先生になってよ
その夜、夕飯をとってもベッドに入っても、ローワンの心は理想と現実の狭間でぐるぐると彷徨っていた。
(僕は……なんて浅はかなんだろう)
自分が“学べた側”であることを、初めてこんなにも痛い形で思い知らされた。
知らぬまま苦しむ子どもたちの前で、ただ「こうあるべきだ」と語った自分が恥ずかしかった。
(なのに僕はきっと、セリウス様にこの話をするんだ。情けなくも、なんとか知恵をもらえるんじゃないかって期待して)
悔しさが込み上げて、にじんだ涙を枕に押しつけた。
ローワンはその夜初めて、悔しくて泣いた。
*
翌日の午後、ローワンはやはりセリウスの元へ来た。
セリウスはしばらく書き物に集中していたが、ふと顔を上げると、いつもと少し様子の違う少年に書いていたペンを止めた。
「具合でも?」
つい口にしてから、セリウスは自嘲気味に眉を寄せた。
「……ああ、すまない。最近どうも、誰にでもこう聞いてしまってね」
ダンテの母の件以降、町の人間からの相談を受ける事が増えていた。
ローワンは「大丈夫です」と笑って返した後、少し逡巡し、もう一度口を開いた。
「あの、お願いが…あるんです。」
少年は、今度はしっかりとセリウスの瞳を見据えて話し始めた。
「セリウス様は僕にこうして色々と教えてくれるでしょう?……だけど、きっとみんなも同じじゃないかって、もっと知りたいこと、知らなきゃいけないことがあるんじゃないかって思うんです」
言葉が早くなり、セリウスは軽く目を見張る。
ローワンもハッとして咳払いを一つ。今度は落ち着いて続けた。
「村の作物の値段、商人に騙されていたんです。
……でも、誰も気づいていませんでした。自分たちが作ったものの価値を、ずっと、他人任せにしていたんです」
少年の表情は感情をごまかさない。
怒りでも悲しみでもなく、ただ、真っ直ぐな“悔しさ”だけを滲ませていた。
「つまり、村の者たちにも知識が必要だと」
セリウスは驚いたように、しかしどこか嬉しそうに笑った。
この少年は、いつもそうだ。
誰よりも小さな存在でありながら、誰よりも大きな未来を語る。
そして、自分ひとりでは届かないと悟れば、迷いなく誰かに手を伸ばす。
——それを恥じない強さを、この少年は持っている。
本当に、この子は。
「それで、私は君に何をしてあげられる?」
その一言で、ローワンの瞳にぱっと光が戻った。
茜色が星をはじくように揺れ、まっすぐセリウスへ向けられる。
「先生になってください!」
机の上に置かれた紙に、小さな黒点が落ちた。
セリウスの手からペンが、軽い音を立てて滑り落ちたのだ。
「……私が?」
「ええ。皆は知らないことが多いです。でも、セリウス様が教えてくだされば……みんな、もっと強く、優しくなれると思うんです」
その言葉に飾り気はなかった。
まるで澄んだ水のように、そのまま心の奥へ届いてしまう。
セリウスは、こみ上げるものを抑えるように小さく息を吐いた。
「君は時々、私に無茶を言うね」
「そうかもしれません」
ローワンは恥ずかしそうに微笑み、けれど視線はそらさない。
「でも……無茶を言ってもいい相手がいるって、すごく、幸せなことですよね」
セリウスは思わず目を伏せた。
片手で顔を覆うと、堪えきれずクツクツ笑う。
「……まったく、恐れ入るよ」
そう言ったセリウスは、指の間から少年を見つめると、ふっと息を整えた。
「実はね、私にも考えていたことがある。
領主様に、一度お目通りできないだろうか?」
彼の静かだが、しっかりとした眼差しに、ローワンは一瞬息を忘れて、すぐに「もちろん!」と笑った。
その夜、彼は机に向かい手紙を書いた。
筆を置いたセリウスは、静かに呟いた。
「これは、贖いではなく……希望の始まりであってほしい」
セリウスは胸に手をあて、そっと目を閉じた。
夜風がオリーブの葉を震わせ、暗闇の中に微かな光が差し始めていた。
*
それから数日後のこと。
セリウスはローワンと共にローワンの家を訪れた。
彼が温めてきた“学びの場”の提案を、領主であるリディアに伝えるためだ。
家の門をくぐり、敷地の、小さな石畳を歩いていく。
ちょうど玄関脇の回廊から回り込むようにして、リディアが姿を現した。
「母さん!」
ローワンが手を振る。
リディアはその声に振り向き——そして、ローワンの後ろに立つ影を見た瞬間、わずかに表情を止めた。
それは、息を呑むほど一瞬のことだった。
驚きとも、懐かしさとも、押し殺した痛みともつかぬ、複雑な色が彼女の瞳をかすめる。
ローワンは、それを“違和感”としてだけ感じ取った。
(……なんだろう?)
セリウスに目を向けると、彼もまた、ほんの僅かに胸の奥が揺れたような顔をしていた。
かつて失われたと思っていた面影、その原点がそこに立っている——そんな確信にも似た感覚が、静かに彼の中に広がる。
だがリディアはすぐに微笑んだ。
穏やかな領主の顔で、柔らかく。
「ようやくお会いできましたね。息子からも、町の皆さんからも、あなたのことは聞いております」
ひどく自然に聞こえるけれど、その声の奥には、揺れがあった。
“リディア”として生きるために押し込めてきた多くのものが、ふいに胸を叩いたのだろう。
「ローワン、先に行って婆やにお茶の準備をお願いしてきてくれる?」
「わかった!」
風がひとつ、回廊を抜けた。
その音の中で、リディアはゆっくりとセリウスへ向き直る。
扉が軋んで閉じる音とともに、ローワンの気配が家の中へ消えていった。
リディアは細い肩をわずかに揺らしながら、その背中を見送っていたが、やがてゆっくりと振り返った。
「……あの子に、何を望むのです、セリウス」
セリウスはリディアの問いにすぐには答えず、静かに彼女の姿を見つめた。
「……生きておられたのですね」
驚きよりも、妙に静かな確信が胸に満ちていた。
ローワンの面差しが、アルヴェルにもアーサーにも——そして先代国王にも重なっていた理由が、ようやく一つに結びついたのだ。
「王妃リディアは死んだのよ。…今は、ただのリディア」
真っ直ぐにセリウスを見つめる瞳には、哀愁でも不安でもない、長い年月を抱えてきた者だけが宿す静かな光があった。
その奥に触れようとした瞬間、セリウスはふと胸の内で立ち止まる。——彼女は、自分には想像もできない覚悟を抱いて、この地に立っている。
いま言葉でその深淵を揺らすべきではない、と。
「望み、と仰いましたね」
静かに息を整え、セリウスは続けた。
「ひとつあるとするなら……もし彼が自分の理想を成すために必要とするなら、私ができる限りの手を貸したい。それだけです」
言葉は淡々としているのに、不思議と強い。
まるで迷いの影すら寄せ付けないように。
「あの子が自ら求め、進む道を——誰も阻むことはできない。私はそう感じています」
たとえそれが、彼が世界で一番愛する母であっても。
「隠してしまえば、いずれ歪みが生まれます」
セリウスの声音は柔らかいまま、芯だけがはっきりと通っている。
「あの子はいずれ、自分で扉を開ける。知らぬまま済む生ではありません」
「ええ……そのとおりね」
リディアの睫毛がかすかに震えた。
ずっと、迷うことを自らに許さずに生きてきた。
それでもローワンは、リディアの知らぬ間に成長してゆく。守ろうとしてきたはずの手が、彼を閉じ込める鳥籠の様にさえ最近は感じていた。
「けれど私は、それでも願ったのです。愛した人の忘れ形見ですもの。誰にも奪われず、しがらみにも触れず……ただ、ひとりの子として生きてほしいと」
あまりにも小さな願い。
あまりにも切実で、あまりにも脆い願い。
セリウスは、その重さを確かに理解していた。
それでも、毅然と表情を変えることなくリディアを見つめている。
「私は、あなたを見誤っていたのですね」
リディアは、かつて幼き王子の陰で守られていた少年の面影を探すように、セリウスを見つめた。
「幼い頃のあなたは、怯えていて……アルヴェルがいなければ立てない子だと思っていた。でも……違ったのね。あなたはもう、自分の足でここに立っている」
セリウスの瞳には哀しみではなく、誇りでもなく、ただ揺らがぬ覚悟があった。
——ああそうか、同じなのだ。
息子を支え、信じ、守りたいと願う自分と。
守るという名目で閉じてきた扉は、もう閉じてはいられない。鳥籠は、いつか必ず開く。
リディアは目を伏せ、静かに息を整え、そして笑った。
「ローワンを……どうか、あの子のままで進んで行けるよう、助けになってくれますか」
「……お任せください。ローワンのお母さま」
その声は、臣下の返答でもなく——
ひとりの大人として、リディアの願いを受け止めた者の言葉だった。
小春の日差しが二人をやわらかく照らす。
「さあ、入って」
凡そ十二年以来の彼女の笑顔には、あの頃にはなかった年輪が刻まれている。
強く、気高く、それでいてチャーミングな表情や仕草はそれでもやはりあの頃と変わらない。
視界がジワリと滲んで、「今ではない」とセリウスは目頭をそっと押さえたのだった。
*
「セリウス様、子どもの頃母さんに会ったことがあるんですね?」
ローワンは数度目を瞬かせて、二人の顔の間で茜の瞳を行ったり来たりさせている。
セリウスもリディアも少年らしいローワンの仕草にくすくすと笑った。
「ええ、とっても小さい時にね。妖精さんの様に可愛らしくって、小さなナイトがいっつも彼にひっついて守っていたわ」
リディアは懐かしさでつい、昔話をした。
これまで母はローワンが生まれる前の話をしたことがなかったので、彼はとても驚いた。それと同時に母の知らない一面が見えてくすぐったいような喜びが胸に広がっていく。
母は朗らかでユーモアのある女性だが、時折子どもの自分には立ち入らせない壁を作る時があった。笑顔ではあるのに、どこか作り物のような顔をするのは決まって、顔も知らない父親の話か領地の外への憧れを話す時だった。
「あの、では、僕の父親にも……?」
声はセリウスへ向けられているのに、意識の半分以上は隣に座る母へ向いている。
ローワンの胸の奥で、小さく期待と不安がせめぎあった。
セリウスはその揺れを受け止めるように、柔らかく頷いた。
「ああ、もちろん。優しくて思慮深い……とても誠実なお方だった。
君が笑うとね、ふとその面影がよみがえる。とても、よく似ているよ」
ローワンが目を見開く。
けれど、驚きよりも先に、ゆっくりと満たされていくような温かさが胸に広がっていった。
——そんなふうに、誰かが父のことを語るのを聞いたのは、初めてだったから。
「……そう、なんですね」
ぽつりと落ちた言葉は、慎ましく、けれど確かな喜びに震えていた。
リディアは静かに息を吸った。
長い間、胸の奥に鍵を掛けていた記憶が、ローワンの横顔を見てふと緩む。
「ええ。あなたのお父さんは、誇り高くて……とても、強い人だったわ」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
ローワンはその揺れに気づいたが、どうしてか怖さはなかった。
母が語る“父”の姿が、こんなにも優しいものだなんて。
胸の奥がふわりと熱くなって、ローワンは言葉を探すように瞬きをした。
「……聞けて、良かった」
そのひと言に、リディアもセリウスもそっと微笑んだ。
「いけない、しんみりしちゃったわ!
さあ、本題に入りましょ!」
リディアが明るい声で空気を切り替える。ぱちん、と叩いた手の音が部屋の重さを軽く弾き飛ばした。
ローワンはきょとんとしたまま二人を見比べる。
いつか——父のことも、自分のことも向き合わなければいけない時が来るのだろう。
でも、どうか今は。少なくともこの瞬間だけは、目の前の世界をそのまま楽しんでいてほしい。
リディアが胸の奥にそっと隠した願いを、ローワンはまだ知らなかった。




