来た頃は、王都を離れるしかなかったことが、とても辛かったのです。
私には、あそこしか世界がありませんでしたから。」
リディアは静かに耳を傾ける。促すようでも、急かすようでもなく。
「でも、この町で過ごすうちに……私は変わっていたのですね。」
リディアは柔らかく微笑む。
「ええ。あなたを必要としているのは、ローワンだけじゃないわ。みんなよ。」
それでもセリウスの表情にはなお迷いが残っていた。
その奥に沈む揺らぎに、リディアが静かに気づく。
「……けれど、迷っているのね。
最初の頃とはまた違う理由で帰りたくなっていることに、戸惑っている。……違うかしら?」
セリウスの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「その、……もう一度会いたいなどと……思って良いのでしょうか。」
その矛盾した言葉に、リディアはわずかに目を瞬かせた。
だが次の瞬間、すべてを理解したようにふっと笑む。
「うふふ……あなた、それを言う相手を間違えているわ。私が誰の継母か、忘れたわけではないでしょう?」
責めるでも、驚くでもない。
むしろ、心の奥の小さな秘密をそっと受け取るように。
「理屈なんてどうでも良いのよ。
迷ったら、胸が高鳴る方を選んだら?」
リディアが優しく微笑んだその時だった。
屋敷の方から、バタバタと小さな足音が駆けてくる。
「セリィせんせいっ!!セリィせんせい、どこー!?」
息を切らした少年が、縁台の前まで転がり込むようにして止まった。
セリウスが姿勢を正すと、少年はぱあと顔を輝かせる。
「いた! せんせい、えっとね、えっとね……!
なんかスゴい手紙だよ!
あのね、お屋敷の人が呼んできてって!!」
リディアは思わず目を瞬く。
「……“スゴい手紙”?」
「うん!なんかね、とっってもきれいな封筒で……さわっちゃダメって言われたの!お城の印があったよ!あの丸くて、かっこいい模様の!」
セリウスの肩が、ほんのわずかに強張る。
リディアも気づく。
いま話していた「迷い」の行き先を、誰かが急かすように呼んでいるのだと。
リディアが小さく笑う。
「どうやら“流れ”の方が、あなたを探しに来たようよ。」
少年は状況など知るはずもなく、ただ無邪気にセリウスの手を引っ張った。
「せんせい、早く!なんかね、大事な話っぽいよ!
シンディも『えー王様の手紙!?』って大騒ぎしてる!!」
セリウスは小さく息を整え、縁台から立ち上がる。
リディアが静かに囁いた。
「……行ってらっしゃい。どんな答えでも、あなたが選ぶならきっと大丈夫よ。」
セリウスは一度だけ振り向き、深く礼をして、少年に手を引かれるまま、邸へと歩き出した。
まだ胸の奥で渦巻いている迷いと願いを抱えたままで。
子どもの背中を追って屋敷へ戻ると、クロムウェルがやや緊張した面持ちで立っていた。
その横には、王宮からの伝令。周囲には珍しい客人を取り囲むように子どもたちが集まり、興味津々に彼を見上げている。
あまりに“場違い”な絵面に、セリウスは思わず口元を緩めてしまった。
「こちらにお預かりしている文がございます。」
手渡された封筒は、アーサーのいつもの気さくな私信ではなかった。
王家の紋章が大きく金泥で押され、紙質も妙に重い。
“これは私用では済まない内容だ”と、手に取っただけでわかる。
リディアの言葉が蘇る。
——迷ったら、胸が高鳴る方。
ひとつ息を整え、封を切った。
「……地方受け入れ制度の、正式施行……?」
書かれているのは、簡潔で、それでいて重い文言だった。
王都での反響を受け、諸侯から同様の受け入れ希望が次々と届いているということ。
これを“国策として”本格的に動かしたい。
ついては、施行に向けた準備会議への出席を求む——その通達。
「セリウス様! すごいじゃないですか!」
緊張から声が裏返ったクロムウェルが、子どもたちとともにぱっと笑顔を見せる。
伝令も誇らしげにうなずき、子どもたちの拍手が広がる。
胸の奥が熱くなる。
嬉しかった。
認められたのだ。
この町での小さな取り組みが、彼らが——ひとりの人として扱われようとしている。
“この世界にいていい”
そう告げられたような気がした。
けれど、その温かさの影をかすめるように、ふいに別の記憶が胸の奥で疼く。
王都で浴びせられ続けた、あの好奇の目。
忌避と嘲弄を隠しもしない視線。
そして——最後にアルヴェルが向けた、あの戸惑いの瞳。
ツクリ、と胸の真ん中に細い針が落ちる。
あの場所へ戻れば、またあの視線が自分を待っている。
あの人の顔が、自分のために曇る。
——もうあんな顔、させたくはない。
そのただ一つの願いが、胸を締めつける。
逃げたいわけではない。
離れたいわけでもない。
“縛りつけたくない”だけなのだ。
(ああ……そうか)
自分が本当はどうしたいのか、まだ掴めない。
なのに、したくないことだけはこんなにも鮮明だ。
今しかないのかもしれない。
生まれ変わった自分で、彼の庇護から決別するには。慈悲の対象でも所有物でもない、自分を認めてもらうには。
セリウスは一度瞼を閉じ、決意を胸の底で静かに形にした。
すっと息を吸って目を開けたとき、澄んだガラス玉のような瞳に宿った光を、クロムウェルは見逃さなかった。
「……行かれるのですね」
絞り出すような声。
涙をこらえる従者の表情に、セリウスはそっと微笑みを返す。
「皆、私を信じてくれてありがとう。
君たちや、まだ見ぬ君たちのような原石が、迎えを待っている。
私はここから離れなくてはならないけれど……迎えに行っても、いいだろうか」
穏やかだが芯のある声が広間にひろがった。
子ども達は言葉のすべてを理解できたわけではない。
それでも、セリウスが“何か大事なことをしに行くのだ”という空気は十分に伝わったのだろう。
それぞれが胸を張り、小さく頷いた。
その中で、ひときわ真剣な顔でセリウスを見ている影がある。
ローワンだった。
けれど彼は何も言わない。ただ口をきゅっと結んだまま。
代わりにローワンの横に立つダンテが口を開いた。
「……帰ってくるんでしょう?」
問いというより、確かめるような声だった。
セリウスはその瞳を見つめ、迷わず頷いた。
「ああ。迎えを待っている子どもたちがいるのと同じように……
ここにも、帰る理由ができたからね」
その言葉に、ローワンはほっと息をついた。
後ろで見守っていたリディアが、胸に手をあてて静かに目を細めた。
控えていた従者の中には、堪えきれず涙を流す者もいる。
主人が、ここで生まれ変わったこと。
そして、新しい「始まり」に向かって歩き出すこと。
そのすべてを、胸の奥で噛みしめながら——
屋敷全体が、静かにセリウスの旅立ちを祝福していた。
*
夕暮れの光が石畳を薄桃色に染めていた。
家々の窓からこぼれる灯りが、ひとつ、またひとつ増えていく。いつもと同じはずの景色が、今日はなぜだか違って見えた。
ローワンは胸の内側がくすぐったいほど落ち着かず、ひと息つくたびに心臓が跳ねた。
(言わなくちゃ。ちゃんと、言うんだ。)
それは怖い気持ちと隣り合わせで、けれど逃げたくなるほどの恐れではなかった。
隣を歩くダンテも、そわそわと袖をいじっていた。
彼は気付かれまいと平静を装っていたが、ローワンには分かる。ずっと一緒に育ってきた仲なのだ。
何歩か前に出ては、またローワンの横に戻るダンテの歩幅が、いつもの調子よりずっと速い。
「……まだ迷ってる?ダンテ。」
足を止めて振り返ったローワンがそう言うと、夕暮れの色が彼の横顔を照らし、その瞳の奥の決意がわずかに光った。
ダンテは瞬きを一度して、ぎゅっと拳を握った。
「ううん、決めた。…いこう。」
小さく息を合わせるように笑った後、ふたりは走り出した。
靴音が、静かな町の通りに軽やかに響く。
まるで未来の方から呼ばれているかのように。
彼らの背中は、子どものそれでありながら、不思議と頼もしく見えた。




