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女神の国 1  作者: 大福駒子


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風薫る


 ローワンはずっと不思議だった。


 自室の大きな窓に沿うように造作されたカウチに寝そべり、物思いに耽っている。

 視界に入る調度品はどれも古いものだったが、子どもの目にも設えの良さが分かる。


 母一人、子一人——正確にはそこに乳母一人、猫一匹が加わるが——の暮らしには不釣り合いな程に広い屋敷は、使われていない部屋も多く、敷地も広い。

 母はといえば来客とお茶を楽しんだり、土いじりをしたり、時折「少し散歩に出るわね」と丘を下っていく。


 ローワン自身も、屋敷の中で過ごす時間が多かった。

 かつては麓の集落で他の子どもたちと遊ぶこともあったが、彼だけが“ぼっちゃん”と呼ばれ、何かにつけて大人たちが気を揉む。

 母は「構わないわ、みんな同じ子どもなんだから」と笑っていたが、周囲の大人はやはり態度を変えなかった。

 ローワンは、誰かが自分のせいで叱られるたびに居たたまれなくなり、いつしか足が遠のいていた。


 わざわざ説明されたことはなかったが、元の主人は別邸に住んでいて、母はおそらく自分を身篭ったが為にひっそりと、彼の庇護下に置かれるようになったのではないか。

 けれど誰にそれとなく尋ねても、曖昧に笑って誤魔化すばかりだった。

 やがて彼は問いかけることをやめ、代わりに屋敷の蔵書へと没頭した。


 幸いここには、絵本から専門書まで読みきれないほどの本がある。

 知らないことを知るたびに、世界が少しだけ広がる気がした。


 ——昨日出会った“彼”の癒しの力も、この国の神話に出てきたものだった。

 けれど本に書かれているそれは、はるか遠い昔話で、とても現実とは思えなかった。

 既に痛みのない腰にそっと手を当てて、目を閉じる。

 ——あの日、塀の向こうで見た光景を思い出した。

 陽光を浴びて輝く噴水。花々の色彩。

 そして、あの人の声。


 窓の外で、枝葉がざわめいた気がした。

 初夏の空の向こうから、まだ知らぬ季節の匂いが流れ込んでくる。


 ローワンは本を閉じ、カウチから身を起こした。

 いつもなら昼食のあとは昼寝をする時間だが、今日はどうも落ち着かない。


 まるで夢の中の出来事のようで、けれど確かに胸の奥に残っている。

 癒しの温もりと、夜明け前の空気みたいなの淡い水色の瞳。

 名前を思い出すだけで、なぜか胸の奥がざわついた。

 あの塀の向こうの景色の様に、ローワンの知らない世界は限りなく広がっているのだろう。


(また、会ってみたい)


 それは突拍子もない思いつきだった。

 だが、その衝動はゆっくりと形を成し、抑えがたい何かになっていく。

 理由なんてない。ただ、知りたかった。

 あの人がどんな人なのかを。

 そうしたら——

 この胸に積もる「なぜ」にも答えが出るだろうか。


 ローワンは小さく息をつき、弾みをつけて立ち上がる。カウチの上にルナの毛が一筋、陽に透けて光っていた。

 その一筋を見て、彼はそっと微笑む。


 ——そうだ、ルナの様子を見に行くという名目なら。


 靴を履き、帽子を掴み、廊下を抜ける。

 玄関脇の扉の隙間から風が吹き込み、カーテンをふわりと揺らした。

 階段を下りる途中、乳母のミーナが声をかける。


「ローワン坊ちゃん、どちらへ?」

「少し、散歩に行ってくるよ。丘の方へ」


 ミーナは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。

「お気をつけて。日差しが強いから、帽子は忘れずにねぇ」

「うん」


 扉を開けると、風が頬を撫でた。

 夏の匂いが混じる草の香り。

 遠くで鐘が鳴っている。


 ローワンはその音に背中を押されるようにして歩き出した。

 もう迷うことはなかった。

 塀の向こうにある光を、もう一度この目で見たい。

 ただそれだけの理由で、彼は再び林の道へと足を踏み入れていた。



 季節は夏に近づいていたが、真昼間の林の中は思っていたよりも静かで涼しい。

 木々の隙間から漏れる陽の光が、まるで手招きするように揺れている。

 前にここを通ったときは、ただ夢中で走っていた。けれど今日は、足元の草の香りや鳥の声さえも、ひとつひとつ確かめるように歩いていた。


 風が熱った身体から熱をさらい、胸の奥のざわめきもまた少しずつ落ち着いていく。

 塀が見えてくると、あの日の記憶がふっと蘇った。

 陽光にきらめく噴水、花壇の彩り、そして彼の瞳。


(本当に……また、会えるだろうか)


 そんな不安を抱えながらも、気づけば手は塀に触れていた。

 滑らかな漆喰の感触。それでも、前回よりは湿り気を感じない。ローワンは手慣れた様子で上まで登り切る。


——と、ちょうどその時。


「まあ、あなた……!」


 柔らかな声がして、日差しの中を見覚えのある赤毛が小走りして来た。

シンディだった。


「あのときの……」

ローワンが言うより早く、彼女はふふっと微笑んだ。


「また来てくれたのね!」

「あの……ルナは来てるかな?」


 用意していた台詞も、いざ口に出すときになってぎこちなくなってしまって、ローワンは少し赤くなる。

 そんなローワンにシンディはにっこりと笑って見せ「ええ。ほら、あそこ」と振り返って指差した。

 塀の下の草むらで、ルナがあくびをかいている。

  

「門から入れるわよ。それとも梯子を持ってくる?」


 シンディがにっこりと、でも今度は面白そうに笑う。

「……門から、入るよ」

 確かにローワンよりも力のある大人のシンディだが、かといって侵入者のためにわざわざ重い梯子を持たせる訳にはいくまい。


「待ってるわ」


 それだけ言って、シンディはくるっと小気味よいターンをして立ち去る。主人の元へ向かったのだろう。

 ローワンも急いで塀を回りこみ、林の切れ目まで走った。


 白い石畳と、清涼な香草の匂い。

 門扉までくると、ようやく初めて邸宅を正面から眺める。

 走っている時も思ったが、やはり規模はさほどでもないのか。

 小ぶりでさっぱりとした外見の邸宅に小さな庭。庭の花々も豪華、というよりは可憐で慎ましやかなものが多かったが、それが邸宅とうまくはまっている。


「さあどうぞ」


 門扉へ先回りしていたシンディが入るよう促す。

ギィと鉄製の蝶番が軋む音がして、小さな子どもが入れる程度に開ける。

 するとサンルームの方から、誰かの影が差した。


「やあ、いらっしゃい」


 サンルームの縁に立つセリウスが、そっと手を挙げて声をかけた。

 淡い光を受けた銀白の髪が、静かな風に揺れている。


 ローワンは胸がきゅっとするのを感じながら、深々とお辞儀した。

 その横で、シンディがくすくすと笑う声がした。





 

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