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女神の国 1  作者: 大福駒子


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【Side-story】父王の罪


 彼女は震えていた。


「こんなもの……必要ないわ。生まれてくるこの子を、あなたが抱き上げてくださるのでしょう?」


 それは強がりとは呼べない声だった。

 王妃としての威厳を保とうとするより先に、母として、ひとりの女としての悲痛が滲み出てしまう——そんな声音だった。


 当然だ。

 自分が口にした提案は、彼女を救うためでありながら、同時にどれほど残酷なものだったか。


 誰もが良縁の噂に浮き立つ年頃に、彼女だけは領地の図面を広げていた。

 雨水の流れ、作物の輪作、村ごとの人口——そんな話を目を輝かせて語る少女を、フェルナードは今でもはっきり思い出せる。


 あれは奇妙な夢だった。だが、美しかった。


 それごと彼女を王宮へ押し込み、政治という牢に閉じ込めたのは自分だ。

 妻として迎えたのも、愛より先に国家があった。


 それでもリディアは折れなかった。

 前妃の死で空いた役目を誰より誠実に引き受け、王家の未来を守るために立ち続けてくれた。

 やがて宿した新しい命を前に、あの夢をまた——

 “皆でこの国を豊かにする”という、あの人らしい未来を——

 小さく、けれど確かに描き直し始めていたのだ。


 なのに、今また手からこぼれ落ちようとしている。

 それを止める力が、自分にはもう残されていない。


 扉が閉まった後、その音だけがいつまでも響いた。

 リディアの足取りが乱れていたことに気付いていないふりをしたのは、ただ、胸が痛くて見ていられなかったからだ。


(……泣いているな)


 枕元の光がゆらぎ、弱りきった自分の影が壁に細く伸びる。


 ——これが最後の、彼女の涙かもしれない。



 しばらくして、控えめなノックがあった。

 入ってきた二人を見た瞬間、胸の奥が僅かに和らぐ。


 息子のアルヴェル。

 そして、その後ろに控える少年——セリウス。


 ぎこちないながらも、アルヴェルは父と向き合おうとしていた。

 長年距離があったせいで、言葉はつっかえ、互いに手探りのような会話だ。それでもいい。

 彼が“逃げずに来てくれた”だけで十分だった。


 そして、セリウス。

 あの少年は部屋に入ってきてすぐ、視線を扉の向こうへ滑らせた。


(……気付いたか。リディアの目の赤さに)


 相変わらず、痛いほどよく見てしまう子だった。


 「セリウス……こちらへ」


 差し出した手は細り、震えていた。

 彼は迷いなくその手を包み込む。

 温度だけで、心がほどけてしまうような優しさだった。


 祈りの光は、病んだ身体には強すぎるほど澄んでいた。

 しかしその光がこぼれ落ちていく感覚が、逆に幸福だった。


「ありがとう。しかし……その力は、生きてゆく者のために使いなさい」


 ——そう。

 今この場で必要なのは、奇跡ではない。

 この先、誰かが倒れたとき、彼が隣に立っている未来だ。


 部屋を出ようとする二人を呼び止める。


「……セリウスを、少し貸してくれ」


 アルヴェルの瞳が揺れた。

 父に“大切なもの”を取られたような、幼い嫉妬にも似た眼差し。


 ああ、可愛い。

 可愛いが……アルヴェルは誠実なあまり嘘が下手だ。

 今の彼では、こらから託す物の意味を抱えては生きていられまい。

 アーサーもまた、今や政の只中にいる。

 強かにならねばならぬ立場の者に、これを預けるのは酷だ。


 だが——セリウスは違う。


 痛みに寄り添うのが“本能”のような少年だ。

 他者の影や涙に、反射のように気付く。

 それは、王家が利用するには優しすぎる資質だが……いまの自分には、救いだった。


「セリウス、おいで」


 細い体に似合わぬほど、彼の手は温かい。

 自分を、王としてではなくひとりの人間として扱おうとしてくれる、その迷いのなさに胸が締めつけられる。


(この子は……“頼めば動いてしまう”)


 頼まれなくても、誰かが泣いていれば動いてしまう。

 そんな性質を。

 利用する罪深さを。


(——赦せ)


 だからこそ、やさしく言った。


「セリウス、お前は……もう少しアルヴェルのようにわがままでいい。

 生きるというのは、本来そういうものでいいのだ」


 言葉の表面は温かい。

 けれどその裏で、フェルナードはひどく冷静だった。


 この少年が“わがままになどなれるはずがない”。


 わがままになれないからこそ、いずれ気づいてしまうだろう。

 リディアがこの城から消えた真実に。

 どこかで息をひそめて生きていることに。

 そして手紙を“渡すべき相手”が、どれほどそれを必要としているかに。


 ——だから託す。


 願いと、狡さと、父としての愛情を全部ひとつにして。


 枕の下から、端が少し折れた封筒を取り出した。


「……彼女、泣いていたろう?」


 問えば、少年は静かに頷いた。


「頼みがある。これを——いつか、どこかで“逢えたら”渡してほしい」


 急ぐ必要はない。

 渡せないままでもいい。

 これは国家の命ではなく、夫としての身勝手な祈りにすぎない。


 けれど、彼女が流した涙の意味を、セリウスだけはきっとわかってくれる。


「アルヴェルでは……あいつは勝手に開けるか、失くしてしまうだろう?」


 冗談めかして笑うと、少年も小さく笑った。

 ほんの一瞬、その笑顔が眩しくて、胸が締めつけられた。


「頼んだよ」


 扉の向こうに息子の影を感じ、フェルナードは笑って促した。


(すまない……こんな重荷を)


 心のなかで詫びた。

 けれど声にはしない。


 セリウスはまだ何も知らないまま——ただ、静かに頷いた。

 その頷きは、あまりにもまっすぐで、残酷なほど美しかった。



挿絵(By みてみん)



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