Prologue 林のむこう
朝の林は、まるで誰かの秘密を隠しているように静かだった。
春と夏のあわい、朝露に濡れた雑草に足を取られながら、少年は愛猫を追いかけている。
「ルナ!こら、待て…っ!」
銀灰の毛並みが朝日にきらめく。
ルナと呼ばれたその猫は、振り返っては少年をからかうように鳴き、やがて雑木林を抜け、小高い漆喰の塀の前で立ち止まった。
「そんなとこ行ったら、また怒られるよ……!」
ローワンは枝をよけながら駆け寄る。
この塀の向こうは“他人の領地”——母にそう言われていた。
普段なら絶対に近づかない場所だったが、ルナはそんなことおかまいなしに、風のように軽やかに塀を越えてしまった。
しばらく逡巡した末、少年は好奇心に背を押されるように塀へ手を掛けた。
苔に滑りながらも、なんとか登り切ると、瓦の上にまたがって座りこむ。
さて、ここからどう降りようか——そう思いながら顔を上げた。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
陽光を浴びてきらめく噴水。
その周りを彩る花々。
まるで誰かの手で描かれた小さな楽園。
楓の枝葉の隙間からのぞいた光景に、少年の心は否応なしに惹きつけられた。
次の瞬間、支えにしていた手がずるりと滑った。
——しまった。
気づいた時にはもう遅い。
身体は右に傾き、あっという間に背中から落ちた。
「……いたた……」
幸い頭は打たなかったが、背中を強く打ち、しばらく動けない。
彼は仰向けのまま、風に揺れるメープルの葉を見つめた。
木漏れ日がちらちらと体に降り注ぐ。
頬を撫でる風は涼しく、痛みよりもむしろ眠気が勝って、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
「まあ、どこから来たのかしら?」
「それにしても、よく眠っているわねえ」
鈴のように澄んだ声がして、ローワンは目を開けた。
陽はすでに高く、体は汗ばんでいる。赤毛の女性が心配そうに覗き込んでいた。
「ああ、よかった。お目覚めになったのね」
「……あ、ごめんなさい、僕……っ痛っ!」
慌てて起き上がろうとした瞬間、腰に鋭い痛みが走る。
「まあまあ、無理に動かないで。怪我をしているのね?」
女中服の女性たちが数人、心配そうに顔を見合わせている。
どうやらこの屋敷の従者らしい。
彼女たちは邸の方を振り返りながら、どうするべきかと戸惑っていた。
やがて遠くから、老人のしわがれた声が響く。
「おーい!」
現れたのは痩せた老人と、その後ろに日傘を差した背の高い男。
「動けないのか?」
男がそばにしゃがみ、覗き込む。
(……きれい……)
間近で見上げた顔は、息を呑むほど整っていた。
淡い光を受けて、髪が絹糸のようにきらめいている。
「塀から落ちたのだろう? どこが痛む?」
男は、ローワンの手に残る苔を優しく払いながら問う。穏やかな声に、ローワンはただ見惚れて動けなかった。
「どうしたんだ……?」
軽く肩を叩かれて、はっと我に返る。
「あっ、ごめんなさい!あんまり綺麗だから……」
ぽろりと出た言葉に、男の眉がわずかに上がる。
次の瞬間、女中たちと老人がどっと笑い声を上げた。
「あの、ごめんなさい、悪気はなくて、その……」
真っ赤になって弁解する少年を気にも留めず、男は静かに言った。
「確認してもいいだろうか?」
頷くと、男はローワンのシャツをそっと捲り、冷たい指先で背中をなぞる。
ひやりとした手のひらが患部に触れたかと思うと、そこからぬるま湯のような温もりがじんわりと広がっていく。
痛みが、薄紙をはがすように消えていった。
「……あ、痛くない」
驚くローワンに、男はわずかに微笑んだ。
「腫れてはいるが、ただの打撲だろうね。すぐ歩けるようになる。」
「どうやったの?…ですか?」
あまりの驚きに、言葉が少しつかえる。
「少し力を使っただけだよ。多少は痛みが和らいだろう。炎症も二、三日で引く。」
——癒しの力。
この国に伝わる創生神・大地の女神エルメリアの涙より生まれし子、“ティアベアラー”。
その聖なる力を継ぐ者が今もわずかに存在すると言われている。
だが、十一歳のローワンにとって、それはただのおとぎ話でしかなかった。
まさか自分が、その“奇跡”を受けることになるなんて。
「あの、ありがとうございます。……勝手に入ったうえに助けていただいて……」
「いいさ。理由があったのだろう?」
男は優しくそう言い、手を差し出す。
「立てるかい?」
その手を取り、立ち上がる。
腰の痛みは、もうほとんど感じない。
「すまないが、日差しは少し苦手でね。話なら中で聞かせてくれないか?君も少し涼んだほうがいい。……無論、嫌でなければ。」
陽の光を溶かすような水色の瞳に見つめられ、ローワンは息を呑む。
そして、小さくうなずいた。
ローワンは、透き通るような光に包まれた部屋の中にいた。
庭の片隅、藤の花が咲き乱れるパーゴラから続くサンルームは、明るくもどこか静謐な空気に満ちている。
硝子越しに外の花壇が霞むように見え、蔦の絡む白い柱の奥には、古びた鉄細工の椅子と卓が置かれていた。
控えめな香草の香りと、どこか金属の冷たい匂いが混ざって漂っている。
男の名はセリウスといった。
長い白銀の髪をゆるく束ね、薄く色の入った眼鏡の奥に、青空を閉じ込めたような瞳を持つ。
色素の薄い容貌にもかかわらず、貧弱な印象を与えないのは、均整の取れた体躯のせいだろう。
セリウスが斜向かいの一人掛けに腰を下ろし、眼鏡を外す一連の動作を眺めながら、ローワンも長椅子に腰を下ろした。
縮こまって座る少年の前に紅茶を置いた赤毛の女中は、にこやかに声をかける。
「どうぞ」
「それで、門扉から入らない理由でも?」
紅茶が置かれるのを待って、セリウスが揶揄うように問う。
「その……僕の猫が、あなたのお屋敷へ入っていってしまって」
ローワンの弁解に、セリウスは何か合点がいったように「なるほど」と頷いた。
「シンディ、あの猫にはやはり飼い主がいたようだよ」
セリウスの話では、ルナは以前から時々この庭に来ていたらしい。
赤毛の女中シンディによれば、ちょうどサンルームから見える噴水のそば――古びたベンチの下がお気に入りで、そこで昼寝をしてはまたふらりと去っていくのだという。
首のリボンから飼い猫だとは思っていたが、何度も見かけるうちに愛着が湧き、つい餌をやってしまったらしい。
「ほんとうにすみません。人様の猫だと分かっていながら……」
頭を深々と下げるシンディに、当主のセリウスも「私からもすまない」と続けた。
「いいえ、気にしないで。もとをただせば、うちの猫がお邪魔していたのですから。それに、僕まで助けていただいたのですし」
ローワンはお茶を一口含む。
自分の家からそう遠くない場所に、こんな景色が広がっていたなんて——今日まで知らなかった。
ルナを追わなければ、きっと一生知らずにいたかもしれない。
そんなことを考えていたとき、ふと視線の端を何かが掠めた。
サンルームの外。陽光の中。
花壇の縁を、銀灰色の毛並みがゆるやかに歩いている。
「……ルナ!」
少年の声が跳ね、セリウスが窓の外へと目をやる。
ガラス越しに、猫がしなやかに尾を振った。
青いリボンの首飾りに、小さなペリドットのチャームが陽を受けてきらめいている。
「っ、ごめんなさい、ちょっと失礼しますっ!」
ローワンはそれだけ言って立ち上がり、ベンチの下に横たわる猫のもとへ駆けていった。
それに続くように、セリウスもゆっくりと腰を上げ、眼鏡をかけ直す。
開け放たれたサンルームの扉から、初夏の風が吹き込み、男の頬を掠めてゆく。
その瞳はまた、やわらかに細められていた。




